翌朝は、明け方からひどい雨だった。どんよりとした厚い雲が空を覆い、ただでさえ暗い室内の照明がさらに暗く感じられる。そのせいか、今日はひどく身体が重い。
 俺は、相良先生に付き添ってもらいながら近所の小児科を受診していた。待合室は賑やかで、あちこちから泣き声や笑い声が聞こえてくる。ここは施設が提携している病院なので、顔見知りの看護師も多く、なんだか少し安心する。
 相良先生とともに長椅子の端に座って、診察の順番が回ってくるのを待っているうちに、俺は無意識のうちに自分の腹部を押さえていた。気のせいかもしれないけれど、どことなくチクチクと痛むような気がする。

「おい、雪也。大丈夫か?」

 相良先生が心配そうな声音でそう問いかけてくる。その声にハッとして顔を上げると、眉間に皺を寄せた先生の顔が視界に映る。その眉間に刻まれた皺はいつもより深く見えて、少し申し訳ない心持ちになった。

「あ……はい」

 相良先生に笑顔を返そうとするけれど、なぜだか上手く笑えない。それどころか、頭の中が霧がかかったかのようにぼんやりとしている始末だ。どうやら俺は緊張しているようだと自覚すると、さらに焦りが生まれてくるような感じがした。

「ちゃんと診てもらえばきっと大丈夫だ」

 ぽん、と、相良先生の大きな手が肩に乗せられる。その手の温かさに、少しだけ緊張が和らいだ気がした。
 待合室の喧騒が、俺の耳に膜を一枚隔てたように遠くに聞こえる。ぼんやりと宙を見つめていれば、不意にジーンズのポケットに入れたスマホが震えた気がした。

「!」

 慌ててスマホを取り出すと、ロック画面にメッセージアプリの通知が表示されていた。友人という友人がいない俺に連絡をしてくるのは、施設の職員か、もしくはたった一人しか心当たりがない。
 どうして今――こんなタイミングで連絡をしてくるのか。俺は心の中で毒づきながら、通知を開くと、案の定『若葉』という名前が表示されていた。その文字が目に入るやいなや心臓がどきりと跳ね上がり、俺は一気に身体が強張るのを感じた。

(これ以上……深入りしちゃいけねぇ)

 もう若葉とは関わらないほうがいい。もしかすると、若葉は血の繋がった俺の実の兄妹かもしれないのだ。そんな若葉に思慕の情を抱くなんて、禁忌でしかない。これ以上関わりを持てば、お互いにとって不幸になる可能性が高い。
 そう決めたはずなのに――心と身体は裏腹で、俺の指先は吸い寄せられるようにしてロック画面を解除してしまう。

「っ、」

 俺は咄嗟にぐっと唇を噛みしめ、サイドボタンを押してディスプレイを暗くした。そして、そのままスマホをポケットの中にねじ込んだ。

(今は……なんも考えるな)

 そう自分に言い聞かせて小さく息を吐くと、診察室のドアが開く。視線を上げると、相良先生がこちらを見て小さく頷いた。

「行こう」
「はい……」

 俺はゆっくりと立ち上がる。緊張からか、膝が上手く持ち上がらないような感覚に陥る。足が縺れそうになるたびに、相良先生の手が俺の腕をぐっと掴むようにして支えてくれた。その気遣いに、少しだけ心が軽くなるような気がした。
 診察室に入ると、初老の男性医師が穏やかな笑みを浮かべながら出迎えてくれた。そしてそのまま促されるように丸椅子に腰掛ける。

「あらぁ……結構お腹が張ってるね」

 服を捲り上げると、医師は顔を顰めた。そして相良先生が書いてくれた問診票の『腹部膨満感』の文字にチェックを入れていく。俺は小さく頷きながら腹部をそっとさする。

「最近……食欲がなくて……咳も止まらないです」
「吐き気とかはない?」
「……はい。でも、ちょっと……全身がだるくて」

 俺が答えると、医師はふむと考え込むように顎に手を当てる。数拍置いたのち、首にかけた聴診器を手に取り、俺の胸元に当てていく。そしてそのまま俺の身体を上から下までゆっくりと見回すようにしてから口を開いた。

「ちょっとお腹触らせてもらうね」

 そう言って、医師は俺の腹部に手のひらを当ててきた。その瞬間、ずくりと鈍い痛みが走ると同時に全身がぞわりと寒気立つ。

(痛い……)

 ぎゅっと唇を噛み締めて耐えていると、やがて医師の手が離れていくのを感じた。そしてそのままカルテになにかを書き込んでから俺に向き直った。その表情は先ほどよりも真剣なものに変わっており、俺も姿勢を正し医師の言葉を待つ。

「胃腸炎かな。ちょっとレントゲンを撮りましょう。あと、血液検査も」
「はい……」

 俺は小さく返事をして立ち上がる。相良先生もそれに続いて立ち上がり、二人で診察室を後にした。
 看護師に案内されたレントゲン室へ入り、撮影を終えるとそのまま処置室で採血がされる。壁や天井が白い処置室は薬品のツンとした匂いが充満していて少し息苦しい。
 採血が終わると、また診察室に呼び戻された。レントゲン写真を見ながら医師が説明を始めていく。

「これはレントゲン写真なんだけどね、ここと、ここに白い影が映ってるでしょ?」

 医師が指差す箇所を見ると、確かにそこには小さな影のようなものが映っていた。その部分を拡大して見せてくれたのだが、素人目にはよく分からなかった。

「これ、炎症部分。肺炎になりかかってるね。今、就職試験前でしょう? ストレスで肺と胃腸がやられてるんだと思う。ちょっと点滴して様子見ましょう。血液検査の結果も出るから、それ見て薬出すね」
「ありがとう……ございます……」

 医師の言葉に小さく頷きながら、俺は心の中で安堵の息を零す。とりあえずの診断が下されたことに安心した。薬さえ処方されれば、きっと体調も回復するはずだ。

(早く……治さないと)

 就職活動にだって支障が出てしまう。試験日までに面接対策も進めなければならない。早く体調を整えて万全の状態にしておかなければ。適性検査の対策もまだ十分ではないし、やるべきことは山ほどあるのだから、こんなところで立ち止まっているわけにはいかない。俺は小さく首を振って気持ちを切り替える。
 相良先生とともに診察室を出ると、廊下に待機していた看護師に呼び止められふたたび処置室へ通された。

「点滴したら少し楽になると思うよ~。そこのベッドに横になってね」

 看護師の言葉に小さく頷いて、俺は言われるがままにベッドの上に横たわる。すると、看護師が俺の腕に消毒液を塗布し始めた。ひやりとした感触にぶるりと身震いしそうになるが、ぐっと堪えてそれをやり過ごす。

「はい、そのまま楽にしててね~」

 そう言いながら看護師は俺の左腕に点滴の針を刺した。チクリと小さな痛みを感じたが、すぐにそれも引いていく。

「三十分くらいで終わるからね。眠かったら寝てていいから」

 看護師の言葉にこくりと頷き返すと、看護師はゆるりと微笑んで処置室のカーテンを引いた。俺は小さくため息を吐いて目を閉じた。

(ストレス……か)

 確かに、ここ最近は就職試験のことが頭にずっとあって、気が休まるときがなかった気がする。それが体調不良の原因になっているのだとしたら、少し納得できるような気がした。
 大きく息を吐き出すと、ちょうどそのタイミングでふたたびジーンズのスマホがを鈍い音を立てて震えた。思わずビクリと身体を強張らせる。

(見るな……見ちゃいけない……)

 頭の中で警鐘が鳴り響いている。もうこれ以上、深入りしないと決めたのだ。じわりと手のひらに汗が滲む感覚を覚えながら、ぐっと唇を噛んだ。
 先ほどのメッセージも未読無視しているし、これ以上若葉のことを考えてストレスを感じるのはよくない。俺は唇をきつく結び直し、針が刺さっていない右腕で顔を隠す。

(少しだけ……眠ろう……)

 そうすれば、きっと少しは楽になるはずだ。胸の奥に潜む痛みも、発熱に似た気だるさを連れてくる倦怠感も、きっと眠ってしまえば消えてくれる。
 俺はそう信じて、ゆっくりと深呼吸を繰り返しながら目を閉じた。