「雪也の親御さんはな、ふたりで会社をやっていたんだ。親父さんが会社を立てた頃は景気も良かったし、うまくいってた。だが、雪也が生まれてから……まあ、経営が傾き始めたらしい」
「……」
俺は相良先生の言葉を遮らず、黙って話を聞いていた。それは、俺がずっと知りたかったことであり、それでいてずっと知りたくないと思っていたことだ。
「お前の両親は、お前が一歳になる前に夜逃げしてな。それからずっと音信不通っつう申し送りを雪也が最初に保護された乳児院から受けてる。住民票を移した記録もねぇから、行政はお前の親御さんたちがどこに行ったのか、今も生きているのか死んでいるのか、わからないらしい。親戚関係も洗ったが、遠縁だったし、皆んなそれぞれ高齢で……お前を引き取れる状態にはなかった」
「……そう、ですか……」
俺は小さく相槌を打った。相良先生の言葉に、不思議と哀しみの感情はなかった。ただ、やっぱりそうだったんだ、という諦めに似た感情が胸中を支配していく。
両親は、俺と一緒にひとつの会社を手放した――その事実が重く圧し掛かってくるようで、押し寄せる息苦しさを堪えるように小さく息を吐きだした。
「雪也、大丈夫か?」
不安げな声色が降ってきて、俺はゆっくりと視線を上げた。相良先生は俺を気遣うように眉間に皴を寄せたまま、そっと顔を覗き込んでくる。その優しさが今の俺には辛くて、沈んだ感情のままただ唇を噛み締めた。
「……はい」
なんとかそれだけを絞り出し、小さく首肯する。今までは両親なんていなくてもいいと思っていたはずなのに、いざ自分の出自を知るとこんなにも動揺してしまう自分がいる。本当に自分が両親に捨てられたんだという事実に打ちのめされてしまいそうだった。
「親御さんがお前を置いていったのは、お前に生きてほしいと思ったからだと……俺は思ってるぞ」
相良先生の言葉は優しくて温かみに満ちている。俺のためを思って言ってくれているのは分かるけれど、どうしても素直に頷くことができなかった。
両親がなにを考え、なにを感じていたのか。それを知るすべはなく、ただ事実だけが残されている。自分が捨てられたという現実が、俺の心をじわじわと哀しみの色で包んでいく。
俺は、両親にとって邪魔な存在でしかなかったのだろうか。だから捨てられたのか。考えれば考えるほど、思考の沼に嵌ってしまう。
俺が生まれてきた意味はなんだったのだろう。俺の存在は両親にとって重荷だったのか、それとも――
「あとで調べてわかったが、お前の親御さんには借金がかなりあったらしい。事業が傾き始める前はかなり裕福だったそうだ。だからこそ、連れて行けば雨風も凌げず飢えた生活をさせてしまうかもしれん、という心配もあっただろう。それに……」
相良先生はそこで言葉を切り、小さく息を吐いた。俺はただ頭の中をぐるぐると廻る黒い感情を持て余しながら、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「乳児院のポストに、お前の名前の由来と、住所を書いた手紙が入れられていたんだよ。『助けに行ってやってほしい』っていうメッセージも添えられてな。だから俺は、お前が幸せになってくれるのを願ってる」
相良先生はそう言って俺の頭を撫でてきた。驚いて顔を上げると、思いの外優しい眼差しで見つめられていたことに気付く。その優しい手つきに、鼻の奥がツンとする。俺は堪えるように唇を噛み締めると、静かに息を吐いた。
「雪也。お前はひとりじゃない。ここでお前を我が子のように思ってる大人たちもたくさんいる。俺も、他の職員もだ」
そのまま相良先生はわしゃっと髪を掻き混ぜるように撫でてくる。その手のひらは大きくて、俺の頭をすっぽりと覆ってしまうほどだ。そのあたたかさに心の奥がじわりと熱を持つのを感じながら、俺は小さく俯いた。
言葉が、なにひとつ出てこない。けれど、心は幾分か軽くなったような気がした。
両親は、俺を置いていった。両親がなにを考え、どういう想いで俺を手放したのかはわからない。彼らがどんな想いで俺を産み落とし、どんな未来を夢見て育てていたのか、今となってはもう知ることもできない。
けれど、それでも俺は今こうして生きている。その事実だけは揺るぎない真実だ。
「おら、体冷えるぞ。浸かれ」
「……はい」
相良先生が湯船にふたたび身体を沈めた。その拍子に、水面が大きく揺れた。ちゃぷんと湯が揺れる音が浴室に響く。
俺も相良先生に倣うように、ゆっくりと湯船に足を入れた。そのまま肩まで浸かると、全身を包む温もりに自然と口から吐息が漏れる。相良先生も俺の横で大きく息を吐きながら天井を見上げていた。
両親は今頃どうしているだろうか。いや、そもそも生きているのかどうかも分からないのだ。そんな人たちのことを考えて感傷に浸るだなんて馬鹿げていると自分でも思うのだけれど、それでもやはり気になってしまうのは仕方がないことだろう。
(……だけど)
きっと――いつか。また、会える日がくるかもしれない。
そう思えるだけで、今は充分だ。
少し熱めのお湯に肌の表面からじんわりと熱が広がっていく感覚に浸りつつ、俺は小さく口を開いた。
「俺が……元いた家って、どのあたりか分かりますか?」
「ん?」
俺の呟きに、相良先生は不思議そうに首を傾げた。俺は小さくかぶりを振り、言葉を探す。
「両親に会いたいってわけじゃないんですけど……ただ、どんなところで俺は過ごしていたのかなって」
俺が生まれてから一年間過ごした場所は、どんなところだったのか。どんな人が住んでいて、どんな日常を送っていたのか。なんとなく、それを知りたいと思った。
絞り出すような俺の声に、相良先生は顎髭を触りながら小さく唸った。そしてしばらく思案するように沈黙したあと、ゆっくりと口を開いていく。
「……神奈川と東京の県境。町田だ。けやき通りの中に……お前の生家はあった。けやき通り近くの乳児院でお前は保護されたんだ」
相良先生の返答に、どくん、と、大きく心臓が跳ねる。けやき通り、という地名にひどく聞き覚えがあった。その近くの乳児院は――
(若葉が……預けられた、ところ……)
脳裏を過ったのは、若葉の弾けるような笑顔だった。その瞬間、俺は一つの可能性に行き着いた。それはとても恐ろしいことではあったけれど――同時に、どこか納得できる部分もあるような気がした。
「雪也? どうした?」
相良先生が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺は動揺を悟られまいと、小さくかぶりを振った。そして、平静を装って口を開く。
「いえ……なんでもないです。教えてくださってありがとうございます」
そう答えると、先生はそれ以上追及してくることはなかった。ただ一言だけ「そうか」と呟くと、ゆっくりと湯船から立ち上がった。
(まさか……)
そんな偶然があるのだろうか。いやでも、偶然と片付けるには出来過ぎているような気がする。
同じ町で、同じ日に生まれ、血液型が同じ。そして、時差はありつつも同じ乳児院に保護されたこと。
(馬鹿馬鹿しい……考えすぎだ)
そう自分に言い聞かせてはみるものの、一度思い至った事柄はなかなか頭から離れてくれそうになかった。俺は浴槽の中で膝を抱えながら大きく息を吸った。
(きっと考えすぎだ……偶然に決まってる……)
俺は何度も自分にそう言い聞かせるが、どうしても不安を拭い去ることができない。あまりにも飛躍した考え方だとは、自分でも分かっている。
両親は、夜逃げの際に自分を置いていった。けれど、もし、両親の間に生まれた子どもが俺一人だけでなかったら……兄弟姉妹が、いたのならば。
その子どもだけが両親の庇護のもと生き延びていて、それでもなお、両親は時を経てその子までも手放したとしたら。
息が苦しい。耳鳴りがする。頭がくらくらしてなにも考えられないほどなのに――それなのに、思考はどこか冷静に働いているような気さえした。
『しんしんと降り積もる雪に負けない子に育って欲しい、って由来があるんだって』
今思えば、彼女のその名前の由来は、俺の名前の由来と発想が似ていないだろうか。
季節に絡めた名づけは、もう一人の家族のことを思ってのものだったのではないだろうか。
もし、彼女の実の両親が、俺を置いていった両親だったとしたら。
もし、若葉と自分が――生き別れの双子だったとしたら? 俺の推測は、限りなく真実に近いのではないか。
思考が上手くまとまらない。心のなかに落とされた墨汁のような黒い染みが、俺の思考を蝕んでいく。気が付けば呼吸がひどく浅くなっていた。指先も小刻みに震えていて、それを誤魔化そうと湯の中で両手をそっと握りしめる。
「雪也?」
「え? あ……」
思考の海に沈んでいたせいで反応が遅れてしまう。慌てて身を起こすと、脱衣所の扉が開いており、そこから相良先生が顔を覗かせていた。
「長湯でのぼせる前に出てこいよ?」
「あ、はい……」
ぼんやりとした頭でそう答えると、相良先生は小さく笑いながらそのまま脱衣所へと戻っていった。
(俺……なに考えてたんだっけ)
湯の流れる音を聞きながらぼうっと天井を見つめたまま動けない。それもこれもお湯に長く浸かりすぎたせいだろう――そんなことを考えながら大きく息を吐くと、俺は意を決して湯船から立ち上がった。
脱衣所に足を踏み入れると、相良先生がバスタオルを手渡してくれた。小さく会釈しながらそれを受け取って濡れた髪を拭くと、水分を含んだ髪がぺたりと頬に張り付いていく。
隣に立つ相良先生も同じように、ガシガシと髪や体を拭いていた。俺が新しいボクサーショーツに手を伸ばしそれを身につけると、相良先生はなぜか、俺の身体をまじまじと見つめてきた。
「雪也……ちょっとこっち来い」
「え?」
相良先生が俺の手を引っ張る。突然のことに驚きつつ、俺は素直に従った。すると、相良先生はおもむろに俺の腹に触れてきた。突然のことに驚きつつも抵抗せずにいると、相良先生はなにかを確認するように何度か腹部を押した。その瞬間、腹部に鈍い痛みが走り息を詰まらせてしまう。
「……っ」
「痛むか」
相良先生の問いかけに、俺は小さく首を縦に振ることしかできない。相良先生は眉根を寄せると、真剣な表情で俺と視線を合わせてきた。
「お前……なんか、腹、張ってないか?」
「……え?」
予想外の言葉に目を見開く。事態が呑み込めないままゆっくりと腕を上げて自分の腹部に触れると、確かに以前よりも少しふっくらとしている気がする。少し張っているような感覚もあり、血管がわずかに浮き出ているようにも見える。
思い当たる節がないわけではない。最近食欲がなく、あまり食事を摂っていなかったので、胃腸の調子が悪いのかもしれないとは思っていた。
「ただの胃腸炎とかならいいんだが。就職試験も控えてるし、念のために明日朝イチで病院に行くぞ」
相良先生に真面目な顔でそう言われれば、俺もそれに否というのは躊躇われた。若葉のことも、自分のことも――なにもかもがよく飲み込めていないまま、俺はただ小さく首を縦に振ることしかできなかった。
「……」
俺は相良先生の言葉を遮らず、黙って話を聞いていた。それは、俺がずっと知りたかったことであり、それでいてずっと知りたくないと思っていたことだ。
「お前の両親は、お前が一歳になる前に夜逃げしてな。それからずっと音信不通っつう申し送りを雪也が最初に保護された乳児院から受けてる。住民票を移した記録もねぇから、行政はお前の親御さんたちがどこに行ったのか、今も生きているのか死んでいるのか、わからないらしい。親戚関係も洗ったが、遠縁だったし、皆んなそれぞれ高齢で……お前を引き取れる状態にはなかった」
「……そう、ですか……」
俺は小さく相槌を打った。相良先生の言葉に、不思議と哀しみの感情はなかった。ただ、やっぱりそうだったんだ、という諦めに似た感情が胸中を支配していく。
両親は、俺と一緒にひとつの会社を手放した――その事実が重く圧し掛かってくるようで、押し寄せる息苦しさを堪えるように小さく息を吐きだした。
「雪也、大丈夫か?」
不安げな声色が降ってきて、俺はゆっくりと視線を上げた。相良先生は俺を気遣うように眉間に皴を寄せたまま、そっと顔を覗き込んでくる。その優しさが今の俺には辛くて、沈んだ感情のままただ唇を噛み締めた。
「……はい」
なんとかそれだけを絞り出し、小さく首肯する。今までは両親なんていなくてもいいと思っていたはずなのに、いざ自分の出自を知るとこんなにも動揺してしまう自分がいる。本当に自分が両親に捨てられたんだという事実に打ちのめされてしまいそうだった。
「親御さんがお前を置いていったのは、お前に生きてほしいと思ったからだと……俺は思ってるぞ」
相良先生の言葉は優しくて温かみに満ちている。俺のためを思って言ってくれているのは分かるけれど、どうしても素直に頷くことができなかった。
両親がなにを考え、なにを感じていたのか。それを知るすべはなく、ただ事実だけが残されている。自分が捨てられたという現実が、俺の心をじわじわと哀しみの色で包んでいく。
俺は、両親にとって邪魔な存在でしかなかったのだろうか。だから捨てられたのか。考えれば考えるほど、思考の沼に嵌ってしまう。
俺が生まれてきた意味はなんだったのだろう。俺の存在は両親にとって重荷だったのか、それとも――
「あとで調べてわかったが、お前の親御さんには借金がかなりあったらしい。事業が傾き始める前はかなり裕福だったそうだ。だからこそ、連れて行けば雨風も凌げず飢えた生活をさせてしまうかもしれん、という心配もあっただろう。それに……」
相良先生はそこで言葉を切り、小さく息を吐いた。俺はただ頭の中をぐるぐると廻る黒い感情を持て余しながら、黙ってその言葉に耳を傾けていた。
「乳児院のポストに、お前の名前の由来と、住所を書いた手紙が入れられていたんだよ。『助けに行ってやってほしい』っていうメッセージも添えられてな。だから俺は、お前が幸せになってくれるのを願ってる」
相良先生はそう言って俺の頭を撫でてきた。驚いて顔を上げると、思いの外優しい眼差しで見つめられていたことに気付く。その優しい手つきに、鼻の奥がツンとする。俺は堪えるように唇を噛み締めると、静かに息を吐いた。
「雪也。お前はひとりじゃない。ここでお前を我が子のように思ってる大人たちもたくさんいる。俺も、他の職員もだ」
そのまま相良先生はわしゃっと髪を掻き混ぜるように撫でてくる。その手のひらは大きくて、俺の頭をすっぽりと覆ってしまうほどだ。そのあたたかさに心の奥がじわりと熱を持つのを感じながら、俺は小さく俯いた。
言葉が、なにひとつ出てこない。けれど、心は幾分か軽くなったような気がした。
両親は、俺を置いていった。両親がなにを考え、どういう想いで俺を手放したのかはわからない。彼らがどんな想いで俺を産み落とし、どんな未来を夢見て育てていたのか、今となってはもう知ることもできない。
けれど、それでも俺は今こうして生きている。その事実だけは揺るぎない真実だ。
「おら、体冷えるぞ。浸かれ」
「……はい」
相良先生が湯船にふたたび身体を沈めた。その拍子に、水面が大きく揺れた。ちゃぷんと湯が揺れる音が浴室に響く。
俺も相良先生に倣うように、ゆっくりと湯船に足を入れた。そのまま肩まで浸かると、全身を包む温もりに自然と口から吐息が漏れる。相良先生も俺の横で大きく息を吐きながら天井を見上げていた。
両親は今頃どうしているだろうか。いや、そもそも生きているのかどうかも分からないのだ。そんな人たちのことを考えて感傷に浸るだなんて馬鹿げていると自分でも思うのだけれど、それでもやはり気になってしまうのは仕方がないことだろう。
(……だけど)
きっと――いつか。また、会える日がくるかもしれない。
そう思えるだけで、今は充分だ。
少し熱めのお湯に肌の表面からじんわりと熱が広がっていく感覚に浸りつつ、俺は小さく口を開いた。
「俺が……元いた家って、どのあたりか分かりますか?」
「ん?」
俺の呟きに、相良先生は不思議そうに首を傾げた。俺は小さくかぶりを振り、言葉を探す。
「両親に会いたいってわけじゃないんですけど……ただ、どんなところで俺は過ごしていたのかなって」
俺が生まれてから一年間過ごした場所は、どんなところだったのか。どんな人が住んでいて、どんな日常を送っていたのか。なんとなく、それを知りたいと思った。
絞り出すような俺の声に、相良先生は顎髭を触りながら小さく唸った。そしてしばらく思案するように沈黙したあと、ゆっくりと口を開いていく。
「……神奈川と東京の県境。町田だ。けやき通りの中に……お前の生家はあった。けやき通り近くの乳児院でお前は保護されたんだ」
相良先生の返答に、どくん、と、大きく心臓が跳ねる。けやき通り、という地名にひどく聞き覚えがあった。その近くの乳児院は――
(若葉が……預けられた、ところ……)
脳裏を過ったのは、若葉の弾けるような笑顔だった。その瞬間、俺は一つの可能性に行き着いた。それはとても恐ろしいことではあったけれど――同時に、どこか納得できる部分もあるような気がした。
「雪也? どうした?」
相良先生が心配そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺は動揺を悟られまいと、小さくかぶりを振った。そして、平静を装って口を開く。
「いえ……なんでもないです。教えてくださってありがとうございます」
そう答えると、先生はそれ以上追及してくることはなかった。ただ一言だけ「そうか」と呟くと、ゆっくりと湯船から立ち上がった。
(まさか……)
そんな偶然があるのだろうか。いやでも、偶然と片付けるには出来過ぎているような気がする。
同じ町で、同じ日に生まれ、血液型が同じ。そして、時差はありつつも同じ乳児院に保護されたこと。
(馬鹿馬鹿しい……考えすぎだ)
そう自分に言い聞かせてはみるものの、一度思い至った事柄はなかなか頭から離れてくれそうになかった。俺は浴槽の中で膝を抱えながら大きく息を吸った。
(きっと考えすぎだ……偶然に決まってる……)
俺は何度も自分にそう言い聞かせるが、どうしても不安を拭い去ることができない。あまりにも飛躍した考え方だとは、自分でも分かっている。
両親は、夜逃げの際に自分を置いていった。けれど、もし、両親の間に生まれた子どもが俺一人だけでなかったら……兄弟姉妹が、いたのならば。
その子どもだけが両親の庇護のもと生き延びていて、それでもなお、両親は時を経てその子までも手放したとしたら。
息が苦しい。耳鳴りがする。頭がくらくらしてなにも考えられないほどなのに――それなのに、思考はどこか冷静に働いているような気さえした。
『しんしんと降り積もる雪に負けない子に育って欲しい、って由来があるんだって』
今思えば、彼女のその名前の由来は、俺の名前の由来と発想が似ていないだろうか。
季節に絡めた名づけは、もう一人の家族のことを思ってのものだったのではないだろうか。
もし、彼女の実の両親が、俺を置いていった両親だったとしたら。
もし、若葉と自分が――生き別れの双子だったとしたら? 俺の推測は、限りなく真実に近いのではないか。
思考が上手くまとまらない。心のなかに落とされた墨汁のような黒い染みが、俺の思考を蝕んでいく。気が付けば呼吸がひどく浅くなっていた。指先も小刻みに震えていて、それを誤魔化そうと湯の中で両手をそっと握りしめる。
「雪也?」
「え? あ……」
思考の海に沈んでいたせいで反応が遅れてしまう。慌てて身を起こすと、脱衣所の扉が開いており、そこから相良先生が顔を覗かせていた。
「長湯でのぼせる前に出てこいよ?」
「あ、はい……」
ぼんやりとした頭でそう答えると、相良先生は小さく笑いながらそのまま脱衣所へと戻っていった。
(俺……なに考えてたんだっけ)
湯の流れる音を聞きながらぼうっと天井を見つめたまま動けない。それもこれもお湯に長く浸かりすぎたせいだろう――そんなことを考えながら大きく息を吐くと、俺は意を決して湯船から立ち上がった。
脱衣所に足を踏み入れると、相良先生がバスタオルを手渡してくれた。小さく会釈しながらそれを受け取って濡れた髪を拭くと、水分を含んだ髪がぺたりと頬に張り付いていく。
隣に立つ相良先生も同じように、ガシガシと髪や体を拭いていた。俺が新しいボクサーショーツに手を伸ばしそれを身につけると、相良先生はなぜか、俺の身体をまじまじと見つめてきた。
「雪也……ちょっとこっち来い」
「え?」
相良先生が俺の手を引っ張る。突然のことに驚きつつ、俺は素直に従った。すると、相良先生はおもむろに俺の腹に触れてきた。突然のことに驚きつつも抵抗せずにいると、相良先生はなにかを確認するように何度か腹部を押した。その瞬間、腹部に鈍い痛みが走り息を詰まらせてしまう。
「……っ」
「痛むか」
相良先生の問いかけに、俺は小さく首を縦に振ることしかできない。相良先生は眉根を寄せると、真剣な表情で俺と視線を合わせてきた。
「お前……なんか、腹、張ってないか?」
「……え?」
予想外の言葉に目を見開く。事態が呑み込めないままゆっくりと腕を上げて自分の腹部に触れると、確かに以前よりも少しふっくらとしている気がする。少し張っているような感覚もあり、血管がわずかに浮き出ているようにも見える。
思い当たる節がないわけではない。最近食欲がなく、あまり食事を摂っていなかったので、胃腸の調子が悪いのかもしれないとは思っていた。
「ただの胃腸炎とかならいいんだが。就職試験も控えてるし、念のために明日朝イチで病院に行くぞ」
相良先生に真面目な顔でそう言われれば、俺もそれに否というのは躊躇われた。若葉のことも、自分のことも――なにもかもがよく飲み込めていないまま、俺はただ小さく首を縦に振ることしかできなかった。