翔平さんの文章を元に描いた漫画は、これまでで一番反響があった。「自分を美化しすぎ」「絶対嘘」なんてコメントも沢山ついたが、ほとんどは「こんなのが読みたかった」「これで連載希望」という好意的なものだった。
 翔平さん原作の漫画は、簡単に言えば少女漫画だった。サダコという顔に自信のない女の子と、美少年とのラブストーリー。
 二人の出会いは最悪だった。美少年Sは、学校の仲間とサダコが勤務するカラオケ店にやってくる。歌唱力を競い合い、負けたSは、罰ゲームとしてサダコに告白してこいと命令される。
 サダコは罰ゲームだと察していたが、「どこが?」と聞いてSを困らせた。
 影から見ていた仲間たちがクスクスと笑う。
サダコ『こういうこと、他の子にはしちゃダメだよ』
 寂しそうなサダコの声に、Sは罪悪感でいっぱいになった。
S『う、嘘じゃない……本当に、いいなって思って……』
 クスクス、クスクス、仲間たちの笑い声に怒りが込み上げる。「ブスが本気にしたらどーすんの」楽しげにそう言ったのは、付き合って一ヶ月の彼女だった。Sは彼女と別れることを決意した。
 Sはカバンを床に置き、中を漁って読みかけの文庫本を取り出した。見開きに連絡先と名前を書いて、サダコに渡す。
S『連絡……待ってるから』
 サダコからの連絡はなかった。そりゃそうだよなと納得する一方で、サダコを傷つけたままだということが引っかかって落ち着かない。
 Sは一人でカラオケ店に行った。
 フロントにサダコはいた。会計を終えた女性グループが店を出る際、サダコを振り返り、「あの店員めっちゃブスじゃない?」「あれ表に出しちゃダメだよね」と囁き合うのが目に入った。
 女性グループの一人がSを見て足を止めた。話しかけようか迷っている気配を感じる。「見てあの子、かっこよくない?」背後から声が聞こえた。
S『なんで、連絡してくれないの?』
 Sはフロントへ行き、切実に言った。サダコはひじきのような目をパチパチする。
S『俺、ずっと待ってたんだよ。どうして連絡くれないの? 俺じゃあ嫌? ガキだから?』
サダコ『……まだ、読み終わってないから』
 首を傾げるSに、サダコは言った。
サダコ『小説、ちょっと読んでみたら面白かったから、どうせなら読み終わってから連絡しようと思って』
 Sはそこで初めて、彼女の声の美しさに気づいた。しっとりと柔らかく、澄んでいる。もっと彼女と話したいと思った。彼女は嘲笑も侮辱しないんじゃないか。声が美しいというだけで、性格も勝手に美化された。
S『わかった。じゃあ、読み終わったら連絡してね。待ってるからね』
 サダコからは、その日のうちに連絡があった。素直に嬉しかった。
サダコ『ごめん。本当はね、あの小説読み終わってるの。私、あのシリーズが好きだから』
 そうしてSとサダコは距離を縮めていく。Sはサダコをどんどんん好きになっていき、母親の物をプレゼントするようになる。「どうせ母さんは使わないから」と言って。
『あの家に侵入者はいなかった。俺が母のものを盗んで、好きな子にあげていただけ。サダコ、きみは迷惑かもしれないけれど、俺は今でもきみのことを愛しています』
 漫画は、そう締めくくられる。
 翔平さんのまっすぐな言葉に、俺は、自分がその土俵にも上がれていないことを知った。
 翔平さんには好きな人がいる。女は無理と言っていたのに……
 SNSは大騒ぎだ。中学時代の翔平さんの写真が拡散され、あらゆる界隈の興味を引いている。特に「美容垢」というサダコの天敵のような輩の食いつきが凄かった。翔平さんの写真に罫線を引き、各パーツを計測して「黄金比率」なんてコメントしているアカウントを見た時は、これは何かしらの罪に問われないかとつい調べてしまった。
 翔平さんの家にも、母の家にも行く気になれず、この日も俺の足は葉山邸へと向かっていた。
 緩やかな石畳の坂を上がると、美しい白亜の建物が目に入る。いつもは素通りするその家に、釣られるように足が向かった。
 自分の家なのに、ついインターホンを押した。はーいと出てきたのは七歳の妹だ。半分同じ血が入っているはずなのに、俺とは似ても似つかない。血の繋がりを感じさせない彼女の存在が、俺がこの家を避けている理由の一つでもあった。
「お兄ちゃん!」
 無邪気に飛びついてくる。素朴な石鹸の香りがした。
「ただいま」
「会いたかったよ〜」
 彼女を抱えたまま中に入ると、黒色のパンプスが目に入った。川島洋子のものではない。
「今ね、お客さんが来てるの」
「お客さん?」
 問うより本人を見る方が早かった。リビングのソファには、警察官の伊藤彩が座っていた。テーブルには塗り絵の紙と色鉛筆が置かれていて、妹と遊んでいたとわかる。
「この家に来ることもあるのね」
 伊藤は静かに言った。いつものようにスーツをビシッと着こなし、髪をひとまとめにしている。意思の強そうなハッキリとした目に、高い鼻。小さな顎先は西洋人のように前に突き出してる。生活感たっぷりのリビングに似つかわしくない人間に、俺は警戒心を抱かずにはいられなかった。……一体、何をしに来たのだろうか。
「……たまには」
「たまにじゃないよ〜、今日だって二ヶ月ぶりだもん!」
 妹、カリンが言った。
「そう。それじゃあ寂しいわね」
「何しに来たんですか」
 伊藤の視線がカリンへ向かう。カリンの前では話せないということか。まだ六時前だから、父が帰ってくるまで一時間以上ある。
「もう用は済んだわ」
 伊藤はソファから立ち上がる。
「えー、お姉ちゃん帰っちゃうのー?」
「……盗聴器でも仕掛けたんですか?」
「どうかしらね。カリンちゃんと宝探しでもしてみたら?」
 伊藤は俺の横を通り過ぎて玄関へ向かう。俺はカリンを引き剥がして玄関へ急いだ。
「……どういう意味ですか」
「たまにはあの子と遊んであげなさいって意味よ」
 伊藤は責めるような口調で言った。
「じゃ、お邪魔しました」
「待ってください!」
 外まで追いかける。伊藤の車は隣の葉山邸の前に停められていた。「乗る?」と問われ、虚をつかれた。
「え、いいんですか?」
 伊藤はふふっと笑った。
「そこはどこ行くんですか? じゃない? 他人なんだからもう少し警戒しないと」
 確かにその通りだった。でも追い払われると思っていたから、驚きが勝ってしまったのだ。
「ま、他人の車に乗るのが怖くないなら乗って。答えられる質問には答えてあげる」
 伊藤が乗り込み、俺も助手席に乗った。
 車が発進する。すっかり闇に落ちた住宅街を車はゆっくりと進んでいく。大通りに出ると、少しスピードが上がった。
「何しに来ていたんですか?」
「カリンちゃんの髪の毛が欲しかったの」
 想像もしなかった回答に、驚いて隣を見た。
「あなたの父親……南條秀司さんはゲイよ」
「っ……」
「こんなこと言われて不愉快だろうけど、もうあんな漫画が拡散されてるし、許してね。南條秀司さんは、世間体のためにあなたの母親……三上友里恵さんと結婚したの。三日前、私は三上友里恵さんに会ってきた。あなたの帰りを待っていたわ」
 理解が追いつかない。……父さんがゲイ? 信じられなかった。
「だって……お、俺……」
「あなたは秀司さんの子供。それは友里恵さんが自信を持って教えてくれた」
「だったら……」
 自分は女とは絶対できない。興味があるのは同性だけで、異性には不快感すら抱いている。セックスしないと出られない部屋に閉じ込められたら出られないだろう。勃つ気がしない。
「でも、ゲイなの。あなたが生まれてから、夫婦の間でそういう行為は一切なかった。……こんな話してごめんね。でもそれがカリンちゃんの髪の毛を回収しに来た理由だから」
「カリンと父さんの血縁を調べて、一体何がわかるって……」
 言った後で気づいた。伊藤が調べようとしているのは、父とカリンの血縁関係ではなく、葉山健太郎とカリンの血縁関係なんじゃないか……
「彰くんは、翔平くんと仲が良いのよね」
 急に翔平さんの名前が出て、緊張した。
「翔平くんは元気?」
「……翔平さんは今でも苦しんでいます」
 元気と言った方が深掘りされないと分かっていても、嘘はつけなかった。言葉にすると自分まで苦しくなってきて、誰かに助けを求めたくなった。
「そうよね」
「……どうしたら、翔平さんは立ち直れると思いますか」
 生活基盤を整えることはできても、翔平さんの根深いトラウマは俺の力ではどうすることもできない。三話目の漫画を読んで、自分の無力さを痛感した。
 サダコ。翔平さんに、そんな特別な相手がいたなんて知らなかった。 
 サダコなら。……今でも翔平さんの心を掴む女の存在は煩わしくて仕方がないのに、どうにか見つけ出せないかと考えずにはいられない。
 ……でもきっと、サダコはもう別人だ。
「それはもちろん、犯人が逮捕されることでしょ」
「……警察は八年も犯人を捕まえられていないじゃないですか」
「犯人が名乗り出れば良いんじゃない?」
「何が言いたいんですかっ……」
 車線を変更し、まさかと思う。
「引き返してください」
 翔平さんのマンションに向かう気だ。
「翔平さんは関係ないっ! 葉山リアを殺したのはっ」
「私」
「え?」
「私、サダコなの」
 この女は一体何を言っているのか。冗談ならあまりに悪質だ。横顔をジッと見つめていると、「よくできた鼻でしょ」と伊藤は口角を引き上げた。
「刑事になんかなるんじゃなかった。ブラックライトで光るんだもの」
 ブラックジョークというやつか? なんにせよ、ふざけるなと腹が立った。
「もしかして嘘だと思ってる? 本当よ。私、サダコなの。アシスタント募集の漫画を見て、翔平くんに会えると思ってあの家に行ったの」
「嘘だ」
「だから本当だって。翔平くんの電話番号、知ってるんでしょ? 彼なら私の声に気づく」
 迷った。サダコからの電話を、翔平さんは喜ぶんじゃないか。心の健康を取り戻すんじゃないか。
 俺はスマホを取り出した。
「いいの?」
 伊藤が言った。
 この女は翔平さんと話したいのだろうか。だから俺を車に乗せたのだろうか。それなら……嫌だと思った。 
 でも、翔平さんの喜ぶかもしれないことを、どうして拒めるだろう。
「いいですよ」
「じゃあ、車止めるから、少し待ってね。それと、悪いけど電話中は車から出ていてくれる?」
「会話を聞かなきゃ、あなたがサダコか分からないじゃないですか」
「翔平くんと会えば分かるでしょ。後で翔平くんのマンションに行くから、きっとその時にわかるわ」
 じゃあ電話する必要なんてない、と言おうとして気づいた。
 この女は、翔平さんと会う気はないのだ。
「……もし、あの家に翔平さんがいたら、どうするつもりだったんですか。自分はサダコだって、名乗ったんですか」
「名乗らなかったわ。卑怯だけど、私は最後まで正体を隠すつもりでいた」
「声でバレるかもしれないじゃないですか」
「別人だもの。この顔で同じ声でも、サダコだとは気付けないと思う」
 でも電話なら。
 車は大型書店に入った。カフェやショップが併設されていて、ガラス張りの店内には幅広い年齢層の客がいた。
「これで何か好きなものでも買ってきて。買い物すれば駐車料金無料になるから」
 車を停めると、伊藤はそう言って一万円札を差し出してきた。
「はい」
 ありがとうと言うのも嫌で、それだけ言って受け取った。
 スマホで翔平さんを呼び出し、伊藤に渡す。伊藤がスマホを耳に当て、暗い気持ちになった。
 ふいっと目を逸らし、俺は車を降りた。
 書店に入る。漫画コーナーにソメコイが平積みされていた。『SNSで話題沸騰!』とポップで彩られている。隣に積まれているのは月城恋のボーイズラブ漫画とゆりんこの異世界恋愛漫画だ。商売根性も倫理観もヤバいなと思いながら、俺はボーイズラブに手を伸ばした。
 川島洋子が父と結婚して、ボーイズラブを描き始めて、俺のことを描いているんじゃないかと、気がおかしくなりそうな時期もあった。
 どうしてあんな不気味な女と結婚したんだと、父を恨んだこともあった。
 でも父は、自分の性的趣向を受け入れてくれる川島洋子に安らぎを感じたのかもしれない。着飾り、家の中でも甘い香水を振り撒く母と一緒に暮らすのが、苦痛だったのかもしれない。
 あらすじを読もうと思ったが、帯に印刷されたエロシーンに驚いて、慌ててそれを元の位置に置いた。
 ブラブラと店内を見てまわりながら、二人は何を話しているんだろうと考える。翔平さんはセックスの経験があるようだった。それについて語ることはなかったが、なんとなくそう感じる。相手はサダコだろうか。でも翔平さんは他にも彼女がいたようだし、考えるだけ無駄な気がした。
 十分が経ち、一旦店を出て車に戻った。
 伊藤は耳にスマホを当てていた。優しげな表情にドッと心臓が跳ねた。見えない相手に伊藤は頷いている。
 気づけば足先が店内に向いていた。ドン、と誰かと肩がぶつかったが、謝る余裕もなかった。店内に逃げ込み、当てもなく店内を彷徨う。
 そういえば何か買ってこいと言われたのだ。何を買おうか。商品棚を見るが、目に入るもの全てがぼやけて見えた。
 すれ違った客が俺を見てギョッとする。よほど見苦しい顔をしているのだと思って、トイレに駆け込み、個室に入った。
「大丈夫ですか」とノックされるまで居座った。
 売り場の時計を見ると、三十分が経っていた。店を出る。車ごとなくなっていれば良いのにと本気で思いながら行くと、それは来た時のまま停まっていた。
 窓ガラス越し、伊藤は目元にハンカチを当て、俯いていた。……通話は終わったらしい。
「何か買ってきた? レシート貰える?」
 車に乗り込むなり、伊藤は言った。
「あ……」
 買い物をしないと駐車料金は無料にならない。
「す……ません。今からか、買ってきます……」
 泣いている伊藤を見たら狼狽えて、舌がもつれた。
「なら別にいいのよ。じゃあ、行こうか」
「いや、俺……欲しいの、思い出しました」
「そう。あ、これ返すね」
 熱いスマホを返された。
「ありがとう」
「いえ……あの……翔平さんが連絡先を書いて渡した小説って、なんてタイトルですか?」
 伊藤は充血した目を丸くし、すぐさま微笑んだ。
 その回答に、この人は本当にサダコなのだと確信した。翔平さんの大切な人は存在していたのだ。翔平さんは、好きな人にはちゃんと「愛している」と言う人だったのだ。
 買い物を終え、車に戻る。
 車が走り出した。しばらくすると、翔平さんのマンションへ向かっていると気づいた。
「サダコなんですよね? もう疑っていません。翔平さんのマンションへは行かなくても良いですよ」
「用があるの」 
「……会うんですか?」
 声を聞いて、会いたくなったのだろうか。……翔平さんから、「会いたい」とでも言われたのだろうか。
「私は車で待ってるから、彰くんだけ行ってきて」
 ハッとし、伊藤を見やった。
「髪の毛を取ってきてほしいの。落ちているものでいいから」
 怖気でぶるりと体が震えた。ゆっくりと、首を横に振る。
「これは私の想像でしかないけど」
 まっすぐ前を見つめながら伊藤は言った。
「川島洋子は、葉山健太郎さんのことが好きだった。でも相手にされなかった。どうしたら振り向いてもらえるか、一緒になれるか……川島は、彼の子を授かることだと考えた」
 喉の奥が、きゅっとキツく引き締まった。俺は口を押さえ、前に屈む。
「でも物理的にそれは不可能だった。『精子をください』なんて頼むこともできない。そこで川島は、十四歳の翔平くんに目をつけた」
 俺は首を横に振る。そんなグロいこと、あって良いはずがない。でも翔平さんの態度が、その説を濃厚なものにしてしまう。
「華奢な翔平くんなら、女の力でも押し倒すことができる。川島は翔平くんとの子供を身ごもった。それがカリンちゃん」
 殺すつもりじゃ…………俺はっ……
 翔平さんはしょっちゅううなされていた。「殺すつもりじゃなかった」あれは、「殺す相手を間違えた」という意味なんじゃないか。
 殺意を持って刺した。でも、本当は川島洋子を殺したかった。
「っ……う、ぅ……」
 そんなの、翔平さんが可哀想すぎる。何かの間違いであって欲しい。
「このこと、誰にも言わないでくれる?」
 俺は屈んだまま、コクコクと頷いた。
「ありがとう」
 車が停まる。マンション前に到着したようだ。
「じゃあ、待ってるから、髪の毛、持ってきてくれる?」
 ふらつきながらマンションのエントランスに入った。合鍵で玄関を開けると、奥から翔平さんが駆け寄ってきた。ガバッと抱きつかれ、受け止めきれずに腰をつく。
「どこ」
 キツく抱きしめられ、苦しい。
「翔平さん……苦しい……」
「サダコ、今どこにいんの。どこで会った?」
 車での移動時間から、適当な駅名を告げた。
「お前、サダコに酷い態度取ってないよな?」
 ツキリと胸が痛んだ。
「それ、本気で言ってる?」
 翔平さんは俺の何を見てきたんだろう。
「俺ってそんなに信用ない?」
 笑いを含んだ声が震えた。
「だってお前、俺のこと好きじゃん」
「……俺を、中学時代に付き合ってた女と一緒にすんな」
 翔平さんが中学時代に付き合っていた彼女は、サダコに酷いことを言ったかもしれない。でも「翔平さんを好き」という共通点だけで、俺を性悪女と一緒にしないでほしい。……翔平さんのことが、憎らしくなった。俺には「好き」と言わせるくせに、彼が返してくれたことは一度もなかった。その言葉は、大切にサダコに取ってあったのだ。
 いつもいつも翔平さんが優位だった。俺ばかり尽くして、一方的に好きだった。
「可哀想な翔平さん」
 たまには優位に立ちたいと思った。相手の優位に立つには、同情するのが手っ取り早い。
「お腹の子供を殺したかったんだよね」
 翔平さんの体がビクッと跳ねた。カタカタと震え出し、ああ本当なのだなと川島洋子に殺意が芽生える。
 翔平さんが顔を上げ、不安げな眼差しと目が合った。
 途端に罪悪感が込み上げた。翔平さんが自分を好きになってくれないからって、トラウマを傷つけていい理由にはならない。
「ごめん」
 頭を撫でるふりで、髪の毛を一本抜いた。
「本当にごめんね」
「……サダコ、なんか言ってた?」
「何も言ってないよ」
 もう一度ごめんと謝って、立ち上がった。しゃがみ込んだままの翔平さんをそのままにしておくのは心苦しかったが、これ以上伊藤を待たせるのも悪い。
 翔平さんの部屋を後にし、伊藤の車に乗り込んだ。差し出した髪の毛を、伊藤はジッパーのついた小袋に入れてカバンにしまった。
「どこに帰る?」
「南條の方で」
「川島洋子に何かしようなんて考えちゃダメよ。あの女のことは、私に任せなさい」
「川島に……翔平さんの罪を背負わせるんですか?」
 是非そうしてほしい。
「それは難しいわね。川島は事件当時家にいた。アパートの監視カメラに映っているのよ」
「じゃあ……どうやってあの女を懲らしめるんですか」
「いいから私に任せて。とにかく、変な考えは起こさないこと」
「言われなくても起こしませんよ」
 一方通行の恋のために人生を棒に振りたくない。
 ふと、翔平さんはどうして川島と母親を間違えたんだろうと疑問が湧いた。二人は背丈も体格も違う。
 チラリと横目に伊藤を見る。翔平さんはサダコに会いたがっていたけれど、整形した彼女をサダコと認識できるのだろうか。
 翔平さんは、俺が酷い態度を取っていないかと心配していた。サダコが整形していると知らないからだ。
「翔平さんに会わなくてよかったんですか?」
「こんな顔じゃ会えないでしょ」
「……でも、最初は正体を隠して、会うつもりでいたんですよね?」
「そうね」
 吹っ切れたような口調で伊藤は言った。
「新しい顔で、正体を隠して、また恋愛できたら良いなって思ったの」
 伊藤の目尻に涙が浮かんだ。伊藤はふうっと息を吐く。
「でもあの漫画を読んで、それは間違いだって気づいた。私は、ブスでも好きだって言ってくれる人がいるんだって、もっと自信を持つべきだった。……彼ね、私のこと今でも好きって言ってくれたのよ」
 そう言われても嫉妬の感情が湧かないのは、伊藤の口調に、諦めと後悔が滲んでいるからだろう。
「それなのに私、面影もないくらい変えちゃった。彼と釣り合う女になりたかったの。彼を意識しているようで、私は他人の目ばかり気にしていた。……バカだったな」
 俺が黙り込むと、伊藤は「こんな話されても困るわよね」と言った。
「……伊藤さんは、整形したこと後悔しているんですか」
「そうね。昔みたいに馬鹿にされることは無くなったけど、ただ環境が変わっただけのような気もするし、顔を変えている後ろめたさみたいなものは常に感じているし、後悔してるかな」
 でも、と伊藤は続けた。見慣れた住宅街に入っていく。
「誰と出会っても、どんなに愛されても……ソメコイを読んでいなくても、私は整形していたと思う」
 車が停まる。なんとなく、ここで降りたらもう二度と伊藤には会えないような気がした。
「……俺、翔平さんのことが好きなんです」
「うん」
 伝わっている気がしなくて、「恋愛対象、男なんです」と付け足す。伊藤は驚かなかった。
「だから、女の容姿とか興味ないけど……今の伊藤さんは、普通の男から見たら、すごく魅力的だと思います」
 何が正解かはわからない。これも嫌な気持ちにさせるかもしれない。本当にわからなかったから、素直に本心を伝えた。
「ありがとう」
「じゃあ、おやすみなさい」
 シートベルトを外す。
「おやすみ。いろいろありがとうね」
「はい」
 車を降りる。「あなたは頑張ってね」ドアを閉める直前、伊藤は言った。
 返事をする間も無く、車は去って行った。