容疑者候補。アシスタント三人判明
 葉山ララ。葉山リアの死後、葉山リアの旦那と結婚。ソメコイを完結させた。
 ゆりんこ。コミカライズ作家。アシスタント最年少。
 月城恋。ボーイズラブ漫画家。少年たちのエモを詰め込んだほのぼのな作風で絶大な指示を得ている。
 それがSNSに投稿されるなり、私のフォロワーは瞬く間に一万人増加した。
 フォロワーの数は向けられた銃口の数、とはよく言ったものだ。私の投稿には、何百件もの「人殺し」というリプがついた。
 トレンドにも「葉山ララ」が上がっている。「葉山ララが殺したんじゃない?」とか、「犯人は葉山ララで決定」とか。
 別にそんなのはどうでもいい。だって私は犯人じゃない。何も後ろめたいことをしていないから、「殺人犯」と言われても全然平気。
 でも……
「ソメコイ、葉山ララが書くようになってからマジでつまんなかった」
「ブー子をあんな目に遭わせた葉山ララは鬼畜。リア先生はあんなの絶対望んでない」
「ブー子が死んでからソメコイ全巻捨てた。一番好きな漫画だったのに」
「作者が変わってたって知って納得。だって途中からクソだったもん」
 私の描いたソメコイが非難されるのは、胸が捩れるほど悲しかった。
 私は作中でブー子を殺した。当時も反響は大きくて、私は体調を崩した。覚悟していたのに、それ以上の批判に体が耐えられなかったのだ。
 どうしてブー子をあんな目に遭わせた。
 呪いのようにその言葉が頭にこびりついて離れない。
 でも、悪夢にうなされようが、批判されようが、私は自分の描いたブー子の結末が間違っていたとは思わない。今、改めてブー子の結末を描いてみろと言われても、きっと同じように描く。なんなら、もっと悲惨な目に遭わせるかもしれない。
 神田出版に入るなり、新堂が駆け寄ってきた。
「ララ先生。おはようございます」
 眠れなかったのだろう、新堂の目の下は黒かった。
 昨日、葉山リア邸から帰宅すると、新堂から「明日会社に来て欲しい」と連絡があった。
 特に要件を聞くことなく、私は言われた通りに来社した。
「こちらへ」
 と通されたのは、小会議室だった。新堂は早速、いかにもなアタッシュケースから原稿を取り出した。
 そうだろうとは思っていたが、いざ、それを見ると脈が早くなった。
「ララ先生には、先にお見せした方が良いと思って……」
 だったらどうして今まで隠していたの? そんな嫌味が口から出そうになる。
「川島さんは、読んでいるんですよね?」
 川島洋子。昨日、なぜかあの女は「あれを読めば、誰が犯人かすぐに分かるわ」と得意げに言った。
 うねった黒髪に、厚い皮膚。川島の第一印象は、「プライベートでは関わりたくない」で、八年ぶりに再会した昨日も全く同じ感想を抱いた。
 あの女は昔から陰気で、何を考えているかわからない。けれど無口というわけではなく、日に一度は必ず人を不快にさせる嫌味を放つ。顔も性格も終わっているのだ。
 葉山リア先生が殺されたのも衝撃だったが、正直、隣人が川島洋子と不倫関係にあったという方が衝撃だった。だって……あの容姿だ。できちゃった? その前によくできたな、という感じ。もしや脅されているんじゃないか……そんな勘ぐりまでしたくらいだ。
「どうして川島さんが読んでいたのかは、私にもわかりません」
 新堂は言った。川島洋子は他社で漫画を描いているから、ペンネームではなく本名で呼んでいる。
 というかあの投稿を見るまで、川島洋子が月城恋で、ボーイズラブ漫画を描いていることを、私は知らなかった。
「読みますね」
 私は新堂の手から、原稿を受け取った。そこには確かに葉山リア先生の漫画が描かれていて、不覚にも鼻の奥がツンとした。

『この家には三人のアシスタントが出入りしている』
 というモノローグから始まった。
『元ミスコンのA子。ファッションやコスメに明るい彼女はいつもオシャレで、私は彼女を見習って、家から出ない日でも綺麗な格好でいようと努めた。彼女とはしょっちゅう漫画のことで対立した』
 初っ端、私のことが描かれていて、私は息を詰めていた。次のページに移る前に、ひとつ深呼吸する。
A子『美の表現が不適切です。鼻が低いことはダメなんですか? 天然パーマは汚いんですか? 私はそうは思いません。先生が連載しているのはコンビニ雑誌じゃないんです。少女漫画誌なんです。繊細な年頃の少女がこれを読んで、どう思うか考えてみてください』
葉山リア『うるさいわねえ。そんなこと言ってるからあんたは万年アシスタントなのよ。鼻は低いより高い方が良いに決まってるじゃない。天然パーマはみんなストレートヘアに憧れてるわよ。私はね、本当のことを描いてるだけ。ダメなものをダメって描くから私の漫画は売れてんの。リアルだって評価されてんの。じゃああんた、天然パーマで鼻の低い女を主人公にして描いてみなさいよ。誰も読まないわよ、そんな漫画』
『誰もしない指摘をA子は私にぶつけた。私はいつも乱暴に彼女を言い負かした』
A子『ブー子が神格化されすぎています。このままでは、援交も整形も正当化されてしまう。先生、ブー子を痛い目に遭わせましょう。ブー子は素敵なキャラクターです。だからみんな憧れてしまう。真似してしまう。犯罪も整形も簡単に成功すると思ったら、悩んでいる子が足を踏み入れてしまう。リアルを売りにするのなら、代償も描くべきだと思います』
『彼女の言うことはもっともだった。もっともすぎてつまらなかった。私の漫画はリアルを売りにしたエンタメだ。どう見ても美少女を平凡な女子高生として、警察や教師を無能として描く。少年漫画じゃあるまいし、人気キャラクターを痛い目に遭わせるなんて、できるはずがなかった』
葉山リア『あんた、何も分かってないわね。私の漫画はリアルな少女漫画で、ルポ漫画とは違うの。エンターテイメントなの。読者を不愉快にさせる展開を描くわけにはいかないの』
『A子をアシスタントから外さなかったのは、彼女の美的センスが優れていたからだ。それに漫画では対立していたけれど、一番気が会うのは彼女だった』
『私はA子の人間性が好きだった。美人で、気が利いて、可能ならば永遠にアシスタントとして側に置いておきたいとすら思っていた。でもそれ以上に、彼女には早く一人前の漫画家になって欲しい、売れて欲しいと思っていた』
 リア先生……
 目の奥が熱くなり、ジワリと涙が溢れた。感極まっている私に、「ララ先生、続きを」と新堂が促す。
『最年少のB子。高校生の彼女の感性は漫画作りに大いに役に立った。文章も絵文字もメッセージツールも時代とともに変化している。イケメンやカワイイの定義も進化している。私のリアルな漫画に彼女は必要不可欠だった』
B子『え〜、ムラケンってなんか暑苦しくないですかあ? 私、あんまり好きじゃないなあ。ナルシストっぽいし』
葉山リア『じゃあB子の周りでは誰が人気なの?』
B子『関西ボーイズの田宮くんとか、朝のオーディション番組のミンホくんとか。……あ、あとヨメアオのカズミくんとかっ!』
『ヨメアオ。僕が余命宣告された日は美しく晴れた青空だった。という人気少女漫画だ。他社だけどもちろん私も読んでいる。白血病の知識もない現役女子大生が描いたその漫画が、私は大嫌いだった』
葉山リア『へえ。あんた、そんな薄っぺらいお涙頂戴漫画なんて読んでるのね。主人公が死ぬって分かってて読むストーリーは切ないものね? ふうん。最近の女子高生ってああいう露骨なものでも楽しめるんだ。っていうか、あそこまでわかりやすく描かないと理解できないのかもしれないわね。勉強になった。ありがとう』
『B子と言い合うことはなかった。いつも私が一方的に言って終わるからだ。大人気ないと思っていても、私には気に入らないものを受け入れる寛大な器がなかった』
 モノローグからは、リア先生の後悔が伝わってきて、私は不器用なリア先生のことがますます好きになった。
『職人肌のC子。美大出身の彼女は私よりも優れた技巧を持っていた。良い編集者と出会うことができれば、彼女ならすぐに人気作家になれるだろう。少女漫画より、少年漫画か、あるいはボーイズラブが良いかもしれない。彼女の描く男キャラクターは惚れ惚れするほど魅力的で、女キャラクターは笑ってしまうほど醜悪だから』
編集D『C子、あなたの描いた漫画、読ませてもらったけど、あれじゃあ連載会議は通らないわ。いじめを題材にするのは良いけど、いじめられて当然、みたいな主人公じゃ読者はついてこれないわ。少女漫画の主人公は外見が可愛ければ良いってわけじゃないのよ』
葉山リア『C子、あんた、女が嫌いなんでしょう。男キャラは力を入れて描くのに、女キャラは手を抜いてるわよね』
C子『別に……手を抜いてるわけじゃ』
葉山リア『あんた、少女漫画が合わないんじゃない? ボーイズラブでも描けば?』
『せっかく才能があるのに、適性のない分野に居続けるのは勿体ない。けれど私の提案は、繊細な彼女の心を深く傷つけることとなった。彼女は顔を真っ赤にして俯き、それから私を見ようとしなかった』
 次のページに描かれていたのは、ゴミ箱だった。ティッシュに包まれた使用済みのコンドームを、リア先生が見つけるシーン。
『夫の浮気に気付いたのは、ソメコイのアニメ化が発表された、十月半ばのことだった。まるで鈍感な私に気付かせようとするかのように、それはあった』
『私は血眼で家中を探し回った。ベッドの下には女物の下着が落ちていた』
 私は思わずえっと息をのんだ。
 新堂に戸惑いを向ける。新堂に「続きを」と促され、ページをめくった。
『それからも浮気の証拠は家のあちこちから発見された。……私に見つけられるのを待ち望んでいるようなそれらに、私は胸を掻きむしりたくなるほどの怒りを覚えた』
『犯人は一体誰? 誰がこんなことをしているの? 夫を問い詰めたら良いのかもしれない。でも、すぐに感情的になる私と違って、女を口説き落とすことだけが取り柄の夫は口がうまい。私は、夫の口から犯人を知ることはできないと思った』
『私は編集Dに自殺の相談をした』
編集D『そんなの……できるわけありませんっ! 絶対にバレますっ!』
葉山リア『バレたってかまやしないわよ。私が死んだ後、彼女たちがどういう行動をとるか、私は知りたいだけなの。一日でも本性が出るんじゃないかしら。まあ、一ヶ月程度は様子を見たいけどね』
編集D『その間の連載はどうするんですか』
『私はかちんときた。家の中で浮気されて、私はこんなに辛いのに、この編集者は誌面の方が心配なのだ』
葉山リア『休載に決まってるでしょ。だいたいね、一度も落とさずもう四年も週間連載してるのよ? 少しくらい休んだってバチなんか当たらないわ』
編集D『ですが死んだと周りを騙すのはどうかと……SくんとKくんはどうなるんですか?』
葉山リア『一緒に連れて行くに決まってるでしょ』
編集D『連れて行くって……どこにですか?』
葉山リア『パリ。私、死んでいる間はパリに行こうと思ってるから。SとKとのんびり過ごすの。他の人には祖父母の家って伝えておいて』
編集D『そんな……そんなの、困りますっ』
葉山リア『困ってるのは私よっ! あんたね、さっきからごちゃごちゃ文句ばかり言ってるけど、ちょっとは私の身になって考えたらどうなのっ!? 私は夫に浮気されてるのっ! あんたが寄越したアシスタントに裏切り者がいるのっ! 罪悪感とか責任とか感じないわけっ!?』
編集D『……申し訳ございません』
葉山リア『協力、してくれるわよね』
編集D『……はい』

 最後まで読み終わると、私は静かに新堂を見つめた。
 新堂はひび割れた、血色の悪い唇を開いた。
「リア先生は帰国後、これを暴露漫画として発表するおつもりでした。『私が休載した理由』というタイトルで……編集長も了承済みでした」
「でも、その前に殺された」
 私が言うと、新堂は神妙な顔で頷いた。
「何が何だかわからないまま対応に追われ、ひと段落ついた時に、ララ先生が健太郎さんと結婚するって聞いて……私、ララ先生が健太郎さんと協力して、リア先生を殺害したんだと……」
「勝手に私を殺人犯に仕立てないでっ!」
 思わず声を張り上げた。肩をすくめる姿にさえ、腹が立った。
「……っていうか、疑ってたなら警察に言えば良かったじゃないっ! この漫画を見せて、あの女が怪しいって! どうして今まで、こんな大事なものを隠してたのよっ!」
「この漫画で疑われるのは、ララ先生だけではありません。これが表沙汰になれば、金森さんと川島さんもあらぬ疑いをかけられる。今後発表した作品を、まっさらな気持ちで読まれることはないでしょう。それに私は、ララ先生にソメコイを最後まで描き切って貰いたかった。生前、リア先生は、ブー子の結末はララ先生に任せるとおっしゃっていました」
「うそっ……」
「本当です。それを言うと、ララ先生は今まで以上に作品に口を出すだろうからと、リア先生は黙っておられましたが」
「嘘よっ!」
「本当です……」
「じゃあっ、ブー子を殺しましょうって私が提案したらっ……リア先生はそれに従ったわけっ?」
「そうだと思います。リア先生も、ブー子に憧れてしまう子がいるという現実に危機感を抱いておられました」
「だったら……」
「リア先生が健太郎さんと結婚したのは、将来に不安があったからです」
 一体何の話? 私は眉根を寄せた。
「リア先生は大手出版社でデビューし、三度連載していますが、どれも三巻打ち切りに終わっています。連載会議に通らない日々が続き、リア先生は二十二歳で筆を折りました。早いと思われるかもしれませんが、リア先生がデビューしたのは十三歳です。青春を漫画に捧げた彼女にとって、二十二歳という、大学を卒業する年齢には特別な思いがあったのでしょう」
「リア先生って……子育てがひと段落してから、漫画を描き始めたんじゃないんですか?」
 プロフィールにはそう描いてある。リア先生はいわゆる「なんか描いてみたら受賞しちゃいました系」だ。
 新堂は「いいえ」とかぶりを振った。
「業界とのコネクションがなくなった後も、リア先生は子育てをしながら漫画を投稿し続けていたそうです。技術は申し分ないので、受賞には至るのですが、連載会議でつまずく。『インパクトが足りない』と言われるそうです」
「インパクト……それで、援交や整形を取り入れた……」
「そうです。やっと手に入れた連載、そして初めての四巻続刊です。読者を落胆させるような展開を入れて、人気が低迷することを、リア先生は恐れていたんだと思います」
 言葉が出なかった。
 リア先生がもうこの世にいないのだという現実を意識し、涙が溢れて止まらなかった。
 私の描いたソメコイをリア先生に読んでほしい。……これまでは、リア先生が読んだら怒るだろうなと、常に後ろ暗い気持ちがあった。
「ララ先生は……リア先生を殺害した犯人ではないんですね?」
 新堂の再確認に、私は「違いますっ」と叫んだ。
「もうっ! 私がっ、リア先生を殺すなんてありえないっ! 大大大好きなんだからっ! 大好きすぎてっ、翔平くんと馨くんの母親になりたくてっ、健太郎さんと結婚したんだからっ!」
「え……そう、だったんですか? じゃあ、浮気は?」
「するわけないしっ、誰よっ、浮気してた女っ! 許せないっ! 健太郎さんも最低っ!」
 いや、でも他にアシスタントは二人だけ……
 金森百合は当時高校生だし、川島洋子はシンプルに女としての魅力がない。となると……
「新堂さんっ!?」
 声が裏返った。新堂も「え、ええっ?」と狼狽える。
「だって……新堂さんしかいない……」
「いや、消去法で浮気疑惑かけないでください」
「私は殺人容疑かけられてたんですけど?」
「それは……すみません。八年も犯人だと思っていました」
 一回りも違う女がしおらしく頭を下げ、私は怒る気力を失くしてしまった。勝手に殺人犯だと疑われて、庇われていたと思うと腹が立つけれど、私はそのおかげてソメコイを描き切ることができたのだ。
「まあ……いいわ。私のこと、殺人犯だと思っていたのに、ソメコイを描かせてくれたのよね」
「はい。ララ先生が逮捕されたら、ソメコイを描ける人がいなくなってしまう。金森さんと川島さんは、絵を描くことはできても、キャラの行動原理まで考え、ストーリーを組み立てることはできません。ソメコイを誰よりも愛し、真摯に向き合ってきたララ先生だけが、読者の納得するストーリーを作ってくれると、私は信じていました」
「……ごめんなさいね。期待に応えられなくて」
 私の卑屈な返しを、新堂は微笑みで受け止めた。
「期待以上ですよ。ブー子死亡回の反響は、アニメ化発表直後よりも大きかった。単行本は発売前に重版。何事かと、普段ソメコイを読んでいない層の興味も引き、新しい読者も獲得しました」
「……でも、叩かれた」
「ララ先生は、それも覚悟の上でブー子を殺したんですよね?」
 私はこくりと頷く。
「あんなに叩かれるとは思わなかったけど」
「私もです。ですが、あれで良かったんです。実はソメコイは……教育関係者や保護者の働きかけで、有害図書として規制される恐れがありました」
「えっ……」
 有害図書。性、暴力、自殺、犯罪などに関して、露骨な、もしくは興味本位な取り上げ方をした出版物。青少年の人格形成に有害であるとして、未成年への販売が禁止される。
 ソメコイはリアルを売りにした少女漫画。有害図書認定され、未成年者への販売が禁止されたら、「リアルな少女漫画」とは言えなくなる。大ダメージだ。
「ですがブー子が悲惨な目に遭い、亡くなると、ソメコイに批判的だった人たちのソメコイの評価は、ガラリと大きく変わりました。安易に犯罪に手を染めようとする少女らへの警鐘漫画として、受け入れてもらえたんです」
 私は複雑な気持ちになった。それまでのストーリーを変えたわけじゃない。ただ、人気キャラクターを悲惨な目に遭わせ、殺しただけ。それで有害図書から警鐘漫画として作品の価値が変わるのはどうなのか。狙って描いたわけではないが、自分が小狡い人間に思えてならなかった。
「そう……だったの」
「はい。ブー子をどうして殺したんだという批判もたくさん寄せられましたが、それだけ、ララ先生の漫画は読者の心を揺さぶったんです。自信を持ってください」
 新堂の声は上擦っていた。
「そっか」
「はい」
 新堂はメガネを外し、ハンカチで涙を拭う。
「でも、良かった……本当に。ララ先生が犯人じゃなくて……」
「もうっ……そんなに心配だったら、直接私を問い詰めなさいよっ」
「すみません……ダメな編集で……」
 私はブンブンとかぶりを振った。新堂は編集としては優秀だ。私を問い詰めなかったのも、ソメコイの連載を優先したからだとわかる。
 ハンカチで涙を拭う新堂を見ているうちに、感謝の念が込み上げてきた。
 私をリア先生を殺した犯人だと疑いながら、新堂は私にソメコイを託してくれた。彼女のこれまでの八年間を思うと、また目頭が熱くなった。
 私はなんて能天気で幸せだったんだろう。何も知らずに、ただソメコイを描いていれば良かった。
 この漫画が表に出れば、私の漫画家生命は終わる。殺人はもちろん、浮気だってバッシングの対象だ。だから新堂は、厳重に保管していてくれた。
「……新堂さんは優秀な編集よ。私が漫画を描き続けられているのは、新堂さんのおかげだもの。ありがとう」
「う、疑って……申し訳、ございません……」
「もう、いいって。この漫画、隠していてくれてありがとう」
 でも川島洋子は読んでいた。
 いや……ハッタリかもしれない。あの女は平気で嘘をつく。
「この漫画……馨くんに渡すわ」
「えっ!」
 新堂は両目を見開いた。
「これで一番に疑われるのは私。だったら隠している方が怪しいと思わない? 私は犯人じゃない。これを馨くんに渡すことで、自分の潔白を証明する」
「証明になればいいのですが……」
「馨くんは真犯人を突き止めようとしている。これで私が疑われたとしても、それは通過点になるだけよ」
「結末になるかもしれません。葉山リアを殺したのは、浮気相手だと」
「ごちゃごちゃうるさいわね」 
 言った瞬間、胸に風が通った心地がした。まるでリア先生が私の中をスウっと通り抜けたような。乗り移ったような。
 後押しだと思った。
「とにかく、これは馨くんに渡すから」
 私は勢いよくそう言って、カバンに原稿をしまった。
 足早に部屋を出る。会社を出て、路上でタクシーを拾うなり、あの家を目指した。
 早く馨くんにこれを見せたい。
 流れる窓の景色をぼんやりと眺めながら、私は八年前を思い返した。
 リア先生の死は、私の胸にぽっかりと大きな風穴を空けた。憂鬱で、起き上がることもままならないほど私は弱っていった。
 警察の調べが終わり、あの家の立ち入りが許されると、私はリア先生の気配を求め、あの家を訪ねた。
 やつれた私を見て、健太郎さんは驚き、リア先生のベッドで私を看病してくれた。私は栄養失調と貧血で、危険な状態だった。
「遠慮しなくていいから」という健太郎さんの言葉に甘えて、私は何日もあの家に居座った。リア先生の気配の残るあの家から離れたくなかった。
「お母さん?」
 鈴のような愛らしい声が聞こえたのは、真夜中のことだった。
 声のする方には、リア先生を幼くしたような少年がいた。私は寝る時でも小さな照明をつけている。
「馨くん?」
 私が問うと、彼はこくんと頷いた。
「どうしてお母さんのベッドで寝ているの?」
 私は言葉を失った。8歳の少年は、母親の死を知らないのだろうか。
 いや、葬式に彼の姿はあった。翔平くんは見掛けなかったけれど。
「お母さんのベッドで勝手に寝てごめんね。嫌だよね」
 私は布団をはぎ、ベッドサイドから足を下ろした。
「お母さんのところ、連れてって」
 彼は私の膝頭に手を置いて、言った。子供の手はこんなに柔らかくて小さいのかと、私は衝撃を受けた。
「お母さん、死んだフリしてるんだよね。僕、知ってるよ」
「え…………」
 この子は一体何を言っているんだろう。母親を失うと、あらぬ方向に想像力が働くのだろうか。
「お母さん……僕たちのこと、忘れてっちゃったみたい」
「馨くん、お母さんは……」
「早くお母さんに会いたい。お母さん……パリにいるはずだから」
 私は8歳の少年に恐怖を覚えた。でも同時に、妄想の中にいる彼を羨ましく思った。死んだフリならどんなに良いか。パリに行けば会えるならどんなに良いか。
「お母さんは死んだのっ」
 私は大人気なく、8歳の少年に向かって声を荒げた。健太郎さんの看病のおかげで体力は回復しても、心は弱ったままだった。
「お母さんはもういないのっ! 殺されたのっ! もうっ……会えないのっ!」
 馨くんは柔らかそうな唇をきゅっと引き結んだ。
「でも……学校休んでパリに」
「いい加減にしなさいっ! お母さんは死んだのよっ! 棺桶に入っていたでしょうっ! お花、添えたでしょうっ!」
 馨くんは泣き出した。私は我に返った。ベッドを下りて、薄い体を抱き締めた。ごめんなさいと繰り返しながら、この子は私より悲しいに決まっているのだと、当たり前の事実に気づいた。
 タクシーが住宅地に入る。ポツポツと窓ガラスに雨粒が当たった。傘を持たない歩行者が坂道を駆け上がっていく。ニットのセットアップがよく似合っていた。
 今年もあと三ヶ月か、と私は十月であることを意識した。全然涼しくならないから、まだ夏物のブラウスを着ている。気温に関係なく、私も秋らしい格好をしようか。
 馨くんの漫画は年内に完成するだろうか。何をもって「完成」とするのだろうか。
 この漫画を読んだ瞬間、馨くんは私を犯人と断定するかもしれない。
 それでも、早くこれを彼に見せたい。もしかしたら別のルートで手に入れ、とっくに読んでいるかもしれない。なんでもいい。早く彼に会いたい。謝りたい。
 馨くん、ごめんね。
 馨くんはリア先生の計画を知っていた。「パリに行こうね」と約束を交わしていたのだ。どうして頭ごなしに否定してしまったんだろう。もっと別の言い方があったはずだ。
 彼の柔らかな手の感触を思い出し、涙が溢れて止まらなかった。