夏休みの間は、時間の流れがやけに遅く感じる。この猛暑のせいもあり、食欲が落ちてなにをする気も起きない。普段はこの居室は二人部屋なのだが、今は夏休みということもあり、一つ歳下の同居人で近所の工業高校に通う松尾(まつお)が親元へ一時的に帰省していて一人で過ごす時間が多く、そのため気が付けばダラダラとしてしまうせいもあるのかもしれないが、とにかく一日が長く感じるのだ。
 施設を退所した後の自立資金を貯める為、冬休みや春休みなどのまとまった休暇がある時はいつも短期バイトをしていたが、今年は来月から就職試験が解禁される。職場見学会や校内推薦や希望企業選定などのスケジュールに備え、今年だけは施設長がバイトを許可してくれなかったという経緯があり、普段の長期休暇と違い特にやることもない。夏休みの課題や就職試験で行われるであろう適性検査などの勉強も進めてはいるものの、どうも身が入らない。

(課題ぐらいそろそろ終わらせないとな……)

 軽い朝食を取り終えた俺は居室の二段ベッドに寝転がりながらスマホを手に取り、カレンダーを開く。画面を八月から九月へスワイプすると、応募書類提出開始日の日付が目に入った。

「あ、やべ……応募書類まだ書いてねぇ」

 慌てて起き上がり机に向かうと、引き出しから履歴書を取り出した。第一希望だった大手ガス会社への推薦が決定し、もう就職試験に向けての具体的な準備を進めなければいけない段階にきている。大手ガス会社を希望したのは、入社できれば三十五歳まで手厚い福利厚生付きの社員寮に入寮できる企業だったことが決定打だった。俺は高校を卒業すれば、この施設を退所しなければならない。とにかく生活基盤を安定させることを優先し、施設の職員たちにも安心してもらえるように考えた結果だった。
 机の上のペン立てに腕を伸ばし、愛用のボールペンを手に取った。

「……っ、と」

 その瞬間、持ったはずのボールペンが乾いた音を立てて机の上に転がっていく。最近、なぜだかこうしてペンを落としてしまうことが多い。俺は小さく舌打ちをしながら、転がったボールペンにもう一度手を伸ばした。

「……」

 生年月日や学歴を順調に埋めていくも、志望動機欄でボールペンを走らせる手が止まる。

「ん~~……」

 自らの意思で就職先に選んだとはいえ、特に情熱や期待がないだけに志望動機が思い浮かばない。なんとか冒頭の文章を捻り出しはしたものの、将来への展望や意欲がないせいでありきたりなものになってしまう。

「ネットからなんか引っ張ってくるか……」

 先ほどベッドに放置したスマホを手に取り、検索サイトで「志望動機」と入力する。表示された検索結果のリンクをタップすると、様々なサイトが羅列されていた。その中から参考になりそうな文章を探すも、どれもいまいちピンとこないものばかりだ。

「……ん?」

 ふと、視界に入ったのはWEB広告だった。澄み渡る青と、綿あめのようなやわらかな白。そのグラデーションの美しい画像に、俺は思わず目を奪われた。

「これ……」

 それは空をテーマにした写真展の告知だった。画像をタップすると、展覧会の公式サイトに遷移した。キャッチコピーは『空の旅』、開催期間は八月十五日から八月二十日――今日まで。場所を確認すると家から電車で一時間半ほどの場所にあるようで、俺はスマホの画面をスクロールし詳細を確認していく。

(これ……あいつ好きそうだな)

 公式サイトに綴られた概要を眺めているうちにふと脳裏に浮かんだのは、俺の隣で目を輝かせながら展示物を眺めていた若葉の姿だった。絵画ではないけれど、きっと若葉がこういった写真の展示会も興味があるはずだと、なんとなく直感でそう感じていた。俺はそのまま、無意識のうちにメッセージアプリを立ち上げる。

『今日、暇?』

 そう入力して送信ボタンを押すとすぐに既読がついた。一分も経たないうちに返信がくる。

『お昼で部活終わるから午後なら空いてるよ! どうしたの? 笑』

 文面からでも彼女の嬉しそうな様子が伝わってくるようで、ふっと口元が緩む。それから俺は、さらに続けてメッセージを送った。

『この展覧会、今日までらしいんだけど、一緒に行かねぇ?』

 公式サイトのURLを貼り付けて送信ボタンを押すとすぐに既読がつき、またすぐに返信が来た。

『行く! 行きます‼』

 迷いのない彼女の即答がなんだかおかしくて、一人で小さく笑ってしまった。同時に、不思議と安心感のような温かな気持ちが湧き上がってくる。
 いくつかのやり取りを繰り返して、俺たちは約束を取り付けた。待ち合わせ時間と場所を決め、ベッドから飛び起きると、そのまま部屋を出て職員室へと向かった。

「あれ? 雪也くん出かけるの?」
「あ、はい。ちょっと」

 プレイルームや多目的ホールから聞こえてくる子どもたちの賑やかな声。それらを聞き流しつつ職員室の扉から顔を出すと、デスクで作業をしていた事務の先生に声をかけられる。俺もそれに応じるように小さく会釈した。

「その、就職試験のための問題集が欲しくて」
「そっか、気をつけてね」

 正直な理由を話すのはなんとなく憚られて、俺は咄嗟にそれらしい理由をでっち上げた。彼女は俺の嘘を信じたようで、特に疑う様子もなく笑顔で見送ってくれる。

「ありがとうございます」

 俺はそれに小さく頭を下げて答えると、そのまま玄関に向かい靴を履く。そして勢いよく外へ飛び出すと、そのまま駅に向かって駆け出した。