名札パスを首から取り、出口付近に立っている係員に返却する。

「ありがとうございました」

 係員の人の明るい声に見送られ、俺たちは会場を後にした。

「はぁ~~……すごい良かった~……」

 展示会場を出た瞬間、若葉は脱力したように大きく息を吐き出す。その表情はとても満足げで、彼女の瞳の奥がきらきらと輝いているように見えた。そんな些細な仕草の一つ一つでさえ愛おしいと思うくらいには、俺は彼女に惹かれてしまっている。だからこそ、もっと色んな表情を見たいし、その手助けをすることが出来ればいいと思う。

「俺も、あんなすげーの見られて良かった」

 待ち合わせ場所にしていた浅草駅に足を向けながら、自然と口元が綻ぶのを感じていた。これまで芸術に触れる機会が少なかったこともあり、今日目に焼き付けたそのどれもが美しく印象に残っていて、そんな作品に出会えたことを嬉しく思った。

「雪也くん、誘ってくれてありがとう」

 目を細めふにゃりと笑う彼女の笑顔はいつもよりもさらに輝いて見えて、頬にかっと熱が集まっていく。

「別に……俺が見に行きたかっただけだから」

 照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調でそう返すと、彼女はまた楽しそうに笑った。

「あ」

 駅前の公園に差しかった時、隣を歩く不意に彼女が短く声を発したかと思うと、俺の服の裾をくいくいと引っ張ってきた。急に近くなったように感じた距離感にドキリとしながら振り返ると、彼女は俺の背後を指差していた。

「ん? どうした?」

 彼女の指先を辿っていくと、そこには一軒のアイスクリームショップがあった。看板には『新フレーバー発売!』という文字が書かれており、どうやら新作のアイスを販売しているらしいことが伺える。

「あ~……食べたいのか?」

 そう問いかけると、若葉は目をキラキラさせて無言のまま大きく頷いた。その仕草が小さな子どものようで、つい吹き出してしまう。そんな俺の様子に不服そうな表情を浮かべながらも、若葉は上目遣いでこちらを見上げてきた。

「……嫌ならいいけど……」

 若葉はそう言いながら、俺の前に回り込んできて顔を覗き込んでくる。

(いや……近い近い……)

 その距離感の近さにまた鼓動が早まるのを感じた。けれどそれを悟られまいと必死に平静を装いつつ、少し視線を逸らしながら俺は口を開く。

「別に……嫌とは言ってねぇだろ」
「やったっ!」

 俺の言葉を最後まで聞き届けることなく、若葉はぱぁっと相好を崩した。そしてそのまま俺の手を取ると、半ば強引に歩き出す。彼女の手のひらの柔らかさに心臓が高鳴るのを感じてしまう。

「ちょ……っ」
「もう五時だし、早くしないと売り切れちゃうかも!」

 俺が抗議の声を上げるも、若葉は全く意に介さない様子で足早に進んでいく。彼女に手を引かれる形ではあるものの、手を繋いでいるという事実に心臓の音が速くなっていくのが分かった。

(落ち着け俺……)

 心の中でそう唱えながら深呼吸をする。しかし、そんな俺の努力など知る由もなく、若葉は俺を引っ張るようにどんどん先へ進んでいく。

(手、……小せぇな)

 俺はそんなことを考えながら、繋がれた手に視線を向けた。俺のものよりも一回りは小さくて細い彼女の手は、少し力を入れたら折れてしまいそうなほど華奢に見える。けれどその手から伝わる温もりは、優しくて、心地良くて――ついもっと触れていたくなってしまうような気持ちに駆られてしまう。
 そんなことをぼんやりと考えていると、あっという間に目的のお店の前に辿り着いてしまった。テイクアウト専門店らしく、ショーケースの中には様々なフレーバーのアイスが並んでおり、若葉は目を輝かせながらそれを見つめていた。

「どれにする?」

 メニュー表を指差しながらそう問いかけてくる若葉につられてそちらを見ると、そこには色とりどりのアイスクリームの写真が並んでいる。その種類の多さに圧倒されながら見渡していると、眉根を寄せている若葉の表情が目に留まる。真剣な表情で悩んでいる姿が可愛らしくて、口元が緩んでしまいそうになる。

(どうして……俺なんだろうな)

 そんな疑問を抱きながらも、俺はその答えを聞くことができないでいた。もし聞いてしまったら、今の関係が崩れてしまいそうで怖かったからかもしれない。

「よし、決めた! おっきい方のチョコにしようかな。雪也くんは?」
「俺はメロンの小さい方」

 そう答えて俺たちはレジへと向かい、それぞれ違うフレーバーのアイスを受け取って店を出た。近くの空いているベンチに腰をかけると、若葉は器用に片手でスマホを操作しアイスの写真を撮っていた。

「……あ、これ? インスタにあげるの!」

 俺の不思議そうな視線を感じたのか、彼女はにこにこと満面の笑みを浮かべながらスマホの画面を見せてくる。そこには先ほど撮影した写真が投稿された様子が映し出されており、『新作のアイス! 見た目から美味しそう~♪』というコメントが表示されていた。

「ふぅん……」

 友人がほとんどいない俺には縁のない話だったため少しばかり気のない返事を返してしまうものの、興味がないわけではない。ただ、代わり映えのない日常しか送っていないので、そうしたSNSになにを投稿したらいいのかも分からない、というのが正直なところだった。

「……」

 ポケットからスマホを取り出し、若葉が使用しているアプリをダウンロードしてみる。アプリを起動させると、ユーザー登録の画面が表示された。プロフィール写真に、今手に持っているアイスの写真を撮影してみるものの、あまりスマホで写真を撮ることもないので上手く撮れず、見栄えの悪いものしか撮影できない。

「雪也くん、どうかした?」

 隣に座る若葉がスマホの画面を覗き込みながら尋ねてくるので、俺は素直に答えることにした。

「インスタ……登録した」
「え! そうなの?」

 驚いたように目を丸くしている彼女に小さく頷いてみせると、彼女は嬉しそうに顔を綻ばせる。

「じゃ、一緒にアイスの写真撮ろ!」

 若葉は笑顔のまま俺の手に自分の手を重ねてくる。突然のことに驚いて反応できずにいると、彼女はそのまま俺の手を彼女が持つアイスの隣に添えてきた。スマホのカメラを起動させた若葉が、横並びのアイスを画面に収めようとぐっと身体を寄せてくる。その瞬間、ふわりと甘い香りが鼻腔をくすぐった。
 若葉にも聞こえてしまうのではないか錯覚してしまうほど、心臓が大きく響いている。顔が、全身が熱い。

「撮るよ……はいっ」

 シャッター音が鳴り、スマホの画面には少し溶けかかったチョコとメロンのアイスが映し出される。若葉はそれを確認すると、ぱっと手を離してスマホを操作し始めた。

「うん、いい感じ!」

 どうやら写真の出来栄えに満足したらしい彼女はメッセージアプリを経由して俺にもその写真を送ってきた。

「……サンキュ」

 その写真をプロフィール写真に設定すると、早速、通知欄に赤いマークが付いていることが確認できた。それをタップすると『若葉』というユーザーからフォローされた旨が表示されていた。

「えへへ、フォローしちゃった」

 若葉はそう言って悪戯っぽい笑みを浮かべる。柔らかくて華奢な手のひらの感覚が、まだ自分の手の甲に残っているような気がして落ち着かない。

「おう」

 俺はそれだけを返したが、正直かなり動揺していた。こんなに身体を密着させたのも初めてで、彼女の体温や感触を直に感じてしまった。そのことが、ずっと頭から離れずにいる。今すぐこの場から離れたいような、そうでないような。心臓の鼓動は速いままで、ひどく落ち着かない気持ちにさせられる。
 その動揺を抑え込むように、冷たいアイスをゆっくりと口に運ぶ。口の中に広がる甘さが心地よく、昂った心が少し落ち着くような気がした。