「あんな漫画が投稿されて……本当に迷惑してるのよ」
 早見と私は、南條彰の実の母親、三上友里恵の自宅に来ていた。
 あの漫画が投稿された今なら、何か聞き出せるかもしれないと、マダム受けする早見を引き連れて訪問したのだ。三上友里恵は初対面の私たちにペラペラと当時のことを語った。といっても、南條秀司との夫婦関係がどれだけ冷め切っていたかとか、先に誘ってきたのは葉山健太郎だったとか、自己弁明ばかりで事件の真相に迫るものは何ひとつ出て来なかった。
「刑事さん……私、本当に困っているの。あの漫画のせいで近所の人には白い目で見られるし、彰は帰ってこない。……これって、実害よね? あの漫画のせいで、私は夜も眠れないほど精神的苦痛を受けているの。……なんとかしてよ」
 三上友里恵は心底参っているような表情で言う。四十代前半のはずだが、肌にはハリがあり、三十代でも通用しそうな顔立ちだ。体のラインがくっきりと出るワンピースに、編み目の緩いカーディガンを肩を出して半端に羽織っている。テーブルを挟んでいても甘い香水の匂いが漂ってきて、彼女からは家庭的な雰囲気が一切感じられなかった。あの漫画が投稿されなくても、近所の人からは白い目で見られていたのではないかと、つい勘繰ってしまった。
「実害なんて、よくご存知ですね。確かにネットトラブルでは、実害があれば警察が動くこともあります。ですが今回の件で申し上げますと、すでに南條秀司さんと離婚している三上さんは、あの漫画に登場する『隣家の妻』と同定可能性が認められないかと思います。いずれにせよ、警察よりも弁護士に相談する方が確実かと」
 三上友里恵は苛立たしげに唇を噛んだ。
 同定可能性とは、対象者を特定できる可能性だ。どんなに酷いことを書かれても、それが誰に対しての書き込みか判別できなければ、訴えを起こしても負ける可能性が高い。
 同定可能性という単語に反応しないところを見ると、やはり三上友里恵は、過去に誹謗中傷で訴えを起こされた経験があるのだと思った。だから必ず葉山邸で誹謗中傷の書き込みをしていたのだ。
「……なんで私がこんな目に遭わないといけないの……悪いのはあの人じゃない。みんな……自分の立場になって考えてみなさいよ。結婚相手が同性愛者だったのよ? そんなの……浮気するに決まってるじゃない」
「え」
 私と早見は顔を見合わせた。私も早見も、あの音声を聞いて、同性愛者は息子の彰のことだと思っていた。
「同性愛者って……南條秀司さんが……ですか?」
「他に誰がいるのよ。あの人がちっとも私の相手をしてくれないから悪いんじゃない。セックスレスは夫婦の重大な問題でしょ。誰だって浮気くらいするわよ」
「ですが……南條秀司さんは、川島洋子さんと……」
 三上友里恵は卑屈に笑った。
「子供ができる行為をしたって? ふん。ありえないわ。あの人、彰ができてからは一切私に触れようとしなかった。私に魅力がないとか思わないでね。あの人は生粋のゲイなのよ。でも厳しい家に育ったから隠して生きるしかなかった。親のいいなりで私と結婚して、子供を作って……もう義務を果たした気になったんでしょうね。外に男の恋人がいたわ」
 それを聞いてしまうと、三上友里恵が途端に気の毒に思えた。
「隣の家の男が魅力的に見えたんだもの。仕方ないじゃない。奥さんは漫画でバリバリ稼いで、旦那さんもかっこよくて…………羨ましかったのよ。悪口くらい書かせてよ。浮気くらいさせてよ。別に、家庭を壊すつもりなんかなかったのよ。ましてや殺人なんて……確かに健太郎さんは素敵な人よ。でも人を殺してまで一緒になりたいとは思わない。私、確かに悪い母親かもしれないけれど、そういう分別はつく女よ」
「分別のつく人は、誹謗中傷なんてしません」
 三上友里恵は不貞腐れたように唇を突き出した。息子の彰と違って、コロコロと表情が変わる。
「……あの漫画だって、誹謗中傷みたいなもんじゃない」
 滞在時間は一時間ほどだった。車に戻ると、ドッと疲れた。早見も同じようで、私に断りもなくタバコを取り出した。
「ん? なんだこれ」
 ポケットから何かが落ちた。早見は助手席で身を屈めた。
 拾い上げると、早見は口笛を吹いた。
「なに?」
「三上友里恵さんからのお誘いっす」
 メモ紙にはラインIDが書かれていた。
「ふうん。良かったわね」
「いやいや、興味ないっすよー。つかあのおばさん匂いキツくなかったっすか? 俺、香水の匂い無理なんすよねー。これも臭いし……」
 メモ紙を嗅いだ早見は「うへえ」と顔をしかめた。
 車を発進させ、窓を開ける。
「でも、同性愛者は南條秀司だったんすね。それじゃあ、川島洋子は、誰の子供を妊娠したんすかね」
 考えないようにしていたことを、早見はサラリと言った。
「葉山健太郎だったりして」
「…………」
「伊藤さんはどう思います? 俺はその説が濃厚だと思います。川島洋子は葉山健太郎と体の関係を持った。そして妊娠。川島洋子は葉山健太郎と一緒になることを望んだが、葉山健太郎は家族を優先し、堕ろすよう迫った。川島洋子は激昂し、葉山リアを殺害した……」
 歩道にはコートを着ている人もいる。街路樹の葉も減ってきた。今年もあと二ヶ月を切った。今年中に、あの事件の真相は明らかになるだろうか。……明らかにされてしまうだろうか。
「伊藤さん、聞いてます?」
「いい筋書きだと思う」
「ですよねっ」
「でも、犯人は二人いるのよ。川島洋子の共犯者は?」
「ああ、そうだった……」
 早見は肩を落としたが、すぐさまハッと閃いたように「三上友里恵じゃないっすか!?」と興奮気味に言った。
「葉山健太郎に弄ばれた二人で、協力して葉山リアを殺したんですよっ! それ以外になくないっすかっ!? 絶対それが真相っすよ!」
 不正解。私は心の中で言った。
 葉山リアを殺したのは、私。