「やっぱり! 鈴木先輩ってばわかりやすすぎですよぉ。夏休み前、一緒に登校してるの見ちゃったからっ」
「えっと……ち、違うの! 彼氏とか、そういう感じじゃないんだってば」

 確かに雪也くんと二人で出掛けたこともあるけれど、彼氏彼女というような関係ではない。ただのクラスメイトで、それ以上でもそれ以下でもない。その事実に辿りつき、改めて心に大きく広がる重苦しさに息を吐いた。

(この関係に名前が欲しいわけじゃないけど……)

 雪也くんの隣を歩けなくても、友人として傍にいられたらそれでいい。そう思っていたはずなのに、やっぱりいつの間にか欲張りになっていたらしい。雪也くんが私の傍から離れた途端、心にぽっかりと大きな穴が空いたような感覚がする。こんな状態ではこの先に進むことなんてできそうにないし、なによりも、このままでは私自身が潰れてしまいそうで怖い。

「そうなんですかぁ? てっきり、彼氏さんなのかと思ってました」
「ただのクラスメイトだよ」

 私はそう言って小さく笑って見せたけれど、山口さんは納得がいかないといった様子で唇を尖らせている。そんな彼女に苦笑しつつ歩みを進めていると、いつの間にか校舎に到着していたようだ。
 昇降口では部活動に向かうであろう幾人もの生徒たちが靴を履き替えたり談笑したりしている姿が目に入る。私たちも同じように靴を上履きに履き替えると、そのまま美術室に向かって歩き出した。その途中も山口さんはなにか言いたげな様子だったけれど、結局、雪也くんのことはそれ以上追及されることはなかった。
 新館と本館を繋ぐ連絡通路を通り、一階の美術室へと足を踏み入れた。普段は授業でも使用されるため、学習机が並び整理整頓された状態になっているけれど、夏休み中の今の美術室は美術部の活動のためにイーゼルやキャンバスが所狭しと並べられていて、少し乱雑な印象を受けてしまう。
 早い時間だからか、今日は誰もいない。時計を確認するとまだ午前八時過ぎだ。鞄をロッカーの中に置き、中からジャージを取り出して制服のブレザーを脱ぎ捨てる。

「じゃあ、早速準備始めようか」
「は~い」

 ジャージ姿の山口さんと一緒に美術室の奥にある準備室に移動する。そこには画材や資料などが所狭しと収納されていて、油絵で使うニスやペンキ等の乾燥を早めるためのドライヤーなどもある。私は手前に置いてあったカゴを手にすると、その中に絵の具や筆、パレット、そして先日準備した貝殻や流木などを放り込んでいく。
 共同作品の制作は順調に進んでいて、今日は実際に展示する中庭に設置して全体デザインの配置などを考える予定だ。今年の美術部が作っているのはインスタレーション作品で、空間全体を作品として表現するコンテンポラリアート。植えられている樹々の枝を利用して着色した青色の布の幕を張り、校舎から見下ろした際に波打ち際の砂浜や、波の揺らめきのような雰囲気を醸し出す作品となっていて、幕の上にプラスチック片やカラーセロファンを用いて砂浜や波の飛沫を表現し、実際に海で拾ってきた流木などを配置していく予定になっている。

「おはようございま~す……」
「おはよ~」

 準備室から美術室に戻ると、数人の部員が到着していた。今年入部した一年の水無川(みながわ)さんが挨拶をしてきたので、私も微笑んで挨拶を返す。彼女は絵を描くことよりもデザインに興味があるらしく、今回の共同作品をインスタレーションアートにする案を出したのも彼女だった。その他の部員も皆眠そうに欠伸をしながら画材の準備をしていて、私はひとまず腕に下げていたカゴを美術室の入り口に置いた。

「お~。みんなおはよ。早ぇな」

 ガラリと音を立て、扉が開かれる。青いポロシャツを着た顧問の松永(まつなが)先生が眠そうに欠伸を噛み殺しながら入ってきた。私たちも「おはようございます」と挨拶すると、松永先生は気怠げな様子で自らの肩を叩いている。

「進捗はどうだ?」
「今日インスタレーションの方の最終調整をやって、パンフレットのデザインに移れたらなぁって感じです」
「そうか。わかった、じゃぁ俺は生徒会にキャッチコピー聞いてくるわ」
「あっ……お願いします!」

 松永先生はそれだけ言うと、また欠伸をしながら美術室を出て行った。相変わらずやる気の感じられない人だけど、彼は美術の授業を担当する教員でもあるので技術面については確かなものを持ってるし、それになによりも顧問として私たちの話をしっかり聞いてくれるし、察しもいい。そんな先生だからか、部員たちからの評価は上々だ。

「じゃあ、中庭に移動しよっか」

 私がそう言うと、部員たちは皆口々に返事をして中庭に移動を始めた。美術室から中庭までは歩いて数分の距離なので、すぐに辿りつく。中庭に到着すると、私たちは早速作業を始めるために地面にブルーシートを敷き、画材を取り出して広げていった。椅子や脚立を運んだりしていると、部員も中庭にぞろぞろと集まってくる。今の美術部は三年が私だけ、二年が八人、一年が四名の計十三名が在籍しているけれど、今来ているのは半数ほどだ。
 三年生は私だけなので私は必然的に部長を務めているものの美術部は上下関係も緩いのであまり部長らしくないと自分でも自覚している。とはいえ、後輩たちに支えられて部活を運営できているのも事実で、本当にありがたい。

「今日は最終調整として全体的な配置を決めるために、実際に布を張ってみて細かい部分を詰めていきましょう。山口さんは校舎側からちょっと見ててくれない?」
「は~い」

 私の指示に従い、皆が動き出す。山口さんはデザイン画を手に持ち、ふたたび校舎へと向かっていった。部員で美術室いっぱいに広げて着色した布を広げていると、水無川さんが脚立を持ってきて、広葉樹に立てかけていく。
 準備を進めていると、どこからか微かに音楽が聞こえてくる。文化祭では吹奏楽部がマーチングを披露することになっているので、彼らがいつも通り校舎前のロータリーで練習しているのだろう。
 山口さんが校舎の三階の窓から顔を出したので、私は手を振って合図を送る。脚立に昇って布の端を枝に括り付けてはおりて、また別の場所に移動し同じ作業を繰り返していく。

「どう?」

 校舎から見下ろしている山口さんに向かって声を張り上げると、彼女は少し考えた後で口を開いた。

「その、最後の角……もうちょっと左……かもです」
「このくらい?」
「はい! あっ、でもでも、もうひとつ左の木の枝のほうがいいかもしれないです」
「あ~確かに。この位置だと……校舎から見た時に葉っぱで見えなくなっちゃうのかな」
「そうなんですよぉ。だから、もう少し左のほうが良いかなって」

 山口さんの指示に従ってまた脚立を動かし、布の位置を調整する。黙々と手を動かしていると、時折悪戯な風が私たちの周りを吹き抜けていった。

「ん~……ちょっと見えづらいかも」

 布を枝に括り付けていく作業はなかなか難しい。既に何か所かを括り付けており、宙に浮いた布が風に揺れるせいでどうしても手元が固定しずらくて、何度もやり直しているせいですっかり腕が疲れてしまった。

「鈴木先輩、変わりますよ?」

 私の動作がおぼつかなくなってきているのを察したらしい水無川さんの言葉に甘えて、こくりと頷いて場所を交代することにした。

「ありがとう」
「いえいえ」

 水無川さんはにこりと微笑んだ。私がゆっくりと脚立を降りると、水無川さんが脚立に足をかけていく。彼女が一段上るごとにぐらつく脚立に手を添えてバランスを取ると、枝に手を伸ばした水無川さんは手際よく布を枝に括り付けていく。私はその作業を眺めながら小さく息を吐いた。

「オッケーです! いい感じ! 海岸が切り取られたみたいできれい!」

 頭上の山口さんが興奮した様子で目を輝かせている。私は安堵の息をつくと、脚立に登って固定作業をする水無川さんを見上げた。

「よし! じゃ、流木とかの位置を調整しましょう」

 私は絵の具などが入ったカゴを手に取って脚立の上の水無川さんに手渡すと、彼女はそのカゴを腕にかけ、もう一段ゆっくりと脚立を上った。その瞬間、ぐらりと脚立が大きく傾いた。

「あ……!」

 水無川さんの身体が宙に投げ出される。その光景は、なぜかひどくゆっくりとして見えた。一瞬が何時間にも感じられたような錯覚に陥るものの、我に返った私は反射的に水無川さんの腕を掴もうと手を伸ばした。その手が水無川さんに届くより先に、脚立が地面にぶつかり大きな音を立てる。

「先輩っ!」
「水無川さん‼」

 山口さんや他の部員の悲鳴のような叫び声が聞こえる中、カゴの中の絵具や貝殻、流木たちが宙に放り出されていることを視界の端で捉える。それらは重力に逆らわず、こちらに向かってまっすぐに落ちてくる。

「っ……!」

 太陽の光を受けた貝殻がきらりと静かな光を帯びた。次の瞬間、私の視界は真っ暗になり、それと同時に焼けるほどの痛みが顔全体に広がる。そして、背中に鈍い衝撃が走り、一瞬だけ息が詰まった。

「きゃぁああっ‼」
「先輩! 鈴木せんぱぁいっ‼」

 耳鳴りが酷い。誰かが私の名前を呼んでいるような気がするけれど、まるで靄がかかったようにその声がくぐもって聞こえる。

「誰か松永先生呼んできて!」

 こめかみをつぅと流れる生暖かい液体。瞼を開けているはずなのに視界にはなにも映らない。まばたきをしようと目に力を入れると、まるで鋭利な刃物で刺されたかのような鋭い激痛が走った。

「いっ……!」

 あまりの痛さにぎゅうと目を瞑ると、ゴロゴロとした違和感が目の奥に広がっていく。痛みのせいで上手く呼吸ができない。まるで空気を吸い込もうとする度に喉が焼けるように痛むのだ。あまりの息苦しさに身体を捩るけれど、それがさらに痛みを助長させるようで、私は衝動的に手のひらで顔を覆った。ぬるりとした感覚がひどく不快だ。
 私は――一体どうしたんだろう。なぜ、こんなにも身体が重くて怠いのだろうか。
 なにかを喋ろうとしても声が掠れていて上手く言葉にならない。まるで水中にいるかのように息が苦しくて、意識がぼんやりと霞んでいく。腕も背中もお腹も、そして頭もズキズキと疼痛が走り思うようにならない。

「鈴木先輩……!」

 水無川さんの今にも泣きそうな声が耳に届く。私の頬に手を添えた彼女のその指先は氷のように冷たくて、ガタガタと震えているのを感じる。

(私……このまま死ぬのかな……)

 もう――あの鮮やかで幻想的な夕焼けを、二人で見ることは叶わないのだろうか。
 痛みのせいか、思考が上手くまとまらない。痛む瞼に力を込めて持ち上げたけれど、そこには真っ赤な暗闇しか広がっていなかった。

「鈴木!」

 大きな足音と松永先生の声が耳に届いた。普段の気だるげな様子からは想像もできない、ひどく強張った声だった。

「鈴木、大丈夫か⁉ しっかりしろ‼」

 松永先生が私の顔のすぐ上にいることがわかった。でも、松永先生がどんな表情をしているのか確認することはできないし、声を出そうとしても息苦しくて呻き声を上げることすらままならない。私はどうにか返事をしたくて口を開閉するけれど、零れ落ちるのはひゅうひゅうという浅い息の音だけだった。

「誰か保健室からタオル持ってこい!」
「は、はい!」

 松永先生が誰かに指示を出す声とともにバタバタと動き出す複数の足音が聞こえる。それでも、もう身体に力が入らなくて、瞼を持ち上げていることすら億劫になりかけていた。

(ゆきや……くん……)

 真っ暗な視界の中にぼんやりと浮かんだ雪也くんの笑顔が、私に向かって手を差し伸べる。その手を握り返したいのに――ゆっくりと、彼の姿が闇に滲んで、消えていった。