中学三年生の夏のある日。こんな事かあった。前日から降り続ける豪雨のせいで地面はぬかるんでいた。高円さんの自宅への配達をしようとして、彼女の家の門の前に自転車を止めた。ポストに手を差し出した瞬間、オレは無様に転んだ。ポストの角に頭を打ちつけてしまった。高円さんの母親が慌てて家から飛び出してきたので、オレは、すみやかに謝罪した。

『お騒がせしてすみません。大丈夫です。滑って転びました』

 高円さんの母親か、ピンク色のエプロンの裾で僕の額を拭きながら言った。

『腕も擦り剥いてるわね。消毒するわね』

『擦り傷です。平気です』

 消毒してもらったオレは頭を下げた。恥ずかしくなり慌てて立ち去ろうとして自転車で離れたのだが、手渡した新聞が泥だらけになっていることを詫びる為に引き返したのだ。

『お母さん、あの音、何だったの?』

 門の前まで戻って生け垣から高円さんの自宅の様子を覗き込むと、玄関先で花に水をかける高円さんと母親の声が聞こえてきた。

『それがね、先刻、新聞配達の山田くんが転んだのよ。服に泥がついていたから着替えなさいって言いたかったけど急いでいたみたいだったの。ズボンに穴が開いてたわ。転んで膝を擦り剥いたのね』

 それは違う。転んだせいではない。古着として手に入れた時から派手に破れている。

『まだ子供なのに働いてるのよ。お父さんがいなくて大変みたいよ』

 オレはギュッと目を瞑って覚悟していた。可哀想な子。きっと、そう言われると思い込んでいたのだが、高円さんの母親は涼やかな声で言った。

『あなたのパパも子供の頃に新聞配達をしていたのよ』

『パパは母子家庭で大学の学費も自分で作ったんだったよね』

『パパ、頑張り屋さんだったのよ。そういうところが素敵だったの』

 楽しそうにのろけていた。少女のような高円さんのお母さんの横顔は若々しくて愛らしかった。

『ママ、パパが新聞配達していると知っていたから、バレンタインの日にはチョコレートを作ってポストの前に立っていたのよ。二月の朝は薄暗いの。ママはねポストの前にいたのよ。あの時、パパ、びっくりしていたわよ。懐かしいわぁ……。ほんと、あの頃からパパはイケメンだったのよ』

 高円さんの母親が懐かしそうに微笑んでいる。立ち聞きしていた事がバレてはいけない。音を立てぬように去った。高円さんの母親は、オレの家庭環境がどういうものなかを知っている。

 そういえば、高円さんは、中三の冬にオレが村上とチョコレートの事で口論した事件の時も、心配そうな顔でこちらを見ていたっけ。

 あの時、親友の甲斐にポンと軽妙に肩を叩かれた。

『マリオ、誤解されてるぞ』

『えっ、何を?』

『文芸部の小泉飛鳥って子をめぐって村上と喧嘩したことになってるぜ。でも、心配するな。訂正しておいた。マリオは正義感が強いだけで小泉とは関係ないと言っておいた』

 オレは、村上にチョコレートを渡した小泉さんのことが好きだと誤解されていたというのだ。予想外の言葉に驚いていると、甲斐が不思議そうに尋ねてきた。