「愛ちゃんっ!」
家中を探し回っても、娘の姿はなかった。悪魔に連れ去られたのだ。
「いやあっ」
愛ちゃん、愛ちゃん、とわめきながら私はスマホを操作する。
『もしもし』
「あ、か、金森っ、さん? あ、彰くんっ……そっち行ってない?」
『来てない……けど。新堂さん、本当に大丈夫? やっぱり警察呼んだ方が良いんじゃない?』
ああ、うざったい。あんたは質問にだけ答えていればいいの。物語を作る才能のないあんたは、異世界恋愛のコミカライズをだんまって描いていればよかったの。
「警察はダメっ! あんなのどうせ役に立ちやしないんだからっ!」
警察に何ができるっていうの? 高卒でもなれる仕事じゃない。青い制服を着ているだけの凡人に、悪魔を見つけ出せるはずがないじゃない。
『でも……』
「馨くんはいるわよねっ? 馨くんに変わって!」
はあ、とため息の後、移動している気配を感じた。『馨くーん』と緊張感のない声にますます怒りが込み上げる。
『出てこないけど』
「あんたっ……もっとちゃんと呼びなさいっ! ドアを叩くとかっ! こっちは緊急事態なのよっ!」
『だったら警察呼べば良いじゃん。もう知らない』
プツッと通話が切れた。
「はっ、はあっ!?」
これだから子供のいない女はダメだ。出産経験のない女は精神年齢が子供で止まっているのだ。
どうする? 誰を頼ればいい? 佐々木舞子も出産経験がない。私の気持ち、この焦燥感をわかってくれるのは……
「川島……?」
馬鹿な。私はすぐさまあの醜い女を候補から抹消した。
一旦スマホを耳から下ろす。黒い画面に川島洋子が映り込んでギョッとした。
「ヒイッ!」
振り返る。誰も……いない。ただの思い込みだ。残像が頭から消えないのだ。
あの顔……川島は私に恨みでもあるのだろうか。心の中で散々こき下ろしても、直接あの女を侮辱したり、罵倒した覚えはない。私が恨まれる理由はないはずだ。
……私のしたことを知っている?
そんなわけない、と咄嗟に否定する……するが、不安になってきた。
SNSを開く。『葉山リアの息子』を名乗るアカウントのページに飛んだ。投稿された漫画……三話目の、川島洋子視点を読み返す。
「あ………………」
すぐに、その理由はわかった。どうして今まで気づかなかったんだろうと不思議に思うほど、川島の嘘は露骨だった。
『誹謗中傷は続いていた。どうしても犯人を突き止めたかった私は隠しカメラを設置することにした。いけないことだとはわかっていた。でもそれ以上に証拠が欲しかった』
『カメラは夫の寝室に設置した』
血液がスルスルと引いていく。
考えてみれば、人の生活を覗き見することを生き甲斐としていそうなあの女が、人の家に自由に出入りできたのに、たった一つのカメラで止められるはずがない。あの女は、他の部屋にもカメラを仕掛けていたに違いない。動機が「誹謗中傷の犯人を突き止めるため」というのも眉唾だ。本当は、一番に仕掛けたのは翔平の部屋だったんじゃないか。あの陰険な女は、美少年の私生活を隠し撮りして、密かに楽しんでいたんじゃいか……
だとしたら、私のしたことなんてバレバレだ。でも川島は、自分の隠し撮りも咎められると思って黙っていた。もしかするとこの漫画は、私に対してのメッセージだったのかもしれない。『あんたのしたことを私は知っている』という。
「あ……ああ……」
私がどんなふうに葉山翔平の精子を手に入れたのか、川島は見ていたのだ。
はたとひらめき、視界がわずかに明るくなった。
それを利用できないだろうか。動画の存在を匂わせ、娘を返して貰うのだ。悪魔と取引するにはそれしかない。
『葉山リアの息子』のアカウントを見ると、新たな漫画が投稿されていた。
「っ……」
思わずキッチンを振り返った。体が勝手に動いて、そこへ向かう。しゃがみ、シンク下の戸を開けた。シンクの裏側、貼り付けてあった茶封筒がなくなっている……
彰の本当の目的はこっちかと、体がブルブルと震え出した。無意識に親指の爪を噛む。
ここにあったのは葉山リアの漫画の原本だ。
SNSには、そっくりそのまま投稿されていた。
『夫の浮気に気付いたのは、ソメコイのアニメ化が発表された、十月半ばのことだった。まるで鈍感な私に気付かせようとするかのように、それはあった』
『私は血眼で家中を探し回った。ベッドの下には女物の下着が落ちていた。女物の下着からは、編集Dが付けている香水の匂いがした。編集Dとは長い付き合いだ。ある時から彼女はやけに私の格好を真似するようになった。もしかして……と最悪な想像が過ぎった』
『それからも浮気の証拠は家のあちこちから発見された。……私に見つけられるのを待ち望んでいるようなそれらに、私は胸を掻きむしりたくなるほどの怒りを覚えた』
『私は編集Dを問い詰めることにした』
編集D『申し訳ございませんっ! どうかっ、会社にだけは言わないでくださいっ!』
葉山リア『あんたには仕事しかないものね。恋愛なんてしてこなかったんでしょう。それで健太郎に優しくされて、勘違いしたわけだ』
編集D『でも、健太郎さんは私の相手をしてくれました』
『私は驚いた。恋愛経験を積まないで歳だけ食うと、人はこうも自分に都合の良い解釈をしてしまうのか』
葉山リア『馬鹿じゃないの? 見るからに処女の冴えないオバサンに同情しただけよ。あんたに女としての魅力はないんだから』
漫画には浮気の指摘だけでなく、私には女としての魅力がないという侮辱も描かれていた。むしろそれがメインだった。あんたみたいなおばさんが、地味な女が、人の旦那に手を出すんじゃないわよ。勘違いするんじゃないわよ。
葉山リアは漫画を私に突きつけることで、遠回しに私にメッセージを送ったのだ。「なんでもお見通しよ」「冴えない女は身を引きなさい」と。
旦那に浮気されて悔しいのは分かる。週刊連載でストレスが溜まっているのもわかる。
でも、何もしていないのに、なんでこんなことを言われなくちゃいけないの?
私はもらった香水を付けていただけ。人の旦那でも、初めての異性からのプレゼントだ。嬉しかった。ときめいた。オシャレしたって良いじゃない。「雰囲気変わったね」を期待して、イメチェンしたって良いじゃない。別にその先を期待さえしなければ、人の旦那を好きになったって良いじゃない。
馬鹿はそっちじゃない。勝手に私を浮気相手と勘違いして、こんな陰湿な漫画で私を攻撃して……
葉山リアの漫画は、私の心にグサっと大きな穴を穿った。忙しく働いても、気分転換に出掛けても、心の穴が埋まることはなかった。
このままでは、自分がダメになると思った。
穴を埋めるものが欲しかった。愛情を注いでも、誰にも文句を言われないものが欲しかった。
だから力尽くで手に入れた。たんと愛情を注いだ。
取り返さなければ。
私は『葉山リアの息子』にメッセージを送った。
家中を探し回っても、娘の姿はなかった。悪魔に連れ去られたのだ。
「いやあっ」
愛ちゃん、愛ちゃん、とわめきながら私はスマホを操作する。
『もしもし』
「あ、か、金森っ、さん? あ、彰くんっ……そっち行ってない?」
『来てない……けど。新堂さん、本当に大丈夫? やっぱり警察呼んだ方が良いんじゃない?』
ああ、うざったい。あんたは質問にだけ答えていればいいの。物語を作る才能のないあんたは、異世界恋愛のコミカライズをだんまって描いていればよかったの。
「警察はダメっ! あんなのどうせ役に立ちやしないんだからっ!」
警察に何ができるっていうの? 高卒でもなれる仕事じゃない。青い制服を着ているだけの凡人に、悪魔を見つけ出せるはずがないじゃない。
『でも……』
「馨くんはいるわよねっ? 馨くんに変わって!」
はあ、とため息の後、移動している気配を感じた。『馨くーん』と緊張感のない声にますます怒りが込み上げる。
『出てこないけど』
「あんたっ……もっとちゃんと呼びなさいっ! ドアを叩くとかっ! こっちは緊急事態なのよっ!」
『だったら警察呼べば良いじゃん。もう知らない』
プツッと通話が切れた。
「はっ、はあっ!?」
これだから子供のいない女はダメだ。出産経験のない女は精神年齢が子供で止まっているのだ。
どうする? 誰を頼ればいい? 佐々木舞子も出産経験がない。私の気持ち、この焦燥感をわかってくれるのは……
「川島……?」
馬鹿な。私はすぐさまあの醜い女を候補から抹消した。
一旦スマホを耳から下ろす。黒い画面に川島洋子が映り込んでギョッとした。
「ヒイッ!」
振り返る。誰も……いない。ただの思い込みだ。残像が頭から消えないのだ。
あの顔……川島は私に恨みでもあるのだろうか。心の中で散々こき下ろしても、直接あの女を侮辱したり、罵倒した覚えはない。私が恨まれる理由はないはずだ。
……私のしたことを知っている?
そんなわけない、と咄嗟に否定する……するが、不安になってきた。
SNSを開く。『葉山リアの息子』を名乗るアカウントのページに飛んだ。投稿された漫画……三話目の、川島洋子視点を読み返す。
「あ………………」
すぐに、その理由はわかった。どうして今まで気づかなかったんだろうと不思議に思うほど、川島の嘘は露骨だった。
『誹謗中傷は続いていた。どうしても犯人を突き止めたかった私は隠しカメラを設置することにした。いけないことだとはわかっていた。でもそれ以上に証拠が欲しかった』
『カメラは夫の寝室に設置した』
血液がスルスルと引いていく。
考えてみれば、人の生活を覗き見することを生き甲斐としていそうなあの女が、人の家に自由に出入りできたのに、たった一つのカメラで止められるはずがない。あの女は、他の部屋にもカメラを仕掛けていたに違いない。動機が「誹謗中傷の犯人を突き止めるため」というのも眉唾だ。本当は、一番に仕掛けたのは翔平の部屋だったんじゃないか。あの陰険な女は、美少年の私生活を隠し撮りして、密かに楽しんでいたんじゃいか……
だとしたら、私のしたことなんてバレバレだ。でも川島は、自分の隠し撮りも咎められると思って黙っていた。もしかするとこの漫画は、私に対してのメッセージだったのかもしれない。『あんたのしたことを私は知っている』という。
「あ……ああ……」
私がどんなふうに葉山翔平の精子を手に入れたのか、川島は見ていたのだ。
はたとひらめき、視界がわずかに明るくなった。
それを利用できないだろうか。動画の存在を匂わせ、娘を返して貰うのだ。悪魔と取引するにはそれしかない。
『葉山リアの息子』のアカウントを見ると、新たな漫画が投稿されていた。
「っ……」
思わずキッチンを振り返った。体が勝手に動いて、そこへ向かう。しゃがみ、シンク下の戸を開けた。シンクの裏側、貼り付けてあった茶封筒がなくなっている……
彰の本当の目的はこっちかと、体がブルブルと震え出した。無意識に親指の爪を噛む。
ここにあったのは葉山リアの漫画の原本だ。
SNSには、そっくりそのまま投稿されていた。
『夫の浮気に気付いたのは、ソメコイのアニメ化が発表された、十月半ばのことだった。まるで鈍感な私に気付かせようとするかのように、それはあった』
『私は血眼で家中を探し回った。ベッドの下には女物の下着が落ちていた。女物の下着からは、編集Dが付けている香水の匂いがした。編集Dとは長い付き合いだ。ある時から彼女はやけに私の格好を真似するようになった。もしかして……と最悪な想像が過ぎった』
『それからも浮気の証拠は家のあちこちから発見された。……私に見つけられるのを待ち望んでいるようなそれらに、私は胸を掻きむしりたくなるほどの怒りを覚えた』
『私は編集Dを問い詰めることにした』
編集D『申し訳ございませんっ! どうかっ、会社にだけは言わないでくださいっ!』
葉山リア『あんたには仕事しかないものね。恋愛なんてしてこなかったんでしょう。それで健太郎に優しくされて、勘違いしたわけだ』
編集D『でも、健太郎さんは私の相手をしてくれました』
『私は驚いた。恋愛経験を積まないで歳だけ食うと、人はこうも自分に都合の良い解釈をしてしまうのか』
葉山リア『馬鹿じゃないの? 見るからに処女の冴えないオバサンに同情しただけよ。あんたに女としての魅力はないんだから』
漫画には浮気の指摘だけでなく、私には女としての魅力がないという侮辱も描かれていた。むしろそれがメインだった。あんたみたいなおばさんが、地味な女が、人の旦那に手を出すんじゃないわよ。勘違いするんじゃないわよ。
葉山リアは漫画を私に突きつけることで、遠回しに私にメッセージを送ったのだ。「なんでもお見通しよ」「冴えない女は身を引きなさい」と。
旦那に浮気されて悔しいのは分かる。週刊連載でストレスが溜まっているのもわかる。
でも、何もしていないのに、なんでこんなことを言われなくちゃいけないの?
私はもらった香水を付けていただけ。人の旦那でも、初めての異性からのプレゼントだ。嬉しかった。ときめいた。オシャレしたって良いじゃない。「雰囲気変わったね」を期待して、イメチェンしたって良いじゃない。別にその先を期待さえしなければ、人の旦那を好きになったって良いじゃない。
馬鹿はそっちじゃない。勝手に私を浮気相手と勘違いして、こんな陰湿な漫画で私を攻撃して……
葉山リアの漫画は、私の心にグサっと大きな穴を穿った。忙しく働いても、気分転換に出掛けても、心の穴が埋まることはなかった。
このままでは、自分がダメになると思った。
穴を埋めるものが欲しかった。愛情を注いでも、誰にも文句を言われないものが欲しかった。
だから力尽くで手に入れた。たんと愛情を注いだ。
取り返さなければ。
私は『葉山リアの息子』にメッセージを送った。