「パパ、帰っちゃやだよーッ!」
 用が済み、帰ろうとすると、新堂の娘が足に絡みついてきた。
「ごめんね。俺はパパじゃないんだよ」
 しゃがみ、彼女の頭を撫でると翔平さんと同じ手触りがした。
「パパじゃないの?」
「うん。さっきは嘘ついた」
 ブルっとポケットの中のスマホが震えた。馨からだ。立ち上がり、ドアに手を掛けながら通話に出る。
「馨、目当てのものは手に入れたぞ」
『そう……よかった』
「今からそっちに行く」
『伊藤さんが逮捕された』
「えっ」
 ドアに掛けた手が跳ねた。
『悪い男と共謀してやったって、供述してる……金品目的で侵入してっ、母さんと鉢合わせたからっ……それで、殺したって……』
 馨は喘ぐように言った。
 俺は意味もなく新堂の娘を見下ろした。新堂の娘は小首を傾げる。
『彰……あの人は、伊藤彩は……サダコなんだよ』
「うん……」
『そう……知ってたんだ……じゃあ……わかるよね……わかる、よねっ』
「わかるよ」
 俺も戸惑っていたが、馨がひどく動揺しているから、冷静に答えることができた。
「ああ、サダコは犯人を庇った……っ」
 靴を脱ぎ捨て、足早にリビングへと向かう。娘と二人暮らしの新堂の部屋は、狭いが綺麗に整えられていて、壁に掛けられたアートボードやファブリックは子供向けで愛らしい。
 ダイニングテーブルに置かれたリモコンを手に取り、テレビをつけた。放送局を変えていく。葉山邸が映った。
『八年前、閑静なこの住宅街で……』
 女のリポーターが歩きながら言う。右上には『漫画家殺害容疑で25歳の現役警察官を逮捕』『Live』と表示されている。
 次に伊藤の顔写真が映った。シュッとした美人だ。
『彰……お前ならわかってくれるよね……いいよね。僕はいい……この結末がいい』
 翔平さんの口から聞かなくても、馨は薄々気づいていたのかもしれない。でも過去を掘り起こしたのは、翔平さんを追い詰めるためじゃない。
 馨は、翔平さんが安心して外に出られるように、誰か別の犯人を仕立て上げたかったんじゃないか。……誰でも良かったんじゃないか。
『彰……ダメなんて言わないでね。……余計なこと、しないでね。僕はこのままあの人にっ……罪を、被ってもらう……』
 まったく、この兄弟は。
 呆れて笑えた。
「ああ、わかってる。余計なことなんてしない。するわけないだろ」
 そんなに俺って信用ないか? という質問は飲み込んだ。馨を困らせたくない。
『ありがとう。いろいろごめん』
「謝るな。友達だろうが。……それより、そっち大丈夫か? 報道陣が詰め掛けてるみたいだけど」
『インターホンは壊れてるから。中にいれば大丈夫。でも、彰がこっちに来るのは大変かもしれない。兄さんの様子も気になるから、今日は兄さんのマンションに行ってくれる?』
「……わかった」
 翔平さんはこのニュースをどう見ているだろう。気になるが、怖い。
 翔平さんはサダコの本名も、新しい顔も知らない。
 でも三週間前、サダコと電話越しに話しているのだ。いくらなんでも勘付く。
「葉山リアの原稿はどうする? 早く読みたいだろ?」
『僕のアカウントに入って、彰が投稿して』
「……確認しなくていいのか?」
『母さんが死ぬ前に描いたものに、事件の真相が描かれているとは思えないから』
 その通りだ。自分の息子に殺されるなんて誰も予想できない。でも葉山リアの、新堂に手を加えられる前の漫画には、ちゃんと悪人が描かれている。
「わかった。今夜中に投稿する」
 通話を終え、テレビを消そうとした時だった。
 画面に映る葉山邸の玄関が開いた。報道陣がワッと動く。
 現れたのは新堂だった。『退いてください』『もう、邪魔っ』と文句を言いながらカメラに迫ってくる。
『退いてっ! 急いでるのっ!』
『ここに出入りしているということは、アシスタントの方ですかっ!? 今のお気持ちはっ!』
 リポーターがマイクを突き出す。
『ああもうっ、うるさいわねっ! 退いてっ! 私は急いでるのよっ!』
『ひとことだけでもお願いしますっ! 八年越しに犯人が逮捕されましたっ! 犯人に対して、何か言いたいことはありますかっ!』
『やったことは許せないけど、自首したことは褒めてあげる』
 カッと頭に血が昇った。はらわたが煮え繰り返るとはこのことだ。
 伊藤彩の供述を聞いて、真実が語られることはないと高を括っているのだ。
 ……伊藤が語るはずがない。伊藤が疑っていたのは川島洋子で、川島洋子は白だった。
 今朝、葉山邸に郵便が届いた。差出人は伊藤で、中身は親子鑑定の結果だった。
 これで川島洋子を責めることができる。俺は川島洋子の目の前でそれを開いた。結果は0パーセント。カリンの父親は翔平さんではなかった。
『あんた……それ……』
 狼狽える俺の手から、川島洋子は鑑定結果を引き抜いた。
 自分の娘と22歳の男を勝手に親子鑑定されたのだ。普通なら激しく動揺する。「これは何?」と問い詰める。なのに川島は一瞬目を見開いただけで、すぐに納得したように頷いた。
 川島の受け入れの速さは、心当たりがあるからとしか思えなかった。
『惜しいわね』
 川島は鑑定結果を俺にひょいと返すと、言った。
『考え方は合ってる。でも調べる相手が違う』
『相手が……違う?』
 川島に間違いを指摘されなければ、伊藤の推理を全否定して、途方に暮れていたことだろう。
 でも川島に『新堂の子供を調べなさい』と言われ、伊藤の推理は、大枠は合っていたのだとわかった。
 それを伊藤は知らないまま、自首してしまった。
 伊藤は鑑定結果を見て、自分の推理は間違っていたと思い込んだ。伊藤がどのタイミングで自首を決意したのかは分からないが、あの鑑定結果が伊藤の選択肢を減らしたのは間違いない。結果が違えば、供述も違っていたかもしれない。
 なんにせよ川島洋子は白だった。そして伊藤が新堂の罪を知る術はない。
 馨の意向もある。警察に情報提供などもってのほかだ。俺は何も口出しできない。
 それでも……
『もうっ! 邪魔っ! 娘が待ってるのっ! あんたたちにだって家族がいるでしょうっ! 退いてっ!』
 新堂……テレビ画面に映る女がなんの罰も受けないのは我慢ならない。
「あ、ママっ!」
 新堂の娘がテレビ画面を見て声を上げた。俺はテレビの電源を消し、新堂の娘を振り返る。
「今、ママがテレビに映ってたよ! つけて! つけて!」
「そうだね。でもここでテレビを見ているより、ママに会いに行く方がいいと思わない?」
「ママのとこ、連れて行ってくれるの?」
 新堂の娘がふわりと笑う。笑うと余計に翔平さんに似て見えた。
「うん。行こうか」
 サダコは体を張って翔平さんを庇った。俺だって。
 俺だって……罪を犯せば、やろうと思えば、あの女に翔平さんと同じ苦痛を味わせることができるんじゃないか。
 一方的な恋愛感情による、誰のためにもならない行為だとしても、翔平さんのために人生を捨てられる彼女に少しでも近づきたいと思った。