目覚めると全身にびっしょりと汗をかいていた。
 またあの夢だ。隣の男が「大丈夫?」と声を掛けてくる。俺は何も言わずに彼の上に覆い被さり、形のいい唇を塞いだ。
 最初から男が好きなわけではなかった。今でもよくわからない。中学までは普通に女の子が好きだったし、付き合ったこともある。
 でもあの日以降、女という生き物が完全にダメになった。視界に入れるのも忌々しい。セックスなんて論外だった。
 でも一人で性欲を解消するのも虚しくなって、軽い気持ちで男を抱いた。これが案外イケた。
「あっ」
 男に目覚めてから、筋肉系からオネエ系までいろんなタイプの男を食い散らかしてきたが、結局こいつが一番良い。……というか、俺みたいな自分勝手な男に付き合ってくれるのは、彼くらいしかいない。
「女みたいな声、出すなっ」
 俺は彼の口を手で塞いだ。低い声で喘ぐならいい。でも女みたいな声はダメだ。
 悪夢を散らすように俺は彼を乱暴に犯した。やめてくれと懇願されても絶対にやめない。彼とは長い付き合いだ。俺の性格をわかっている彼は、俺がそういうモードに入ったと察すると、しなやかな筋肉に覆われた胸を必死に喘がせ、それに耐えてくれる。
 他の男は俺の身勝手な行為に呆れて、暴言を吐いて去っていく。けれど彼は終わるといつも、「またあの夢を見たの?」と息を切らしながら俺の心配をしてくれる。
 この日もそうだった。俺は頷き、「だるい」とだけ返す。
「そりゃあダルいでしょ。何食べたい? なんか買ってくるよ」
 彼は平然と言うが、起き上がると痛みに耐えるような顔をした。
「わざわざ出なくていいって。ウーバー頼む」
「ああ、そう? じゃあ俺フレッシュネスバーガーが良い」
「の何?」
 俺はベッドの下に転がっているスマホを手に取った。充電器を外す。
「アボカドバーガーとレモネード。ポテトはいらない」
 俺はポテトも食べたい。注文を終えると、何気なくSNSを開いた。
「はあっ!?」 
 葉山リアの息子を名乗るアカウントの投稿に、思わず声がひっくり返った。
「どうした?」
 そばに寄って来た彼を、反射的に突き飛ばす。
「いった……」
 その投稿……漫画を一ページ読んだだけで、空っぽの胃の中がぐるぐると暴れ出した。
 俺は部屋を飛び出し、トイレに駆け込んだ。自動で蓋が上がった便器に飛びつき、嘔吐する。恐怖で涙がボロボロと溢れた。
 なんだ、あれは……あれは馨が描いたのか?
 ふざけるなと、恐怖に変わって怒りが込み上げた。
 ふざけるな、ふざけるな、あの事件を掘り起こすなっ……
 背中をさすられながら、俺は胃液を吐き続けた。
 その時インターホンが鳴った。「俺が出るよ」と、彼が足早に玄関へ向かう。
 ウーバーにしては早すぎる。何か……嫌な予感がした。
「いいっ、出るなっ!」
 俺は怒鳴って、部屋に戻った。壁付けされた玄関モニターに映っていたのは、スーツを着た女だった。
 ガッと胸を鷲掴みされたような心地がした。指先がカタカタと震え出す。
「お前は寝室に引っ込んでろっ! 絶対に出てくるなっ!」
 廊下に立ち尽くす彼を押し退け、俺は玄関へ向かった。本当は会いたくない。葉山リアの関係者とは、誰とも会いたくない。でもSNSに投稿されたあの漫画について知りたい。
 ガチャリと扉を開けると、女は俺を見て黒縁メガネの奥の目を見開いた。
 それもすぐさま作り笑顔に変わる。「久しぶりね」と赤い唇を動かした。
「私のこと、覚えて」
「新堂…………忘れるもんか」
「わあ、嬉しい。覚えていてくれたのね」
 この女を家に上げたくない。けれど外廊下を住人が歩いていた。
「あの漫画の件で来たんだろ……入れよ」
 さっさと廊下に引き返すと、新堂は「お邪魔します」と言って、慌てて中へ入った。
「単刀直入に聞くけど、あの漫画は翔平くんが描いたの?」
 リビングに入るなり、新堂は言った。
 俺は思わず足を止め、振り返った。
「俺が描いたと思ってるのか?」
「……違うの?」
 ああ、この女は何も知らないのかと、苛立ちを伴った落胆が込み上げる。
「帰れ」
「え?」
「出てけって言ってんだよっ! 何も知らないくせにのこのこ来やがってっ! ババアが何期待してんだっ! 帰れよっ! 早くっ!」
 壁に掛けられた鏡を外し、新堂に向かって投げつけた。新堂は「きゃっ」と短く悲鳴を上げて、後退る。ガシャンと盛大に鏡が割れ、破片が床に散った。
 鋭利なそれが、母を殺めたナイフと重なった。
「ひっ」
 俺は何歩も後退った。ソファの背にぶつかり、膝がかくりと折れて床に腰をつく。
「翔平くんっ……大丈夫っ?」
「来んなっ!」
 側にあったゴミ箱を投げつけるが、力が及ばず、新堂には当たらなかった。
「早く出てけっ! そんでもう二度とここに来るなっ!」
 悲鳴のように叫ぶ。
「翔平くん……」
「うるさいうるさいっ! お前の顔なんか見たくないっ!」
 新堂は戸惑いながら出て行った。
「翔平さん……」
 寝室から彼が出てきて、俺の元に駆け寄ってくる。俺は安心したくて彼の体に抱きついた。すうっと息を吸い込み、匂いを嗅ぐ。
「汗臭いだろ」
 いい。男の汗の匂いは不快じゃない。
「さっきのババア……香水つけてた。八年前と同じ匂い……ブルガリのアメジスト。くっせえ……」
 彼はクスッと笑った。
「俺の肩に顔埋めながら言うなって。俺が臭いみたいじゃん」
「お前はいい匂い」
 チロっと鎖骨を舐めると、彼の体がびくりと震えた。
「なんでブルガリのアメジストか……教えてやろうか」
 鎖骨に噛み付くと、彼は「うっ」とうめいた。それでも「なん、で」と律儀に返事をしてくれる。
「父さんからのプレゼントなんだよ」
「えっ……ひっ」
 皮膚が破け、血が出た。それをちょっと吸ってから、俺は言った。
「父さんはしょっちゅうそういう気を持たせるようなことをしてたんだよ。アロマオイルを調合してみたから、手をマッサージしてあげる、とかね。キモいだろ。でも顔がいいから許されてたし、むしろ好意を持たれてた。あの家に出入りしていた女は、みんな父さんに惚れてたと思う」
「いっ……痛いっ……」
 首筋に噛みつく。歯が食い込んで、また出血した。腰を引こうとした彼を強く抱きしめる。
「逃げんなよ。自傷するくらいなら俺を傷つけろって言ったのはお前だろ」
 過去の彼の言葉を盾に、俺は今日もこれからも暴力を正当化する。
 彼は俺が唯一、優位になれる相手。そういう相手がいることに安心する。生きていても良いんだって思える。
 もう22歳だろ。何やってんだよ、しっかりしろよ、と気まぐれに自分にツッコミを入れてみるが、金に困ることはないし、自分にはこの男がいる。
「俺のこと好き……?」
 甘ったれた声で問うと、彼はクスッと笑った。
「好きじゃなきゃこんなことさせないよ」
 だよなと俺はまた安心して、彼の皮膚に噛み付いた。