床に額を擦り付け、佐々木舞子は謝り続ける。
 漫画の内容が内容だけに、犯人が許しを乞うているようにしか見えない。
「何……一体、何が描かれているの?」
 金森百合が上擦った声で問う。返事がないとわかると、「私にも読ませてっ!」と駆け寄ってきた。
 馨は原稿を差し出した。金森百合がひったくる。そしてものすごい速さで瞳を動かし、読み終えると、「佐々木さんが犯人ってこと……?」と言った。
「違うっ! 私がリア先生を殺すわけないでしょっ!」
 佐々木舞子が顔を上げ、反論した。
「でも昨日の警察官が犯人は二人だって言ってたし、ここには浮気があったことが描かれてる。健太郎さんと結婚した佐々木さんが一番怪しくない?」
 それはそうだが、この漫画を隠し持っていたのは編集の新堂で、佐々木舞子は自らこれを見せにきた。
「私は浮気なんてしないっ! リア先生を裏切るようなこと、するわけないっ!」
「……じゃあ、誰が浮気してたの?」
 その時、隣で馨が小さくしゃくりあげた。
 いつもと様子が違う。「大丈夫か?」と小声で問うと、馨はふらりと立ち上がった。薄い背中が危なっかしい。俺は慌てて後を追った。
 階段を上がる前に振り返り、「皆さんはそこにいてください」と釘を刺した。
「馨っ」
 馨は母親の寝室へ向かった。馨は一昨日からそこで寝泊まりしている。他の部屋は手付かずで、埃っぽい。
 真新しいシーツの掛かったベッドに、馨はいきなり突っ伏した。
 モゾモゾと体を小さく丸める。
 俺はベッド横へ行き、しゃがんだ。前髪が片側に落ちた馨はいっそう幼く見えた。
「可哀想なお母さん」
 馨の愛らしい唇が小さく動いた。
「どっちの?」
「どっちも」
 馨のほっそりした手が伸びてきた。人の顔を無遠慮にベタベタと触ってくる。赤ん坊のようにやりたい放題の手つきが不思議と嫌じゃない。
「お父さんが浮気してたこと、僕は知ってた。浮気なんて言葉は知らなかったけどね。お父さんがいけないことしてるのはわかってた」
 馨は苦しげに微笑んだ。
「お母さんが気づいたらどうしようって……あの不安はなんだったんだろう。お母さんも知ってたのにね」
「……馨」
「こっちきて」
 舌足らずな声に誘われるがまま、俺はベッドに乗った。
 グッと腕を強く引かれ、視界が回る。
「っ……」
 その細っこい体のどこにこんな力を隠し持っていたんだろう。一瞬で馨が上になった。俺は唖然とするしかない。甘えん坊の次男は、添い寝を求めたわけではなかったのか?
「か、おる……?」
「兄さんは知ってたのかな」
 馨は猫のような目をクッと細めた。
「彰、何か聞いてない?」
 ゴクッ、と喉が鳴った。馨の言わんとしていることを察し、たちまち顔が熱くなった。
「気づいてないとでも思った? 兄さんのカードはお母さんの名義だもん。明細を見るのは簡単だよ。しょっちゅうウーバー利用してるでしょ。金額見れば、誰かと一緒にいるってわかるよ」
 第一ボタンまで留めたシャツを、馨の手によって暴かれる。真新しい噛み跡を、馨は冷ややかに見下ろした。
「痛そう」
 両手を絡め取られ、シーツに縫い止められた。
「彰、僕が一番知りたいのは、兄さんが見た景色なんだよ」
「っ……」
「社交的で明るかった兄さんが、お母さんが死ぬだけでああはならないでしょ。兄さんは絶対事件に絡んでる」
 俺は身をよじって逃れようとした。でも馨の力は驚くほど強かった。
「ふうん。彰は兄さんから何か聞いてるんだ」
「離せっ……」
 翔平さんとそういう関係と知られた上でジッと見下ろされるのは、裸を見られる以上の屈辱だった。
 馨といる時、俺はいつも兄役だった。馨のわがままに付き合い、庇護し、頼られた。都合のいい相手といってしまえばそれまでだが、好きな人の弟に頼られるのは心地よかった。
 そんな、弟のような存在の友達に、知られてしまった。……知られていたのだと思うと、血の気が引いた。
「離せよっ!」
「兄さん、僕とは口聞いてくれないから、彰から頼んでね。八年前のこと、ネームにしてって」
「翔平さんはっ……関係ないっ……」
「ああ……ネームじゃなくて、兄さんは文章でいいよ」
 ただでさえ翔平さんは苦しんでいるのに、そんな追い討ちをかけるようなこと、できるはずがない。
「彰」
 首筋に、馨が顔を埋めた。傷跡を舌でなぞられる。
「やめろ……馨っ!」
 足をバタつかせると、バチッと鋭い痛みが走った。
 電流……スタンガンだと理解すると、体が恐怖でこわばった。
「馨……やめろ……そんなことして、何になるんだよっ」
 馨はチロチロと皮膚を舐めてくる。翔平さんと違って噛み付きはしない。柔らかい舌の感触がくすぐったくて、感じた。
「やめてくれ……馨っ……」
 逃れようとすれば、容赦無くスタンガンで痛みを与えられた。
 痛みと快感を交互に与えられ……どれくらい経っただろう。
「わかっ、た」
 気づけば勝手に口が動いていた。
 馨は俺の皮膚から顔を離した。
「翔平さん……に、言って……みる」
「うん。言って、ちゃんと貰ってきてね」
 馨は幼児にするように、よしよしと俺の頭を撫でた。