馨が二話目の漫画を投稿していて、喉からひゅっと音が出た。
 心拍数が爆上がりし、吐き気が込み上げる。俺は胸を押さえ、トイレに駆け込んだ。
 便器にゲロゲロと吐きながら、早く見なければ、と焦る。でも漫画のことを意識するとまた気持ち悪くなる。
 そうしてトイレにこもっていると、彼……彰がやってきた。彼には家の鍵を渡してある。
「漫画、読んだ?」
 俺はかぶりを振った。
「大丈夫だよ。翔平さんのことは描かれてない」
 それが聞きたかった。
「本当?」
「うん」
 聞くなり俺は部屋に戻った。床に転がったスマホに飛びつき、漫画に目を通す。……途中から、瘧のようにブルブルと身体が震え出した。喉の奥から、言葉にならないくぐもった声が出る。
「ぁ……ああ……」
「翔平さん?」
 顔を覗き込んできた彼の胸を、勢いよく突き飛ばす。ついでに側にあったエアコンのリモコンも投げつけた。
「いっ……なんだよ、急に……別に翔平さんのこと、描いてないだろ……」
 彰は文句を言ったが、俺の顔を見てハッと息をのんだ。よほど情けない顔をしていたのか、「翔平さん……」と気遣わしげに近づいてくる。
「何か嫌なこと思い出した?」
 そんなんじゃない。違う、の意思表示で彼が伸ばしてきた手を跳ね除けた。
 胸が張り裂けそうに痛い。苦しくてたまらない。もう一度漫画を読む。申し訳なくて、つらつらと涙が溢れてきた。
 今でも鮮明に思い出すことができる。俺が意気揚々とあげた母のバッグを見て、「こんなの貰えないよ」と困った彼女の顔……
「うっ……」
 スマホを握りしめたまま、床に額がつくほど体を屈めた。背中をそっとさすられる。優しい手を意識すると、ますます感情が込み上げてきて、俺はみっともなくしゃくりあげた。
「……少し落ち着いた?」
 全然落ち着いていない。泣き疲れただけだ。顔を上げる気力もないから、化石のように丸まっている。
 彼は俺の背中を撫で続け、ふいに言った。
「翔平さん……嫌かもしれないけど、さ……」
 なんだ。彼らしからぬ思わせぶりな言葉に内心、怯んだ。
「なら、黙ってろよ」 
「……翔平さんが知ってること……あの、事件のこと……教えてほしい……」
 驚いて、顔を上げた。何を言っているんだと、相手を睨む。彼は気まずそうに目をそらした。
「か、馨に頼まれたんだよっ……翔平さんに漫画のネタを書かせろって……八年前のこと……八年前、翔平さんが見た景色を知りたい……って」
 カッと激情が込み上げた。ふざけるなと、まだ何か言いたげな彼の胸ぐらを掴む。
「俺にっ……自白しろって言うのかっ! 母さんを殺したのは俺だって……俺に罪を認めさせてっ……償えって言うのかっ!」
「違うっ……肝心なことは伏せればいいっ……でも何か打ち明けなきゃいけない、からっ……だから、一緒に考えようっ……公になっても大丈夫な内容をっ……」
「あるわけないだろそんなことっ!」
「だったら……作ればいい。嘘でいい。……でも、嘘だって見抜かれちゃいけない……だから俺には全部、話してほしい。それで……馨を納得させられる過去を一緒に作ろう」
 俺が息を吸い込むと、彼は怯えるように目を閉じた。
「ごめん……でも俺っ……何も知らないから……」
 彼は掠れた声で言った。目の下の皮膚が痙攣している。
「何も知らないことはないだろ。お前は警察も知らない真実を知ってる」
 母を刺し殺したのは俺だ。頑なに守り続けていた秘密は、寝言によって呆気なく彼にバレた。
「どうしてそうなったか知らない……嫌だろうけど……教えてほしい……あの日、何があったのか……翔平さんがこ、殺したことは……絶対にバレないようにする、から……」
 馬鹿な。俺は乱暴に彼の胸ぐらを突き放した。息が苦しい。
「翔平さんっ……」
 背中をさする手も煩わしく、「触んなっ」と怒鳴った。
 スマホを見る。サダコ。サダコ。漫画に描かれた、彼女が受けた仕打ちに胸が痛んだ。
 サダコと検索すると、サダコが見たら傷つくような酷い投稿がずらりと表示される。
 その中に同級生の投稿を見つけた。
シュウ『サダコって西口のカラオケ店員? 罰ゲームの告白相手にされてた女がそんなあだ名だった気がする。てか顔そっくり』
 やめろ……俺は画面に向かって首を振った。
MJ『翔平が告ったんじゃなかったっけ? すげえ嫌そうな顔、今でも覚えてるわ』
「やめてくれっ……」
 届きもしない懇願が、やけに虚しく部屋に響いた。