門限ぎりぎりの時間になってしまったが、二十時は過ぎていないのでセーフだろう。なんとなしに心の中で言い訳を吐き出しながら玄関のドアを押し開くと、管理栄養士をしている佐藤先生が俺を出迎えてくれた。
「ただいま……です」
「あら、お帰りなさい雪也くん」
丸っこい眼鏡をかけた佐藤先生は、五十を過ぎてから体重が落ちないのとよく食事中に嘆いていて、今年から旦那さんとともにジム通いをしているらしい。
「今日は珍しく遅かったね」
「ん、ちょっと……問題集選ぶのに時間がかかって」
「そうだよねぇ、もう雪也くんも高三なんだっけ~」
言葉を濁しながら靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、佐藤先生は俺とは反対に玄関で靴を履いていく。夕食の時間も終わったので、彼女はもう仕事を終え帰宅するところだったらしい。
「あ、そうだ。もう入浴時間だから、早くお風呂入っておいでね」
「わかりました」
佐藤先生の言葉に頷き、俺は居室へと続く階段を上った。居室がある三階に辿りついた瞬間、不意に胸元に違和感を覚えた。
「……?」
しかしその違和感は一瞬のことで、すぐに気にならなくなった。きっと駆け上がるように階段を上っていたので、少し呼吸が浅くなっていたからだろう。
居室の扉を押し開き、手に持った書店の青いビニール袋に入れた適性試験対策用の問題集と、『写真構図を極める』という写真撮影のノウハウが詰まった指南本を勉強机に置いた。浮かれている、と笑われても仕方がないと思うほど気持ちは上を向いていた。俺は緩む口元を誤魔化すように頬を軽く手のひらで叩いたあと、タオル置き場の一番上から着替えとバスタオルを取り、それを持って風呂場へと向かった。
男子脱衣場のドアを開けると、ムワっとした熱気と共にシャンプーやボディーソープの香りが鼻孔をくすぐる。十九時から二十時までは小学生の子どもたちが入浴しているので、この時間の風呂は大体いつもこんな感じだ。
手早く服を脱ぎ、浴室へ足を踏み入れると、やはりというべきか先客がいたようで浴槽に浸かる人影が見える。
「……あ」
「ん?」
俺の声に気付いたのか、彼はこちらを振り向いた。切れ長の目に、白髪が混じりだした髪と顎に少しだけ生えた髭が特徴的で、一見するとヤクザのような風体だが、実はこの施設で一番長く勤めている古株の相良先生だ。児童養護施設に入所する子どもの約半数は虐待を受けており、そうした親たちとも対等に渡り歩くだけの精神力も持ち合わせていなければ勤まらないのが児童指導員という仕事らしい。どの子どもにも寄り添って接してくれる心優しい先生ではあるが、時に厳しい言葉もかける。そんな相良先生だからこそ、俺自身も信頼しているし、なにかあれば真っ先に頼りたいと思える人だ。彼がいなかったら俺はもっと早くに孤独感に押しつぶされ、壊れてしまっていたかもしれない。
「なんだ雪也、お前もこの時間か」
日焼けの名残なのか、若干浅黒い肌に白い歯が浮かびあがった。相良先生のその笑顔を見ると、不思議と安心感を覚えるから不思議だ。
「あ、はい。お疲れ様です。今日は夜勤なんですね、相良先生」
そう言いながら軽く会釈をすると、彼は湯船から立ち上がり浴槽の縁に腰かけた。ざばり、と、お湯が揺れる音が耳朶を打つ。俺はそのまま洗い場のコックを捻り、洗面器にお湯を溜めていく。
「夏休み期間中は里帰りしてる子も多いが、だからこそやっぱり残ってる子たちが心配でなぁ。ちと早めに出勤しちまった」
相良先生はそう口にしながら片手で自らの肩を叩いていく。その仕草がなんだか親父臭くてつい笑いそうになってしまった。
「なんか変わったことはないか?」
「あー……まあ特には」
さすがに夏休みの課題はぼちぼちの進捗で、意中の子とデートを重ねている、だなんて言えるわけがない。俺は曖昧に言葉を濁し、シャワーのコックを捻った。
「そういや、お前、就職先は一宮ガスが第一志望なんだってな?」
「あ……はい。校内推薦も通りました」
「すごいじゃねぇか。上場企業に入れたら卒業後も安心だしなぁ。まあ、雪也の成績なら余裕で受かるだろ」
「だといいんですけどねぇ」
一番世話になってる相良先生に安心してもらえるように、という本心は隠しておきたい。俺は曖昧に笑い返しながら、洗面器に溜めたお湯を頭から被った。濡れた髪からパタパタと雫が落ちていくのを視認しつつ、シャンプーを手に取り軽く泡立てていく。
「お前、最近なんか変わったな?」
「……え? なんすか急に」
唐突な問いかけに思わず髪を洗う手を止めてしまった。そんな俺の様子に、相良先生は顎髭を撫でながら小さく笑う。その仕草はどこか楽しげで、俺の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。
「いや、別に大したことじゃねぇんだけどよ……なんつーかこう……雰囲気が丸くなったというか……」
「……そうっすか?」
俺は首を傾げつつ、再び手を動かした。泡立った頭をシャワーで流していく。
「ああ。前まではなんかこう……隙がないというか、ちょっと他人と距離を置いてる感じがあったんだけどよ。最近お前からそういった壁を感じなくなったような気がするんだよなぁ」
確かに、若葉と触れ合うようになってからは、自分でも心が軽くなったような気がする。今までは他人と距離を置きがちだったし、自分の本心を曝け出すのも苦手だった。けれど、若葉と一緒にいる時は不思議と自然体でいられているような気がする。
「別に……気のせいじゃないっすか?」
口元がだらしなく緩みそうになるのを堪えつつ、平静を装ってそう答えた。相良先生はそんな俺の態度に、なにかを察したようにニヤリと笑うが、幸いにも深く掘り下げようとはしないようで、それ以上は追及してくることはなかった。
(……言えるわけねぇっての)
靴箱が隣になって、一気に好きになってしまった子がいる――なんて言ったら、相良先生にどう思われるだろうか。恋愛初心者にしても単純すぎるだろ、と笑われるかもしれない。いや、事実、俺自身も単純で馬鹿げていると思う。
「しっかし……あんな小さい子が、こんな大きくなるもんだなぁ。毎度驚いちまうぜ。どの子を送り出してもそう思うが、特に雪也がいっとうでかくなった」
「そうですか?」
「ああ。最初に会ったときは、まだこんなちびっこいガキだったってのに」
相良先生はそう言いながら指先で二十センチくらいの長さを宙に描いてみせた。確かに、俺の一番最初の記憶は、この施設の階段から転げ落ちて、誰かに抱きかかえられているときのものだ。あの頃は毎日が不安で一杯で、明日が来るのを恐れていた。けれど今は違う。だからこそ、ここを出ていく日が近づいているという事実が、どうしても怖いのだろうと思う。夢や目標が見出せないでいるのも、それが原因なのかもしれない。
(あ……)
そこまで考えて、はたと思い出した事柄があった。シャワーのコックをしめ、浴槽の淵に腰掛けたままの相良先生に向き直る。
「先生」
「んん?」
俺が呼びかけると、相良先生は不思議そうに首を傾げた。俺は小さく深呼吸をしてから、意を決して口を開く。
「俺の……両親って、どんな人たちだったか……知っていますか」
もわん、と、俺の声が風呂場に響く。相良先生は一瞬驚いたように目を見開いた。相良先生から俺の両親に関する話は一切聞いたことがない。けれど、この施設に勤めてもう三十年近くになるはずだし、俺が生まれた頃を知っているのだとしたら、なにか知っているかもしれないという淡い期待があった。
「なんだよ、急に。どうした?」
相良先生は訝しげに眉を顰めたのち、俺の姿を上から下まで見つめてきた。その視線になんだかいたたまれなくなってしまい、俺はそっと視線を落とす。
「なにか辛いことでもあったのか?」
その問いかけには確かな困惑の色が滲んでいた。俺はそれらを否定するように小さくかぶりを振る。
「いえ……もう、就職するので。自分の生い立ちは知っておかないといけないかなって……なんとなく、そう思って」
俺が絞り出すようにそう言葉を吐き出すと、相良先生はしばし思案するように黙り込んだ。沈黙が流れていく中で、シャワーヘッドから垂れる水滴の音だけが響いていた。
「まあ……知ってるっちゃあ知ってるけどよ」
相良先生が深い息を吐き出した音が、浴室内にもわんと反響していく。
「ただいま……です」
「あら、お帰りなさい雪也くん」
丸っこい眼鏡をかけた佐藤先生は、五十を過ぎてから体重が落ちないのとよく食事中に嘆いていて、今年から旦那さんとともにジム通いをしているらしい。
「今日は珍しく遅かったね」
「ん、ちょっと……問題集選ぶのに時間がかかって」
「そうだよねぇ、もう雪也くんも高三なんだっけ~」
言葉を濁しながら靴を脱ぎ、スリッパに履き替えると、佐藤先生は俺とは反対に玄関で靴を履いていく。夕食の時間も終わったので、彼女はもう仕事を終え帰宅するところだったらしい。
「あ、そうだ。もう入浴時間だから、早くお風呂入っておいでね」
「わかりました」
佐藤先生の言葉に頷き、俺は居室へと続く階段を上った。居室がある三階に辿りついた瞬間、不意に胸元に違和感を覚えた。
「……?」
しかしその違和感は一瞬のことで、すぐに気にならなくなった。きっと駆け上がるように階段を上っていたので、少し呼吸が浅くなっていたからだろう。
居室の扉を押し開き、手に持った書店の青いビニール袋に入れた適性試験対策用の問題集と、『写真構図を極める』という写真撮影のノウハウが詰まった指南本を勉強机に置いた。浮かれている、と笑われても仕方がないと思うほど気持ちは上を向いていた。俺は緩む口元を誤魔化すように頬を軽く手のひらで叩いたあと、タオル置き場の一番上から着替えとバスタオルを取り、それを持って風呂場へと向かった。
男子脱衣場のドアを開けると、ムワっとした熱気と共にシャンプーやボディーソープの香りが鼻孔をくすぐる。十九時から二十時までは小学生の子どもたちが入浴しているので、この時間の風呂は大体いつもこんな感じだ。
手早く服を脱ぎ、浴室へ足を踏み入れると、やはりというべきか先客がいたようで浴槽に浸かる人影が見える。
「……あ」
「ん?」
俺の声に気付いたのか、彼はこちらを振り向いた。切れ長の目に、白髪が混じりだした髪と顎に少しだけ生えた髭が特徴的で、一見するとヤクザのような風体だが、実はこの施設で一番長く勤めている古株の相良先生だ。児童養護施設に入所する子どもの約半数は虐待を受けており、そうした親たちとも対等に渡り歩くだけの精神力も持ち合わせていなければ勤まらないのが児童指導員という仕事らしい。どの子どもにも寄り添って接してくれる心優しい先生ではあるが、時に厳しい言葉もかける。そんな相良先生だからこそ、俺自身も信頼しているし、なにかあれば真っ先に頼りたいと思える人だ。彼がいなかったら俺はもっと早くに孤独感に押しつぶされ、壊れてしまっていたかもしれない。
「なんだ雪也、お前もこの時間か」
日焼けの名残なのか、若干浅黒い肌に白い歯が浮かびあがった。相良先生のその笑顔を見ると、不思議と安心感を覚えるから不思議だ。
「あ、はい。お疲れ様です。今日は夜勤なんですね、相良先生」
そう言いながら軽く会釈をすると、彼は湯船から立ち上がり浴槽の縁に腰かけた。ざばり、と、お湯が揺れる音が耳朶を打つ。俺はそのまま洗い場のコックを捻り、洗面器にお湯を溜めていく。
「夏休み期間中は里帰りしてる子も多いが、だからこそやっぱり残ってる子たちが心配でなぁ。ちと早めに出勤しちまった」
相良先生はそう口にしながら片手で自らの肩を叩いていく。その仕草がなんだか親父臭くてつい笑いそうになってしまった。
「なんか変わったことはないか?」
「あー……まあ特には」
さすがに夏休みの課題はぼちぼちの進捗で、意中の子とデートを重ねている、だなんて言えるわけがない。俺は曖昧に言葉を濁し、シャワーのコックを捻った。
「そういや、お前、就職先は一宮ガスが第一志望なんだってな?」
「あ……はい。校内推薦も通りました」
「すごいじゃねぇか。上場企業に入れたら卒業後も安心だしなぁ。まあ、雪也の成績なら余裕で受かるだろ」
「だといいんですけどねぇ」
一番世話になってる相良先生に安心してもらえるように、という本心は隠しておきたい。俺は曖昧に笑い返しながら、洗面器に溜めたお湯を頭から被った。濡れた髪からパタパタと雫が落ちていくのを視認しつつ、シャンプーを手に取り軽く泡立てていく。
「お前、最近なんか変わったな?」
「……え? なんすか急に」
唐突な問いかけに思わず髪を洗う手を止めてしまった。そんな俺の様子に、相良先生は顎髭を撫でながら小さく笑う。その仕草はどこか楽しげで、俺の反応を楽しんでいるようにさえ見えた。
「いや、別に大したことじゃねぇんだけどよ……なんつーかこう……雰囲気が丸くなったというか……」
「……そうっすか?」
俺は首を傾げつつ、再び手を動かした。泡立った頭をシャワーで流していく。
「ああ。前まではなんかこう……隙がないというか、ちょっと他人と距離を置いてる感じがあったんだけどよ。最近お前からそういった壁を感じなくなったような気がするんだよなぁ」
確かに、若葉と触れ合うようになってからは、自分でも心が軽くなったような気がする。今までは他人と距離を置きがちだったし、自分の本心を曝け出すのも苦手だった。けれど、若葉と一緒にいる時は不思議と自然体でいられているような気がする。
「別に……気のせいじゃないっすか?」
口元がだらしなく緩みそうになるのを堪えつつ、平静を装ってそう答えた。相良先生はそんな俺の態度に、なにかを察したようにニヤリと笑うが、幸いにも深く掘り下げようとはしないようで、それ以上は追及してくることはなかった。
(……言えるわけねぇっての)
靴箱が隣になって、一気に好きになってしまった子がいる――なんて言ったら、相良先生にどう思われるだろうか。恋愛初心者にしても単純すぎるだろ、と笑われるかもしれない。いや、事実、俺自身も単純で馬鹿げていると思う。
「しっかし……あんな小さい子が、こんな大きくなるもんだなぁ。毎度驚いちまうぜ。どの子を送り出してもそう思うが、特に雪也がいっとうでかくなった」
「そうですか?」
「ああ。最初に会ったときは、まだこんなちびっこいガキだったってのに」
相良先生はそう言いながら指先で二十センチくらいの長さを宙に描いてみせた。確かに、俺の一番最初の記憶は、この施設の階段から転げ落ちて、誰かに抱きかかえられているときのものだ。あの頃は毎日が不安で一杯で、明日が来るのを恐れていた。けれど今は違う。だからこそ、ここを出ていく日が近づいているという事実が、どうしても怖いのだろうと思う。夢や目標が見出せないでいるのも、それが原因なのかもしれない。
(あ……)
そこまで考えて、はたと思い出した事柄があった。シャワーのコックをしめ、浴槽の淵に腰掛けたままの相良先生に向き直る。
「先生」
「んん?」
俺が呼びかけると、相良先生は不思議そうに首を傾げた。俺は小さく深呼吸をしてから、意を決して口を開く。
「俺の……両親って、どんな人たちだったか……知っていますか」
もわん、と、俺の声が風呂場に響く。相良先生は一瞬驚いたように目を見開いた。相良先生から俺の両親に関する話は一切聞いたことがない。けれど、この施設に勤めてもう三十年近くになるはずだし、俺が生まれた頃を知っているのだとしたら、なにか知っているかもしれないという淡い期待があった。
「なんだよ、急に。どうした?」
相良先生は訝しげに眉を顰めたのち、俺の姿を上から下まで見つめてきた。その視線になんだかいたたまれなくなってしまい、俺はそっと視線を落とす。
「なにか辛いことでもあったのか?」
その問いかけには確かな困惑の色が滲んでいた。俺はそれらを否定するように小さくかぶりを振る。
「いえ……もう、就職するので。自分の生い立ちは知っておかないといけないかなって……なんとなく、そう思って」
俺が絞り出すようにそう言葉を吐き出すと、相良先生はしばし思案するように黙り込んだ。沈黙が流れていく中で、シャワーヘッドから垂れる水滴の音だけが響いていた。
「まあ……知ってるっちゃあ知ってるけどよ」
相良先生が深い息を吐き出した音が、浴室内にもわんと反響していく。