「ね、雪也くんが撮ったの、見せて?」
夕焼けに照らされた若葉の問いかけに俺は一瞬戸惑ったものの、小さく頷いて素直にスマホの画面を彼女に見せるように差し出した。俺が撮ったのは、夕焼けに染まった河川敷の写真だ。ただ景色を写しているだけのなんの面白味もない写真だが、彼女はそれを興味深げに眺めているようだった。
(なんか……緊張する)
別に見られて困るわけでもないのに、妙に気恥ずかしい気持ちになるのはなぜだろうか。陽が沈むまでもう時間が無いということもあってか、辺りに人影はない。風がなびく音だけが聞こえている空間の中で、俺も若葉が持ったスマホの画面へ静かに視線を落とす。
「すご……雪也くんってセンスあるんだね」
「!」
その言葉にずくりと心臓が大きく鼓動を刻んだ。それはきっとお世辞に近いものであろうということは分かっているけれど、それでも嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「ここの橋が斜めに入ってるとことか、あと、景色の切り取りとか……奥にピントがあってて手前がぼけてて、すっごく綺麗。ほら、この辺はABC構図にもなってるし。ねえ、こんな感じの写真極めたら、きっとこう、賞撮ったりできるんじゃないかなぁ」
「いや……それは流石に言い過ぎだろ」
若葉は絵を描くために魅せる構図についても勉強しているのか、俺にはよく分からない専門用語が飛び出してきた。とはいえ、突拍子もないことを言い始めた彼女に苦笑しながらそう返すと、彼女は少し照れたように笑いながら首を振った。
「そんなことないよ! こう……心動かされる感じの、なんかこう……凄い写真だよ」
「なんだそりゃ」
若葉の抽象的すぎる言葉が可笑しくてたまらず吹き出してしまうと、彼女もまた楽しそうに笑った。彼女の笑顔を見ていると心が満たされていくような心地になるから不思議だ。
とはいえ、これまで夢や目標なんてものを抱いて生きてこなかった俺にはいまいちピンと来ない話だった。
「でも、雪也くんならきっとなれると思うよ。今日見た展示会の作家さんたちと肩を並べる……ううん、超えるくらいの写真家さんに」
彼女は真剣な表情をしながら、俺の瞳を覗き込んできた。吸い込まれそうな深い黒色の瞳に見つめられ、俺は息を呑む。その目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
「……大袈裟」
俺は視線を逸らしてそう呟くと、彼女は少し不満そうな表情を浮かべ小さく頬を膨らませた。その仕草は、彼女のあどけない顔立ちと相まってとても可愛らしかった。
「もうっ。前にも言ったじゃん、雪也くんなんでもできるからその気になればなりたいものになれそうって」
「あれは冗談かと思ってたんだけど」
「私は本気だよ! まあ、雪也くんがなりたくないなら、それでいいけどさぁ……」
唇を尖らせた若葉はまだ納得していないような表情をしていたものの、それ以上追及してくることはなかった。
(なりたいものになれそう、か……)
俺は心の中で若葉が口にしたその言葉を反芻する。確かに俺は、勉強も運動も、やろうと思えば人並み以上にこなせるし、大抵のことはなんでも自分でできる。けれどそれらは所詮ただ「できる」だけでしかないことは自分でも分かっていた。あくまでも「それなり」に「できる」だけ。俺よりも才能のある人間なんていくらでもいる。
(だけど……)
今からでも――遅くはないだろうか。写真家になる、という『夢』を抱いても。たとえそれが、無謀な夢だと分かっていても。
これまで俺は、生きることを惰性で選んでいたように思う。明確な目標もなく漠然と日々を過ごしてきただけだった。『普通』でない自分に自信がなくて、なにかに打ち込めることを見つけることができなかった。だから、夢や目標なんてものは俺には縁遠いものだと思っていたのだ。
けれど、今は少し違う。若葉と出会って、彼女の純粋で真っ直ぐな心に、生き方に触れて。俺は少しずつ変わりつつあるように思う。
今までなら諦めて見過ごしていたようなことも――一歩を踏み出して、挑戦してみたい。たとえ叶わない夢でも、追い続けることに意味はあると思うから。
「……まぁ……考えて、みる」
「ほんと⁉」
小さく呟いた俺の言葉に、彼女は目を輝かせて身を乗り出してきた。その反応に、俺は息を詰めたじろいでしまった。
(また、だ)
この瞳に見つめられるたびに胸がざわつく。まるで心の奥を覗かれているような、あるいは見透かされているかのような、そんな感覚に陥るのだ。そして同時に思うのは、その瞳にずっと俺を映していて欲しい、という身勝手な願いだった。
「……おう」
抱えきれない想いを吐き出すように小さく息を吐いて、俺は視線を逸らすように空を見上げた。夕焼けの赤が夜色に侵食され、辺りは薄暗くなっている。空が夜の色に完全に飲み込まれようとしているその景色はどこか切なくて、それでいてひどく儚く思えた。
「あのね」
「ん?」
真昼のような柔らかな声が鼓膜を震わせ、俺の意識が彼女へと戻される。夕焼けに染まった横顔が綺麗で見惚れてしまう。風に靡く黒髪がどこか幻想的で目が離せない。
「雪也くんが撮った夕焼けの写真、……私、好きだよ」
「!」
囁くような言葉の一つ一つが、俺の心に響いていくのが分かる。それはまるで魔法のように、じわじわと俺の胸を満たしていった。
「……さんきゅ」
それだけを言うのがやっとだった。気を抜くと涙腺が崩壊してしまいそうなくらいに感情が昂ぶっていて、上手く言葉を紡げない。それでもなんとか声を絞り出して応えることができただけ、上出来だろうと思う。鼻の奥がツンとするような感覚を振り払うように、俺は手元のスマホに視線を落とした。
若葉だけをフォローしているアカウントのホームには、若葉の投稿に加えて複数のおすすめ画像が表示されるようになっている。それらの投稿をスワイプしていくと、ふと、目を奪う一枚の画像が現れた。
「あ……」
それは、真っ白なキャンバスに複数のインクが混じりあい、不思議な模様を描いていく様子が写された写真だった。インクの透明感や混ざり合う色のバランスが絶妙で、散らされた金箔の輝きも美しい。
「どうしたの?」
俺が手を止めていることに気づいたのか、若葉がこちらを覗き込んできた。次の瞬間、俺と同じように息を止め、目を大きく見開いた。
「これ……」
「ん。アルコールインクアート……っつうやつらしいぞ」
若葉の呟きに応えるように画像の説明文に記載があったハッシュタグを読み上げると、彼女は目を輝かせた。
「初めて見た……すごい……」
食い入るように画面を見つめる若葉の様子に、俺はふっと息を吐いた。その横顔はとても生き生きしていて、見ているこちらまで嬉しくなる。
「これ、どんな感じで作るのか全然予想つかねぇけど、こんな感じデザインで、こう……文化祭に出すやつ、描いてみてもいいんじゃねぇの?」
俺がそう提案すると、若葉はハッとしたように顔を上げて俺を見つめてきた。その瞳はどこか未来への希望を孕み、キラキラと輝いているようにも見える。
「そうだね……! 雪也くんのおかげでインスピレーションいっぱい湧いてきた!」
そう言って照れくさそうに笑う彼女の笑顔は、まるで花が咲くように明るくて眩しい。そのまま、若葉はスマホを操作しメモ帳アプリを起動させ、ぶつぶつとなにかを呟きながら文字を書き留めていく。
やはり彼女は、生粋のクリエイターなのだろう。自分の好きなもの、興味のあるものを真っ直ぐに追いかけ、そこに向かって努力を重ねる。そんな姿を見ていると、自然と熱いものが込み上げてくる。
とはいえ、俺の一言が彼女の発想に少しでも変化をもたらせたのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
以前彼女が口にしていた『画家になる』という夢。そして、俺が抱いた――『写真家を目指す』という夢。
それらが同じように叶うとは思っていないけれど、それでもなにかを変えたいと願うのならば行動しなくてはならない。たとえ無謀であったとしても、無意味に終わってしまう可能性があったとしても。
(――いつか)
若葉が画家として成功した暁には、彼女の作品や彼女のプロフィール写真を、俺が撮れる日が来るように。
そんな未来を夢見て、俺は手にしていたスマホをジーンズのポケットにそっとねじ込んだ。
夕焼けに照らされた若葉の問いかけに俺は一瞬戸惑ったものの、小さく頷いて素直にスマホの画面を彼女に見せるように差し出した。俺が撮ったのは、夕焼けに染まった河川敷の写真だ。ただ景色を写しているだけのなんの面白味もない写真だが、彼女はそれを興味深げに眺めているようだった。
(なんか……緊張する)
別に見られて困るわけでもないのに、妙に気恥ずかしい気持ちになるのはなぜだろうか。陽が沈むまでもう時間が無いということもあってか、辺りに人影はない。風がなびく音だけが聞こえている空間の中で、俺も若葉が持ったスマホの画面へ静かに視線を落とす。
「すご……雪也くんってセンスあるんだね」
「!」
その言葉にずくりと心臓が大きく鼓動を刻んだ。それはきっとお世辞に近いものであろうということは分かっているけれど、それでも嬉しいと思ってしまう自分がいる。
「ここの橋が斜めに入ってるとことか、あと、景色の切り取りとか……奥にピントがあってて手前がぼけてて、すっごく綺麗。ほら、この辺はABC構図にもなってるし。ねえ、こんな感じの写真極めたら、きっとこう、賞撮ったりできるんじゃないかなぁ」
「いや……それは流石に言い過ぎだろ」
若葉は絵を描くために魅せる構図についても勉強しているのか、俺にはよく分からない専門用語が飛び出してきた。とはいえ、突拍子もないことを言い始めた彼女に苦笑しながらそう返すと、彼女は少し照れたように笑いながら首を振った。
「そんなことないよ! こう……心動かされる感じの、なんかこう……凄い写真だよ」
「なんだそりゃ」
若葉の抽象的すぎる言葉が可笑しくてたまらず吹き出してしまうと、彼女もまた楽しそうに笑った。彼女の笑顔を見ていると心が満たされていくような心地になるから不思議だ。
とはいえ、これまで夢や目標なんてものを抱いて生きてこなかった俺にはいまいちピンと来ない話だった。
「でも、雪也くんならきっとなれると思うよ。今日見た展示会の作家さんたちと肩を並べる……ううん、超えるくらいの写真家さんに」
彼女は真剣な表情をしながら、俺の瞳を覗き込んできた。吸い込まれそうな深い黒色の瞳に見つめられ、俺は息を呑む。その目は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。
「……大袈裟」
俺は視線を逸らしてそう呟くと、彼女は少し不満そうな表情を浮かべ小さく頬を膨らませた。その仕草は、彼女のあどけない顔立ちと相まってとても可愛らしかった。
「もうっ。前にも言ったじゃん、雪也くんなんでもできるからその気になればなりたいものになれそうって」
「あれは冗談かと思ってたんだけど」
「私は本気だよ! まあ、雪也くんがなりたくないなら、それでいいけどさぁ……」
唇を尖らせた若葉はまだ納得していないような表情をしていたものの、それ以上追及してくることはなかった。
(なりたいものになれそう、か……)
俺は心の中で若葉が口にしたその言葉を反芻する。確かに俺は、勉強も運動も、やろうと思えば人並み以上にこなせるし、大抵のことはなんでも自分でできる。けれどそれらは所詮ただ「できる」だけでしかないことは自分でも分かっていた。あくまでも「それなり」に「できる」だけ。俺よりも才能のある人間なんていくらでもいる。
(だけど……)
今からでも――遅くはないだろうか。写真家になる、という『夢』を抱いても。たとえそれが、無謀な夢だと分かっていても。
これまで俺は、生きることを惰性で選んでいたように思う。明確な目標もなく漠然と日々を過ごしてきただけだった。『普通』でない自分に自信がなくて、なにかに打ち込めることを見つけることができなかった。だから、夢や目標なんてものは俺には縁遠いものだと思っていたのだ。
けれど、今は少し違う。若葉と出会って、彼女の純粋で真っ直ぐな心に、生き方に触れて。俺は少しずつ変わりつつあるように思う。
今までなら諦めて見過ごしていたようなことも――一歩を踏み出して、挑戦してみたい。たとえ叶わない夢でも、追い続けることに意味はあると思うから。
「……まぁ……考えて、みる」
「ほんと⁉」
小さく呟いた俺の言葉に、彼女は目を輝かせて身を乗り出してきた。その反応に、俺は息を詰めたじろいでしまった。
(また、だ)
この瞳に見つめられるたびに胸がざわつく。まるで心の奥を覗かれているような、あるいは見透かされているかのような、そんな感覚に陥るのだ。そして同時に思うのは、その瞳にずっと俺を映していて欲しい、という身勝手な願いだった。
「……おう」
抱えきれない想いを吐き出すように小さく息を吐いて、俺は視線を逸らすように空を見上げた。夕焼けの赤が夜色に侵食され、辺りは薄暗くなっている。空が夜の色に完全に飲み込まれようとしているその景色はどこか切なくて、それでいてひどく儚く思えた。
「あのね」
「ん?」
真昼のような柔らかな声が鼓膜を震わせ、俺の意識が彼女へと戻される。夕焼けに染まった横顔が綺麗で見惚れてしまう。風に靡く黒髪がどこか幻想的で目が離せない。
「雪也くんが撮った夕焼けの写真、……私、好きだよ」
「!」
囁くような言葉の一つ一つが、俺の心に響いていくのが分かる。それはまるで魔法のように、じわじわと俺の胸を満たしていった。
「……さんきゅ」
それだけを言うのがやっとだった。気を抜くと涙腺が崩壊してしまいそうなくらいに感情が昂ぶっていて、上手く言葉を紡げない。それでもなんとか声を絞り出して応えることができただけ、上出来だろうと思う。鼻の奥がツンとするような感覚を振り払うように、俺は手元のスマホに視線を落とした。
若葉だけをフォローしているアカウントのホームには、若葉の投稿に加えて複数のおすすめ画像が表示されるようになっている。それらの投稿をスワイプしていくと、ふと、目を奪う一枚の画像が現れた。
「あ……」
それは、真っ白なキャンバスに複数のインクが混じりあい、不思議な模様を描いていく様子が写された写真だった。インクの透明感や混ざり合う色のバランスが絶妙で、散らされた金箔の輝きも美しい。
「どうしたの?」
俺が手を止めていることに気づいたのか、若葉がこちらを覗き込んできた。次の瞬間、俺と同じように息を止め、目を大きく見開いた。
「これ……」
「ん。アルコールインクアート……っつうやつらしいぞ」
若葉の呟きに応えるように画像の説明文に記載があったハッシュタグを読み上げると、彼女は目を輝かせた。
「初めて見た……すごい……」
食い入るように画面を見つめる若葉の様子に、俺はふっと息を吐いた。その横顔はとても生き生きしていて、見ているこちらまで嬉しくなる。
「これ、どんな感じで作るのか全然予想つかねぇけど、こんな感じデザインで、こう……文化祭に出すやつ、描いてみてもいいんじゃねぇの?」
俺がそう提案すると、若葉はハッとしたように顔を上げて俺を見つめてきた。その瞳はどこか未来への希望を孕み、キラキラと輝いているようにも見える。
「そうだね……! 雪也くんのおかげでインスピレーションいっぱい湧いてきた!」
そう言って照れくさそうに笑う彼女の笑顔は、まるで花が咲くように明るくて眩しい。そのまま、若葉はスマホを操作しメモ帳アプリを起動させ、ぶつぶつとなにかを呟きながら文字を書き留めていく。
やはり彼女は、生粋のクリエイターなのだろう。自分の好きなもの、興味のあるものを真っ直ぐに追いかけ、そこに向かって努力を重ねる。そんな姿を見ていると、自然と熱いものが込み上げてくる。
とはいえ、俺の一言が彼女の発想に少しでも変化をもたらせたのだとしたら、これほど嬉しいことはない。
以前彼女が口にしていた『画家になる』という夢。そして、俺が抱いた――『写真家を目指す』という夢。
それらが同じように叶うとは思っていないけれど、それでもなにかを変えたいと願うのならば行動しなくてはならない。たとえ無謀であったとしても、無意味に終わってしまう可能性があったとしても。
(――いつか)
若葉が画家として成功した暁には、彼女の作品や彼女のプロフィール写真を、俺が撮れる日が来るように。
そんな未来を夢見て、俺は手にしていたスマホをジーンズのポケットにそっとねじ込んだ。