家の中は暗かった。直前にブレーカーを落としたからだ。
 グッと、ナイフの先端が厚手のセーターに埋め込まれていく。皮膚と内臓を貫く感触が両手に伝わる。確実に胎児の息の根を止めるため、勢いよくナイフを引き抜き、もうひと突き。直前に穿った穴からピシャッと噴き出した血が顔に掛かった。
 全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出した。ナイフを引き抜く。全速力で走った後のように息切れした。
 前のめりに女が倒れるのと同時、インターホンが鳴った。驚いてナイフが手から抜け落ちる。
 ピンポーン、ピンポーン。
 すぐにここを立ち去るつもりでいたのに、想定外の展開に戸惑う。まさか、母さんが帰ってきたのだろうか。取材で東京を離れたはずだ。
 ピンンポーン、ピンポーン。
 しつこい……母さんだろうか。返り血を浴びている。出るわけにはいかない。
「う……しん……どう、さん?」
 足元で聞こえた声に、心臓をガッと鷲掴みされたような心地がした。愕然とする。後退ると、足がもつれて腰をついた。
「母さんっ!?」
「しょう……へい……な、……で」
 それはこっちのセリフだ。どうして母さんがここに。「明日私はいないから、勝手に入って原稿を持っていって良いから」と昨日新堂と電話していたのに。ここにいるのは新堂のはずで、どぎつい香水の匂いがするのに。あ、あ、と声にならない声が震える唇から洩れた。
 プルルン、と電子音が鳴った。プルルン、プルルン……
 ポケットに手を入れ、スマホを取り出す。通話に出るためではなく、救急車を呼ぶために。でもそこに表示された「サダコ」の文字に、つい出てしまった。
『翔平くん? 今ね、あなたの家の前にいるの』
「え……ほ、ほんとっ?」
 声が、場違いに弾んだ。
『やっぱり、こんな高価なバッグ、もらえない。返そうと思ったんだけど……今誰もいないみたいだから、玄関の前に置いておくね。勝手なことしてごめんね』
 サダコが帰ってしまう。嫌だ。会いたい。何度連絡してもサダコは出てくれなかった。今帰られてしまったら、もう二度と会えないような気がした。そんなのは嫌だ。辺りに充満する血の臭いが、焦りによって薄らいでいく。
「待って……今、行くから」
 懸命に立ち上がり、ふらつきながら玄関へと向かう。見慣れた景色がぐわんぐわんと揺れ、体全体が風邪を引いたように熱っぽい。
『すぐ帰って来れるなら、大丈夫だね。置いておくね』
「違う、俺っ……家に……」
 やっとの思いで玄関扉に手を掛けた時、ガチャン、とリビングから大きな音がした。
『何か音がしたけど……誰かいるのかな』
 扉を開けるが、彼女の姿はなかった。
『ひっ』
 サダコの声が、スマホと、外から聞こえた。ふいっと庭に視線を移すと、リビングの窓から中へと入っていく人影が見えた。
『だ、大丈夫ですかっ!』
 通話が切れた。
 引き返して中から行くか、玄関を出てサダコの道筋を追うか。どちらを取っても大差ないのに、その判断に恐ろしく時間が掛かった。頭の中はとっくに冷静さを欠いていて、咄嗟の選択ができなかった。ふいに膝が崩れ、玄関にへたり込んだ。立ち上がろうにも力が入らない。サダコに会いたいのに、震えが止まらなかった。サダコ、サダコ。母を刺したという現実から逃れるように、カラカラに渇いた口の中で何度も好きな人の名前を呼んだ。
「翔平さんっ」
 揺さぶられ、ハッと目が覚めた。ああ夢かと、うんざりしながら体を起こす。
 閉ざされたカーテンの隙間から強い光が差し込んでいる。側には彰がいた。
「……久しぶりじゃん」
「そうだね」
 彰は気まずそうに笑った。彼が最後にここに来たのは、サダコから電話が会った日だ。「可哀想な翔平さん」「お腹の子供を殺したかったんだよね」あんなことを言われたら、こちらから呼び出すこともできなかった。
「もう来ないかと思ったわ」
「来たらダメだった?」
「そんなこと言ってないだろ」
 トイレ、と言ってベッドを下りた。彰が来なかった間の三週間で、家の中はすっかり汚部屋と化していたが、自分が寝ている間に片付けたのか、綺麗になっていた。
 トイレを済ませ、シャワーを浴びた。部屋に戻ると、彰はキッチンにいた。
「なに作ってんの?」
「サンドイッチ」
「ふうん」
「……この前、変なこと言ってごめんね」
 手を動かしならがら、彰は言った。察しの良い彼のことだ。もう全て気付いている。その上でここに来てくれたことに、胸の奥が熱くなった。
「別に……本当のことだから」
 全部打ち明けたら、もうあの悪夢を見ずに済むかもしれない。覚悟を決めて、口を開いた。
「俺はあの日、新堂と母さんを間違えて……」
「何言ってるの」
 俺の言葉を遮って、彼はふわりと笑って言った。皿に盛り付けたサンドイッチを手に、近づいてくる。ベッドの前のローテーブルにそれを置いた。
「俺は勘違いしていたんだ。翔平さんは何もしてない。ごめんね。あんなこと言われて、戸惑ったよな」
 何か、奇妙な空気が流れているような気がした。
「翔平さんは悪くないんだよ」
 彰は苦しげに眉根を寄せた。
「いや……俺が殺したんだ」
「違う」
 全部吐き出して、スッキリしたいのに、どうして否定するんだろう。
「翔平さん……ニュース見てないんだな。SNSも……」
「な、なんだよ……」
 彼は俺の隣に座ると、そっと俺の手に手を重ねた。
「犯人が逮捕されたんだよ」
「っ……」
 落ち着け、というように、彼の手に力がこもる。
「窃盗だった。翔平さんのお母さんと鉢合わせして、殺したんだって」
「ありえない」
「でも、犯人は逮捕された」
「サダコ……」
「違う。男と二人で、金目的であの家に入った不良だよ。サダコはそんなことしないだろ?」
「しない……サダコは、俺を庇って出頭したんだ」
 俺の視点の漫画を読んで、電話をくれた。ありがとうと感謝された。もう充分だと言っていた。充分って何が……答える前に通話は切れた。
「お、俺っ……警察行ってくる……」
「翔平さんは何もしていないんだから、行かなくていい」
「俺が殺したんだよっ! 腹を刺した感触も残ってる!」
「でも犯人が逮捕された」
「だからそれはサダコでっ」
 ふいにスマホ画面を見せられた。目鼻立ちのハッキリとした美しい女が映っている。
「……なんだよ」
「逮捕された女だよ」
「っ……」
 息が止まった。
「この女が、サダコに見える?」
 見えない。急激に目の奥が熱くなり、涙が溢れた。
「見えないだろ。だから、逮捕されたのはサダコじゃない。この女が、翔平さんのお母さんを殺したんだよ」
 画面に映る女に、サダコの面影はない。整形だとしたら、どれほどの額と回数を重ねたんだろう。この顔に辿り着くまでの彼女の苦悩を思うだけでたまらなかった。
「お、お前は……サダコに、会ったんだろ?」
「うん。サダコはこんな顔じゃなかった」
 彰の目は充血していた。
「嘘だ」
「……嘘じゃない」
「この女が、サダコなんだろ? お前はこの女に会ったんだろ?」
「違う……俺が会った女は……ブスだったよ」
 じっと顔を見つめる。彼は瞳を彷徨わせ、「ブス」と言った罪悪感に耐えかねたように俯いた。
「警察行ってくる」
 立ち上がると、「ダメだっ」とすかさず腕を掴まれた。
「翔平さんが名乗り出たら、サダコはきっと傷つくよ。翔平さんのためにと思って、サダコは望んで出頭したんだ。彼女の気持ちを考えてやってよ」
 なんだそれ。カチンときた。腕を振り払おうとするが、強く掴まれて解けない。
「離せよっ……気持ちも何も、母さんを殺したのは俺で、サダコは巻き込まれた被害者なんだよっ! 何もしてないサダコが逮捕されるなんてっ、間違ってるんだよっ!」
「死体には四箇所、二種類の傷跡があったんだって……翔平さん……四回も刺した?」
「っ……」
「前から、お腹を二回刺しただけなんじゃないの?」
 俺が答えなくても、彰は静かに続けた。
「サダコは、前のめりに倒れている葉山リアを見つけて、トドメを刺した」
「……違う。サダコは、母さんを助けようとしてた。大丈夫ですかって……俺は、サダコの声を聞いてる」
「じゃあ、サダコはその場にいたってことだよね」
「い、いたって良いだろっ! 俺が余計なプレゼントをしたからっ、返しに来たんだよっ!」
 彰は哀れむように俺を見た。
「母さんを殺したのは……俺だっ!」
 正面から二回も刺した。サダコが現場に駆けつけた時には、母さんは瀕死か、すでに死んでいたはずだ。
 ならどうして……理由は一つしかない。
「サダコはっ……俺のためにっ……俺一人に罪を背負わせないために、母さんを刺したんだっ……」
「なら、サダコのナイフが致命傷になって、翔平さんのお母さんは亡くなったんだよ」
「違うっ! それはお前の願望だろっ!」
「そうだよ」
 彰は目つきを鋭くした。グッと腕を引かれ、ベッドに倒れ込む。彰は俺の上にまたがった。
「翔平さんは確かに刺したかもしれないけど、命を奪ったのはサダコだ。サダコが刺さなきゃ、翔平さんのお母さんは生きていた」
「違うっ……違うっ……」
 ブンブンと首を振った。彰が俺の両手を掴んで、グッと迫ってくる。
「確かに馨の願望は違う。馨はね、逮捕された女の供述を真実にしたいんだよ。悪い男と共謀して、金目的で侵入して、家主に見つかったから殺してしまったっていう……どこにでも転がっていそうなシンプルな事件にね」
「でも……真実は違う……」
「真実を、翔平さんは警察に話せるの?」
 彰は冷ややかに言った。いつもは俺が主導権を握っているのに、今は逆だった。引きこもりと健全な高校生の上下関係など、彼の気持ち次第でどうにでもなるのだと思い知る。
「新堂の子供に会ってきた」
 ゾワっと総毛立った。
「髪質とか、目元とか、翔平さんにそっくりだった。DNA鑑定なんかしなくても、翔平さんの子供だってすぐにわかった」
 俺の反応に、彰は痛ましげに眉根を寄せた。
「警察はそこまで追及するよ。嫌なら、お母さんが憎かったって答えなきゃならない。それ以外を語ったら、芋づる式に全部明らかになる。観客を喜ばせることになるよ。ネットじゃ、事件の真相に落胆する声の方が大きいからね。解決して良かった、なんて意見は少ない。みんな、刺激的な真相を期待していたんだよ。金目的の窃盗犯の犯行なんて、求めてなかったんだよ」
「……み、見せ物じゃねえんだよ」
「でもみんなが楽しんでいた。誰が犯人かを推理して、刺激的な真実が明らかになることを期待した」
 ふざけるなと、怒りが込み上げた。
「俺は、これ以上観客を楽しませたくない。あの事件を手軽な暇つぶしにされたくない。翔平さんが真実を語ったら……まとめサイトにも、ユーチューバーにも取り上げられるよ。俺はそれが嫌だ。……そんなことさせない」
 握られた腕が、痛いくらい締め付けられた。思わず顔が歪む。
「い……っ」
「逮捕された女は、ネットでもサダコだってバレてない。でも翔平さんが警察に出頭したらバレるだろうね。翔平さんが殺したって主張したら、サダコは自分がトドメを刺したって、主張を変えるはずだから」
 彰は淡々と俺を追い詰めてく。
「せっかく顔を変えて新しい人生を歩んでいたのに、『あいつ整形だったんだ』って思われるんだよ。人によっては、殺人よりも後ろめたいことかもしれない」
「……そんなこと」
「ないって言い切るの? じゃあ翔平さんは、おばさんとヤッてるとこ、全世界に配信されてもいいの?」
 ゴクリと喉が震えた。あるのか? と問うのが怖い。彰は見透かしたように「それも知らないんだ」と言った。
「撮られてたんだよ。それを投稿されたくなきゃ、娘を返せって脅されて、俺は復讐を断念してここへ来た。本当は何週間もあの娘を連れ回したかったのに。……大丈夫だよ。約束を破ったら、今度こそ俺はあの娘に危害を加える。翔平さんと同じ、十四歳に成長するのを待ってもいい。孕ませてやる」
 言っている意味が、半分も理解できなかった。唯一の味方で、人畜無害だと思っていた男が、まるで知らない人に見えた。
「でも、翔平さんが、動画が拡散されても良いっていうんなら、俺は、やるよ」
 そんなの、嫌に決まってる。
「ふざけんな……」
「ダメ?」
 彰は甘えるように耳元で囁いた。
「ダメに決まってんだろっ……あんなっ……」
 考えただけで吐き気がした。うっ、と体が跳ね、彰が密着を解く。
「きっとサダコも一緒だよ。整形なんて知られたくないはずだ。……確かに、何年も服役することになると思う。でも、サダコだってバレなければ、彼女は生まれ持っての美人として、その後の人生を歩むことができる」
 心が揺らいだ。瞳が彷徨う。殺人犯として何年も服役するのと、罪が軽くなっても、過去の呪縛に囚われながら生きる……彼女を苦しめるのは、後者かもしれない。俺が余計なことをしたら、彼女の整形がバレる。原型がなくなるほどの改造が無駄になる。
「サダコは翔平さんに、あの事件の犯人は面識のない人間だって思って欲しいんじゃないかな。だから、電話だけで終わらせたんじゃないかな」
 ぽたと、頬に彰の涙が落ちた。
「サダコの嘘に、翔平さんは付き合った方がいいんじゃないかな」
 ああした方がいい、こうした方がいい、と彼が俺に言ったことは今まで一度もなかった。
「そう……かな」 
 頼りない声が出た。彰は一瞬顔をくしゃりと歪ませると、いつものように、優しげな笑みを浮かべた。
「サダコのことが好きなら、そうした方がいいと思う」
 そうなんだろうか。俺のことが好きなはずなのに、「付き合いたい」とも、「出かけよう」とも言わなかった男の意見だと思うと、従った方がいいような気がしてしまう。でも「わかった」と答えたら、今でもサダコが好きということになる。彼はそれでも良いんだろうか。彼の真意を探ろうと、涙ぐんだ瞳をじっと見つめる。ぽたぽたと頬に涙が落ちてくる。
「やっと……俺のこと見てくれたね」
 彼はそう言って笑った。全然嬉しそうじゃない、寂しげな表情に、俺はもしかしたら、ずっと彼を傷つけていたのかもしれないと、思った。