薄雲が膜を張ったような空に、ひらひらと桜の花びらが舞っている。このところの寒さで開花が遅れていたが、今日は春の陽気に包まれて一気に花開いたようだ。昇降口のガラス越しに見える淡い景色を見つめ、俺は小さくため息を吐いた。

「進路……なぁ」

 中学三年の時の担任に勧められるがまま高校に進学した俺は、順当に進級し、気が付けばこうして三年の春を迎えていた。午前中の始業式後のホームルームで配布されたGW明け締め切りの『進路希望調査【最終】』と書かれたプリントを鞄に押し込もうか少しの間迷ったあと、進路調査の紙を四つ折りにしてブレザーの内ポケットに仕舞い込む。

(どうせ俺に就職以外の選択肢なんて無いんだし)

 そうだ、困る必要なんて一つもない。身寄りがなく国に保護されている自分は、高校卒業後は経済的にも自立を目指して就職する以外の選択肢は残されていない。現に、これまで数度行われた希望調査でも俺は『就職』を選択している。
 もちろん、様々な団体が実施している支援や奨学金、貸付制度を活用して一人暮らしと勉学を両立する術もないことはない。ただ、それに寄りかからない理由は、そうした組織の人たちと関わることが面倒だとかそういう事ではなくて、ただ単に進学する必要性を感じないからだ。
 元々なりたい職業も、夢も無かった。高校への進学を決めたのだって、親代わりをしてくれている職員たちが高校ぐらいは出ておけと言ってくれたからだった。

(ほんと……嫌になる)

 皆当たり前のように夢や目標をもっていたり、それに向かって頑張っていたりするのに、俺は皆と違う。施設で育った俺は、その生い立ちから『普通の人』とは少し違う人生を送ってきたと思う。同じ生き物なのに『お前』だけが劣っているのだと言われているような気さえして、こうしてたまに、どうしようもない孤独感に襲われる。
 だからせめて、俺以外の人たちと同じようになれるように努力しなくてはいけない。いつまでも憐れまれる側ではいられないのだから。

「あ……えっと、鈴木(すずき)……くん?」

 ふと俺の思考を断ち切るようにして、高く透き通った声が鼓膜を揺らした。顔を上げれば、目の前には高い位置でポニーテールにした長く美しい黒髪を風に靡かせる少女が立っていた。艶やかな黒髪と頬にほんのり差した赤が優美で綺麗だ。

「……雪也(ゆきや)でいい。お前も苗字『鈴木』だろ」

 この高校は総合学科しかなく、授業も自分で好きな科目を選ぶことができるので、同じクラスになっても知らない顔はザラにある。それでも、クラス替えで初めて同じクラスになったとはいえ自分と同じ苗字だということもあり、彼女の顔と名前はいの一番に覚えた。クラスメイトを呼ぶのに自分の苗字を口にするのは、俺自身もむず痒いものがある。
 俺の言葉に彼女は一瞬驚いたような顔をしたものの、すぐに口元を綻ばせた。

「あ、うん……じゃあ、雪也くんって呼ばせてもらうね。私も若葉(わかば)って呼んでもらっていいから」

 若葉は名前で呼ぶことに慣れていないのか、少しだけ戸惑いを滲ませながらも少し照れくさそうに微笑んでいる。花が咲くような笑顔とはこういうことを言うのだろう。その表情になぜか胸が高鳴るのを感じて視線を逸らすと、彼女の手が靴箱に伸びていることを視認する。どうやら俺と同じく下校するところらしい。

「雪也くん、靴箱隣なんだね。これから一年、よろしく」

 自分の名を呼ばれることがなぜか妙にくすぐったくて、俺は短く「ん」とだけ返事をした。若葉は履き替えたローファーのつま先をトントンと整えていく。なんの気なしにその動きに目を遣れば、彼女はそのままこちらを振り返るようにして微笑んだ。

「雪也くんって部活とか入ってないの?」
「いや……なにも」
「そうなんだ。私は美術部に入ってるんだ」
「へえ……」

 彼女と初めて交わす会話は、至極ありきたりなものだった。『部活に行かなくていいのか』と問いかけようとした刹那、胸元に生じた違和感に言葉を飲み込んだ。酸素を求めて浅く呼吸を繰り返すが、その度気道がヒューヒューと嫌な音を立てた。

(また……)

 このところ頻繁に起こるようになった喘息のような症状にぐっと唇を噛む。若葉は急に黙り込んでしまった俺に気が付いたのか、少し眉尻を下げてこちらを覗き込んできた。

「どうしたの?」
「……いや。ちょっと喉が詰まっただけ」
「そっか。この時期、黄砂とかもひどいもんね」

 さらりとした声音は、快活そうな彼女の見た目に調和していて、ひどく心地よい。第一印象通り彼女は話しやすくて、そしてころころと表情を変えていく人間だった。その変化をもっと見ていたいと思う反面、この症状のことをあまり他人には知られたくないという心理が働いて、彼女と距離を取ろうとしてしまう自分がいる。

「雪也くんっていつもこの時間に帰るの?」

 俺みたいな奴と話してくれるのは、きっと彼女が優しいからなのだろう。正直あまり好ましくない態度で接してしまったのに、彼女はそのことを全く気にする様子は見せない。

「まあ……大体」

 俺はそう短く声を返した。普段から一緒に登下校をするような友人もいないし、部活にも入っていないので、必然的にこの時間帯になる。靴を履き替えて昇降口を出ようと歩き出すと、若葉もそれに続いて俺の隣に並んだ。

「そっか。いつも誰と帰ってるの?」

 若葉はそう言いながら、俺の顔を覗き込むように見上げてくる。今日は特に結われていない彼女の長い黒髪がさらりと揺れて、薫風にさらわれたその毛先が鼻先を掠めた。どくりと鼓動を刻んだ心臓に気が付かないふりをしながら、俺は視線を逸らして答えた。

「別に……一人で帰ること多いけど。その、お前は今日は部活行かねぇでいいのかよ」

 女子と隣合って歩くことに慣れていないからか、なんとなくどぎまぎしてしまう。俺が少し詰まりながらもそう返せば、若葉は少しだけ苦笑いに近い表情を作った。

「あ、うん。明日校内模試があるでしょ? だから、三年生はお休み」
「ふぅん」

 若葉に倣うように靴を履き替えて昇降口を出れば、桜が散り始めた校庭には下校する生徒が多く見られた。花壇に植えられたパンジーやチューリップも色鮮やかで綺麗だ。
 まだ少し肌寒さは残るものの、柔らかな春の陽ざしが頭上から降り注いでくる。若葉の背中に流れる黒髪やプリーツスカートの裾がふわりふわりと揺れている様子が視界の端に映り込む。ふいに甘い花のような香りが漂ってきて、なんだか落ち着かない気持ちになってしまった。それを誤魔化すように俺は軽く咳払いをした。
 桜の絨毯を踏みしめながら門の方へ向かって歩いていく途中、門の方から「あ!」という明るい声が聞こえてくる。

「若葉! 今から帰り?」

 声のした方に視線を向けると、そこには近隣の進学校の制服を着た二人の女子が立っていた。一人は黒髪のロングヘアで、もう一人は茶髪のボブカット。先ほどの親しげな様子から、若葉とこの二人はどうやら知り合いらしい。小学校、あるいは中学校が同じだったのだろうか。

「あ……うん」
「じゃ、一緒帰ろ!」

 彼女たちに声をかけられた若葉はわずかばかり戸惑いながら、俺の方をちらりと見遣った。流れで一緒に帰っているから気を遣ってくれているのだろう。俺はその視線に応えるように軽く手を挙げてみせる。

「俺、帰る前に寄るところがあるから」

 そう口にしてから、あまりにもぶっきらぼうな言い方になってしまったような気がして、少しだけ後悔した。けれど若葉はそんな俺の物言いにも気を悪くする様子は無く、小さく手を振ってくれた。

「じゃあ、またね」
「ん」

 俺が軽く手を挙げてみせると若葉は嬉しそうに笑い、そのまま二人に合流するべく走り出した。若葉のその軽やかな背中を見送りながら、俺は細く長い息を吐いた。
 普段ならこのまま帰り道を一人で歩いて帰るだけだというのに、今日はなぜか彼女の去りゆく後ろ姿が心に小さな隙間風を吹かせたような心地だった。