◇ ◇ ◇
早朝は薄暗かった街も、日が昇り始めるとあっという間に明るくなっていく。カーテンを閉めていても、外から光が差し込んでくるのがわかる。その眩しさにぐっと眉根を寄せながら、私は枕元のスマホに手を伸ばした。
「……」
今日も――雪也くんから返信が来ていない。私は小さくため息を吐いて、スマホの画面を伏せる。もう何度同じ動作を繰り返したか分からないが、どうしても期待と不安が入り交じり、メッセージアプリを開いては閉じるという無意味な行動を繰り返してしまう。
「結局……既読、ついてないし……」
雪也くんからの連絡が途絶えて、もう一週間近く経っていた。明後日から二学期が始まるというのに、こんな風に雪也くんと連絡が取れないまま夏休みが終わってしまうなんて思いもしなかった。胸の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちのまま、私はのろのろと身体を起こす。
(たぶん……就職試験に向けて頑張ってるんだよね……)
日を分けて送ったいくつものメッセージが既読にすらならないのは、きっと雪也くんが集中したいからだろう。雪也くんは今、大事な時期なのだ。そう思おうとしても、どうしても不安の方が勝ってしまう。
もし、雪也くんからの連絡が途絶えた理由が私にあるのなら――そう考えると怖くて堪らない。
(あの日……お腹が空いてないのに、無理矢理アイス食べに行ったから? それとも……夕焼けが見たいって、ワガママ言っちゃったから……?)
考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。私はベッドの上で膝を抱えて身体を小さく丸めた。不安と悲しみが胸の中に広がっていくのを感じつつ、膝の上に額を押し付けるようにして俯いた。
(私……嫌われちゃったのかな)
じわりと目頭が熱くなり、視界が滲み出す。それでも、嗚咽だけは漏らすまいと必死に唇を噛み締めた。
「……っ」
目元を指先で拭い、ぎゅっと強く目を閉じる。泣くな、泣いてもなにも変わらないからと自分に言い聞かせて深呼吸をした。
(このまま……)
雪也くんに――なにも言えずに終わってしまうのだろうか。そんな未来を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。怒らせたのなら謝りたいし、デートに誘っていたことが迷惑だったのならそれも謝るし、せめて最後に一言だけでもいいから、ちゃんと感謝を伝えたい。
そう思ってはいても、連絡がつかなければどうしようもなかった。私はまたひとつ、大きなため息を落としてしまう。
(少し早いけど……部活に行こう)
時間は早いが部室に行けば誰かがいるはずだし、きっと文化祭に出す共同作品の作業も捗るだろう。ゆっくりとベッドから降りて立ち上がり部屋のカーテンを開けると、窓から眩しいくらいの朝日が差し込んできた。瞳を焼く光に目を細めつつ視線を上げれば、空は雲ひとつなく澄み渡っている。
雪也くんと初めて言葉を交わしたあの日も、こんな風によく晴れた青空が広がっていたなと思い出す。なんてことは無い、本当に日常のひとコマに過ぎなかったけど、今でもあの日のことを思うと、心のどこかがぽっと暖かくなるような気がしてくる。
美大を志していた私は美術分野の授業ばかり選択していて、この二年間、クラスも違う雪也くんとの接点はまったくなかった。けれど、元々雪也くんのことは高校の入学式で見かけたことがあったし、定期テストのたびに貼りだされる成績上位者の中にいつも彼の名前があったので、一年生の時から一方的に知っていた。あの頃の私は、ただ「すごい人だな」という印象を抱いただけだったけれど春のあの日――昇降口で、彼の横顔から目が離せなくなってしまった。彼に惹きつけられたまま立ち止まって見つめていたところで、彼が私の存在に気付いたのだ。
彼は教室内で誰かと話していたりすることもなかったので、初めて雪也くんの声を聞いた時も優しく凛とした声だと思ったし、薄い唇の形が綺麗だと思ったことも覚えている。
(今思えば……一目惚れ、だったのかな)
そしてなによりも、雪也くんは他の男子生徒とは違う空気感を纏う人だった。容姿や所作が整っているとかそういう意味ではなく――言葉を選ばずに言えばどこか『浮いている』ような気がしたのだ。
それからというもの、彼の姿を見かけるたびに自然と目で追うようになっていた。この感情が恋だと自覚するのに時間はかからなかったけれど、淡々とした雪也くんの応対に自分の声が届かなかったときのことを考えてしまい、怖くて一歩を踏み出すことができなかった。
この気持ちを伝える勇気なんてまだなくて、でももっと近づきたくて――一か八か、参考書の話を持ち掛けた。一匹狼の雪也くんのことだから断られるかもしれないという不安はあったけれど、彼は意外にもあっさりと受け入れてくれた。あの時の高揚感は今でも忘れられないし、この先も二度と忘れることはないだろう。
(連絡先を交換できたのも、びっくりだったけど)
欲張りになった私はもっと雪也くんに近づきたいと思うようになってしまった。今思えばひどく大胆な行動だったと思う。あの時日直だと教えてくれたクラスメイトたちからは「彼氏ができたのかと思った」と揶揄われて散々だったけれど、それでも私は雪也くんの時間を独り占めできる口実が欲しかった。
少しはにかんだように笑う彼の表情や、驚いたように目を瞠る面差し、困ったように苦笑いを浮かべている姿まで、いろんな彼の顔を見たい、もっと知りたい――気づけばそんな欲求ばかりが募っていた。雪也くんが私のことをなんとも思っていないのは分かっていたけど、それでもいいから彼の傍にいたいと思ってしまったのだ。
遊びに誘っても断られないから、雪也くんは私のことが『嫌い』ではないのだと思う。友達とは思っていないかもしれないけれど、『興味がない』存在でもない。もし本当にそう思われていたなら、そもそもこんな誘いを受けてくれるはずがない。
(だけど……)
私のこの想像が、そもそも間違っていたとしたら――?
彼と釣り合うような、彼に相応しい女の子になれるようにと精一杯背伸びをしてきたつもりだ。けれど、それが実は逆効果だったのかもしれない。
「っ、」
感傷に浸ってそんなことを考えてしまったからだろうか、またじわりと目頭が熱くなってきたのを感じる。
(ダメ……また泣きそうになってる)
もっと上手に立ち回れたら良かったのに。思考の海をぐるぐると巡る後悔を振り払うように、私は慌てて目元を拭った。
(考えちゃダメ……今できることに集中!)
そう自分に言い聞かせて一度大きく深呼吸すると、少しだけ気分が落ち着いてきたような気がした。ゆっくりとした足取りで部屋を出て階段を下る。リビングからはテレビの音が漏れ聞こえてきていて、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「お母さん、おはよう」
「あら、若葉。おはよう」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた母は顔を上げながらそう言った。穏やかに目尻を下げて微笑む母の表情に、少しだけ心が軽くなるのを感じる。
「ごはん、サンドイッチ作ってるよ」
「ありがとう。いただきます」
母の目の前の席に腰を落とすと、ラップのかけられたサンドイッチがダイニングテーブルに並んでいた。それをひとつ手に取りながら母に声をかける。
「お父さんはもう仕事?」
「ええ、もうとっくに出たわよ」
母は楽し気にくすくすと笑いながら答えた。父は大手メーカーに勤めるサラリーマンで、いつも朝早くから夜遅くまで働いていることが多い。それでも休日は家族サービスもしてくれるし、なにより私のことを大切にしてくれているのが分かるので不満はない。養子縁組制度には、里親の収入についてや一定期間育児に専念できる環境が整うこと等のいくつもの条件があり、それらをクリアするためには相当な労力が必要だったはずなので、むしろ感謝しているくらいだ。それに、予備校に加え画塾にも通わせてもらっているのだから、これ以上わがままを言うつもりもなかった。
「今日の部活は何時くらいに終わるの?」
「ん~、共同作品の仕上げだけだから、あまり遅くならないと思う」
「そう? それなら久しぶりに外食にでも行きましょうか。もちろん三人でね」
「うん!」
「じゃあ、決まりね。お父さんにも伝えておくわ」
母は嬉しそうに微笑みながら席を立つと、そのままキッチンへと歩いて行った。私はその後ろ姿を見送ってから再びスマホに視線を落とす。相変わらず既読のつかないメッセージを見て小さくため息を吐いた後、私は学校へ行く準備を始めた。
玄関でローファーを履き、カバンを持って家を出た。足取りは重いけれど、それでも一歩ずつ前に進むしかない。そんな当たり前の事実を自分に言い聞かせながら、学校への道のりを歩いた。
真夏のぬるい風が頬を撫で、セミの合唱が聞こえてくる。照りつける太陽のせいで全身がじっとりと汗ばみ、首筋に髪の毛が張り付いているのがわかった。それを指で払いながら歩みを進めていく。
「あ! 鈴木せんぱ~い!」
いつもの通学路を歩いていると、不意に背後から明るい声が聞こえてくる。振り返れば、そこには見慣れた人物が手を振りながらこちらに駆け寄ってきていた。
「おはよう、山口さん」
私も小さく笑って挨拶を返すと、彼女は少し照れくさそうに笑いながら続けた。色素の薄い茶色の髪が跳ねるように揺れる様が印象的だ。
「えへへ……先輩を見つけたからつい声かけちゃいました!」
そう言って笑う彼女につられるようにして私も笑みを零す。美術部に所属している部員は全員が全員、私のように美大を目指しているわけではなく、毎日部活に精を出している部員の方が少ない。この夏休みの間だって、来たり来なかったりという部員が大半だった。そんな雰囲気の部活動の中で、彼女はいつも真面目に美術部の活動に取り組んでいる。そして、二年生の中でも特に明るくて人懐っこい性格の子だ。私も彼女のことはとても好ましく思っているし、彼女も私に懐いてくれているようだった。
「今日か明日くらいには共同作品を仕上げて、文化祭のパンフレットのデザインも決めなきゃねぇ」
「そうですねぇ。あっ、生徒会にキャッチコピー決まったか聞きにいかないと!」
他愛もない話をしながら私たちは校舎に向かう。今日の天気は快晴で雲一つない青空が広がっている。
(今日の空みたいに……雪也くんへの気持ちも晴れてくれたらいいのに)
そうすれば――こんな風に不安に押し潰されそうになることもないのに。そんな自分勝手なことを考えてしまい、小さく首を横に振る。
「先輩? どうしました?」
突然黙ってしまった私を心配するように、山口さんは首を傾げて私の顔を覗き込んでくる。私は慌てて首を横に振ると、誤魔化すように笑顔を作った。
「なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
私が慌てて笑顔を取り繕ってそう答えると、山口さんは少し考える素振りを見せた後で口を開いた。
「もしかして……彼氏さんのことですか?」
「えっ⁉」
山口さんの思わぬ言葉に意表を突かれ突拍子もない声が出た。普段は隠せているつもりだったけれど、どうやらそうでもないらしい。顔を真っ赤にして黙り込んでしまった私を見て図星だと思ったのだろう、彼女はぱっと表情を明るくさせた。
早朝は薄暗かった街も、日が昇り始めるとあっという間に明るくなっていく。カーテンを閉めていても、外から光が差し込んでくるのがわかる。その眩しさにぐっと眉根を寄せながら、私は枕元のスマホに手を伸ばした。
「……」
今日も――雪也くんから返信が来ていない。私は小さくため息を吐いて、スマホの画面を伏せる。もう何度同じ動作を繰り返したか分からないが、どうしても期待と不安が入り交じり、メッセージアプリを開いては閉じるという無意味な行動を繰り返してしまう。
「結局……既読、ついてないし……」
雪也くんからの連絡が途絶えて、もう一週間近く経っていた。明後日から二学期が始まるというのに、こんな風に雪也くんと連絡が取れないまま夏休みが終わってしまうなんて思いもしなかった。胸の中にぽっかりと穴が空いたような気持ちのまま、私はのろのろと身体を起こす。
(たぶん……就職試験に向けて頑張ってるんだよね……)
日を分けて送ったいくつものメッセージが既読にすらならないのは、きっと雪也くんが集中したいからだろう。雪也くんは今、大事な時期なのだ。そう思おうとしても、どうしても不安の方が勝ってしまう。
もし、雪也くんからの連絡が途絶えた理由が私にあるのなら――そう考えると怖くて堪らない。
(あの日……お腹が空いてないのに、無理矢理アイス食べに行ったから? それとも……夕焼けが見たいって、ワガママ言っちゃったから……?)
考えれば考えるほど、分からなくなってしまう。私はベッドの上で膝を抱えて身体を小さく丸めた。不安と悲しみが胸の中に広がっていくのを感じつつ、膝の上に額を押し付けるようにして俯いた。
(私……嫌われちゃったのかな)
じわりと目頭が熱くなり、視界が滲み出す。それでも、嗚咽だけは漏らすまいと必死に唇を噛み締めた。
「……っ」
目元を指先で拭い、ぎゅっと強く目を閉じる。泣くな、泣いてもなにも変わらないからと自分に言い聞かせて深呼吸をした。
(このまま……)
雪也くんに――なにも言えずに終わってしまうのだろうか。そんな未来を想像するだけで胸が張り裂けそうになる。怒らせたのなら謝りたいし、デートに誘っていたことが迷惑だったのならそれも謝るし、せめて最後に一言だけでもいいから、ちゃんと感謝を伝えたい。
そう思ってはいても、連絡がつかなければどうしようもなかった。私はまたひとつ、大きなため息を落としてしまう。
(少し早いけど……部活に行こう)
時間は早いが部室に行けば誰かがいるはずだし、きっと文化祭に出す共同作品の作業も捗るだろう。ゆっくりとベッドから降りて立ち上がり部屋のカーテンを開けると、窓から眩しいくらいの朝日が差し込んできた。瞳を焼く光に目を細めつつ視線を上げれば、空は雲ひとつなく澄み渡っている。
雪也くんと初めて言葉を交わしたあの日も、こんな風によく晴れた青空が広がっていたなと思い出す。なんてことは無い、本当に日常のひとコマに過ぎなかったけど、今でもあの日のことを思うと、心のどこかがぽっと暖かくなるような気がしてくる。
美大を志していた私は美術分野の授業ばかり選択していて、この二年間、クラスも違う雪也くんとの接点はまったくなかった。けれど、元々雪也くんのことは高校の入学式で見かけたことがあったし、定期テストのたびに貼りだされる成績上位者の中にいつも彼の名前があったので、一年生の時から一方的に知っていた。あの頃の私は、ただ「すごい人だな」という印象を抱いただけだったけれど春のあの日――昇降口で、彼の横顔から目が離せなくなってしまった。彼に惹きつけられたまま立ち止まって見つめていたところで、彼が私の存在に気付いたのだ。
彼は教室内で誰かと話していたりすることもなかったので、初めて雪也くんの声を聞いた時も優しく凛とした声だと思ったし、薄い唇の形が綺麗だと思ったことも覚えている。
(今思えば……一目惚れ、だったのかな)
そしてなによりも、雪也くんは他の男子生徒とは違う空気感を纏う人だった。容姿や所作が整っているとかそういう意味ではなく――言葉を選ばずに言えばどこか『浮いている』ような気がしたのだ。
それからというもの、彼の姿を見かけるたびに自然と目で追うようになっていた。この感情が恋だと自覚するのに時間はかからなかったけれど、淡々とした雪也くんの応対に自分の声が届かなかったときのことを考えてしまい、怖くて一歩を踏み出すことができなかった。
この気持ちを伝える勇気なんてまだなくて、でももっと近づきたくて――一か八か、参考書の話を持ち掛けた。一匹狼の雪也くんのことだから断られるかもしれないという不安はあったけれど、彼は意外にもあっさりと受け入れてくれた。あの時の高揚感は今でも忘れられないし、この先も二度と忘れることはないだろう。
(連絡先を交換できたのも、びっくりだったけど)
欲張りになった私はもっと雪也くんに近づきたいと思うようになってしまった。今思えばひどく大胆な行動だったと思う。あの時日直だと教えてくれたクラスメイトたちからは「彼氏ができたのかと思った」と揶揄われて散々だったけれど、それでも私は雪也くんの時間を独り占めできる口実が欲しかった。
少しはにかんだように笑う彼の表情や、驚いたように目を瞠る面差し、困ったように苦笑いを浮かべている姿まで、いろんな彼の顔を見たい、もっと知りたい――気づけばそんな欲求ばかりが募っていた。雪也くんが私のことをなんとも思っていないのは分かっていたけど、それでもいいから彼の傍にいたいと思ってしまったのだ。
遊びに誘っても断られないから、雪也くんは私のことが『嫌い』ではないのだと思う。友達とは思っていないかもしれないけれど、『興味がない』存在でもない。もし本当にそう思われていたなら、そもそもこんな誘いを受けてくれるはずがない。
(だけど……)
私のこの想像が、そもそも間違っていたとしたら――?
彼と釣り合うような、彼に相応しい女の子になれるようにと精一杯背伸びをしてきたつもりだ。けれど、それが実は逆効果だったのかもしれない。
「っ、」
感傷に浸ってそんなことを考えてしまったからだろうか、またじわりと目頭が熱くなってきたのを感じる。
(ダメ……また泣きそうになってる)
もっと上手に立ち回れたら良かったのに。思考の海をぐるぐると巡る後悔を振り払うように、私は慌てて目元を拭った。
(考えちゃダメ……今できることに集中!)
そう自分に言い聞かせて一度大きく深呼吸すると、少しだけ気分が落ち着いてきたような気がした。ゆっくりとした足取りで部屋を出て階段を下る。リビングからはテレビの音が漏れ聞こえてきていて、楽しげな笑い声が聞こえてくる。
「お母さん、おはよう」
「あら、若葉。おはよう」
ダイニングテーブルでコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた母は顔を上げながらそう言った。穏やかに目尻を下げて微笑む母の表情に、少しだけ心が軽くなるのを感じる。
「ごはん、サンドイッチ作ってるよ」
「ありがとう。いただきます」
母の目の前の席に腰を落とすと、ラップのかけられたサンドイッチがダイニングテーブルに並んでいた。それをひとつ手に取りながら母に声をかける。
「お父さんはもう仕事?」
「ええ、もうとっくに出たわよ」
母は楽し気にくすくすと笑いながら答えた。父は大手メーカーに勤めるサラリーマンで、いつも朝早くから夜遅くまで働いていることが多い。それでも休日は家族サービスもしてくれるし、なにより私のことを大切にしてくれているのが分かるので不満はない。養子縁組制度には、里親の収入についてや一定期間育児に専念できる環境が整うこと等のいくつもの条件があり、それらをクリアするためには相当な労力が必要だったはずなので、むしろ感謝しているくらいだ。それに、予備校に加え画塾にも通わせてもらっているのだから、これ以上わがままを言うつもりもなかった。
「今日の部活は何時くらいに終わるの?」
「ん~、共同作品の仕上げだけだから、あまり遅くならないと思う」
「そう? それなら久しぶりに外食にでも行きましょうか。もちろん三人でね」
「うん!」
「じゃあ、決まりね。お父さんにも伝えておくわ」
母は嬉しそうに微笑みながら席を立つと、そのままキッチンへと歩いて行った。私はその後ろ姿を見送ってから再びスマホに視線を落とす。相変わらず既読のつかないメッセージを見て小さくため息を吐いた後、私は学校へ行く準備を始めた。
玄関でローファーを履き、カバンを持って家を出た。足取りは重いけれど、それでも一歩ずつ前に進むしかない。そんな当たり前の事実を自分に言い聞かせながら、学校への道のりを歩いた。
真夏のぬるい風が頬を撫で、セミの合唱が聞こえてくる。照りつける太陽のせいで全身がじっとりと汗ばみ、首筋に髪の毛が張り付いているのがわかった。それを指で払いながら歩みを進めていく。
「あ! 鈴木せんぱ~い!」
いつもの通学路を歩いていると、不意に背後から明るい声が聞こえてくる。振り返れば、そこには見慣れた人物が手を振りながらこちらに駆け寄ってきていた。
「おはよう、山口さん」
私も小さく笑って挨拶を返すと、彼女は少し照れくさそうに笑いながら続けた。色素の薄い茶色の髪が跳ねるように揺れる様が印象的だ。
「えへへ……先輩を見つけたからつい声かけちゃいました!」
そう言って笑う彼女につられるようにして私も笑みを零す。美術部に所属している部員は全員が全員、私のように美大を目指しているわけではなく、毎日部活に精を出している部員の方が少ない。この夏休みの間だって、来たり来なかったりという部員が大半だった。そんな雰囲気の部活動の中で、彼女はいつも真面目に美術部の活動に取り組んでいる。そして、二年生の中でも特に明るくて人懐っこい性格の子だ。私も彼女のことはとても好ましく思っているし、彼女も私に懐いてくれているようだった。
「今日か明日くらいには共同作品を仕上げて、文化祭のパンフレットのデザインも決めなきゃねぇ」
「そうですねぇ。あっ、生徒会にキャッチコピー決まったか聞きにいかないと!」
他愛もない話をしながら私たちは校舎に向かう。今日の天気は快晴で雲一つない青空が広がっている。
(今日の空みたいに……雪也くんへの気持ちも晴れてくれたらいいのに)
そうすれば――こんな風に不安に押し潰されそうになることもないのに。そんな自分勝手なことを考えてしまい、小さく首を横に振る。
「先輩? どうしました?」
突然黙ってしまった私を心配するように、山口さんは首を傾げて私の顔を覗き込んでくる。私は慌てて首を横に振ると、誤魔化すように笑顔を作った。
「なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
私が慌てて笑顔を取り繕ってそう答えると、山口さんは少し考える素振りを見せた後で口を開いた。
「もしかして……彼氏さんのことですか?」
「えっ⁉」
山口さんの思わぬ言葉に意表を突かれ突拍子もない声が出た。普段は隠せているつもりだったけれど、どうやらそうでもないらしい。顔を真っ赤にして黙り込んでしまった私を見て図星だと思ったのだろう、彼女はぱっと表情を明るくさせた。