陽が落ちる時間が前回のデートよりも早くなってきていて、空にはうっすらとオレンジ色のカーテンが広がっている。時折吹く風が彼女の黒髪をたなびかせていく。

「雪也くん、早く!」

 先に遊歩道をのぼっていく若葉が振り返りながら手招きしてくる。少し上段を歩く若葉のスカートが揺れる度にちらりと覗く白い足に気を取られてしまうけれど、不自然に視線を逸らしたら意識しているみたいでなんとなく嫌だなとも思う。そんな俺の葛藤を知る由もない彼女は、どこか嬉しそうな表情を浮かべていて、心の底から楽しんでいる様子が伝わってくるようだ。その表情はとても無防備で、心の壁すらもすり抜けてしまいそうな勢いだった。
 なんだか居た堪れなくなって目を逸らしながら俺は足早に彼女の背中を追い、隣に並んだ。遊歩道をのぼり切ると、舗装されていない土の部分に入り、ざくざくと音をたてながら進んで行く。

「そんなに慌てなくても夕焼けは逃げねぇよ」
「でも、もうお盆過ぎたし、早くしないと夕焼け見そびれちゃうかもよ?」

 悪戯っぽく笑う彼女の姿に、俺は小さくため息を吐いた。

(ああもう……)

 そんな表情を見せられたら、期待してしまいそうになる。もしかしたら、彼女も俺と同じ気持ちなんじゃないか――と。そんなはずはないと頭では分かっているはずなのに、心がざわついて落ち着かない。

「足元、気を付けろよ」
「大丈夫だよ~」

 俺の言葉に笑いながら応えてみせる彼女だが、そう言うわりには危なっかしい足取りで歩いているので、俺は咄嗟に彼女の手を取ってしまった。

(やべ、つい)

 ハッと我に返るもすでに遅く、若葉が驚いたように目を瞬かせた。咄嗟に言葉を絞り出そうと試みるものの、上手く言葉が出てこない。

「ほら、……手ぇ貸せ。こーしたらコケたりしねぇだろ」

 俺が苦し紛れにそう告げると、若葉は一瞬恥ずかしそうに視線を彷徨わせたものの、こくりと小さく頷いておずおずと俺の手に指を絡めてくる。その指先は、細くて柔らかい。

(なんか……変だ)

 とにかく心臓が落ち着かない。繋いだ手から伝わる熱のせいで余計に心拍数が上がっていくのがわかる。うるさく鳴り響く自分の鼓動の音が彼女にも聞こえてはいないかと心配になってしまうほどだ。

「ありがと……」

 少し視線を下げた彼女の頬は少し赤く染まっていて、それが夕焼けによるものなのか、あるいは別の要因によるものなのかは分からない。けれど、どちらにしても俺の心を揺さぶるには十分すぎる破壊力があった。

「……おう」

 それ以上の言葉は上手く続けられず、俺はぶっきらぼうな口調でそれだけを返すと黙り込んだ。それきり会話が途切れてしまい、俺たちの間に静寂が訪れる。その静けさが心地よく感じると同時に、名残惜しさも感じてしまうのだから不思議なものである。
 河川敷まで続く道には街灯が少なく薄暗いためか人影もなく、まるでこの世界に二人しかいないかのような錯覚を抱いた。足を動かすたびにざくざくと土を踏む音が響き、吹き抜ける風の音がやけに大きく感じる。そのどれもが、俺と若葉を周囲の世界から切り離そうとしているような気がしてならなかった。

「あ、見えてきた!」

 河川敷の少し拓けた場所に出たところで、若葉が弾んだ声を上げた。土手の上に立つと視界が開け、夕焼けに染まる街並みがよく見渡せる。
 眼前にはオレンジ色に染まった空が広がっていて、それを映した川の水面もまた同じ色に煌めいている。その景色はまるで一枚の絵画のように美しく、えも言われぬ美しさにぐわりと心を揺さぶられる。

「……」

 お互いに言葉は無くても居心地は悪くない。ただ黙って二人で空を見上げているだけで心が満たされるような気さえするのだから不思議だ。
 目の前に広がるオレンジ色は、どこか切なくて、それでいて温かみのある色をしているように感じた。
 ざわりと、生暖かい風が頬を撫でていく。その風は、どこか夏の終わりを感じさせるものだった。草木が揺れる音が妙に物寂しい。それでも、ただぼんやりとその景色を眺めているだけで胸の奥が安らいでいくような気がする。

(ああ……)

 この光景を、俺は一生忘れないだろう。このまま時間が止まってしまえばいいのに、なんて柄にもないことを思った。
 しばらくすると夕日が水平線に沈み始め、空の色は少しずつ青みを帯びてくる。刻一刻と表情を変えていく明るい空に、ゆっくりと群青色が混ざり合っていく。水面が風に揺れる度に、それに合わせて空も揺れ動く。まるで魔法のようなその光景は、とても幻想的だった。風の音と、遠くで鳴く虫の声が、目の前の景色をより美しく引き立てているようだった。

「綺麗だな……」

 そんな陳腐な感想しか出てこない自分に嫌気が差す。もっと気を利かせた言葉の一つや二つくらい言えればいいのにと思うものの、肝心な時に上手く言葉が出てこない自分が情けなくて仕方がない。

「うん、本当に……綺麗」

 若葉は目を細めて、うっとりとした様子で夕焼けを見つめていた。その表情はとても穏やかで、見ているこちらまで心が満たされるような心地になる。

「写真、撮らなくていいのか?」

 俺がそう問いかけると彼女はハッとしたように目を見開いたあと、少し照れ臭そうに微笑んでみせた。

「そうだったぁ~」

 ゆっくりと、名残惜し気に指先が離れていく。それをひどく寂しく思う自分に気がついてしまい、俺は小さくため息を吐いた。

(くそ……なに考えてんだ)

 なんだか急に気恥ずかしくなってきて、俺は視線を逸らすように俯いた。視界の端では、スマホを空に向けている若葉の姿が見えていて、パシャリとシャッターを切る音がした。

(……俺も、一枚……)

 普段はあまり写真に写ったりはしないのだが、今だけはこの光景を残しておきたくてスマホを取り出す。夕日に染まり始めた群青色の空に彼女の黒髪が揺れている。その光景はまるで一枚の絵のようで――心の中心を射抜かれてしまうような気がした。
 ふっと小さく息を吐き出しながら、目の前の夕焼けを四角く切り取るようにシャッターボタンを押すと、カシャリという音が響いた。ディスプレイに映った夕焼けは、不思議といつもより綺麗に見えた気がした。もちろん、今日見に行ったプロの写真家が撮影したそれらには到底及ばないが。

「いい写真撮れた?」
「ん」

 こちらを振り返った若葉の言葉に小さく首を縦に振って応えると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。その笑顔にまた心拍数が上がっていくのを感じてしまう。

「これもインスタにあげよっと」

 俺の隣まで歩いてきた若葉がスマホを操作し始める。その横顔を横目で見ながら、俺も手元のスマホに視線を落とした。

(俺ばっかり……意識してるみたいだ)

 事実、きっとそうなのだろうと思う。彼女は誰とでも分け隔てなく接するタイプの人間だから、俺だけが特別、ということはないのだろう。そう思うと心が焼けるような、鈍い痛みに襲われた。その感覚を振り払うように、俺は小さく首を振った。

「俺も投稿してみるか」

 せっかく撮った写真だ。ついさっき作ったアカウントだからフォロワーは若葉しかいないけれど、それでも今の気持ちを残したい。そんな想いに駆られながらインスタグラムのアプリを起動させると、不意に若葉が顔を上げた。