九条千央が得意とすることは幾つもある。例えば太刀や弓馬の扱い。他所の武士や舎人、雑色たちに混じって旧来の仲間のように馴染むこと。そして、女房と親しくなることだ。自分の顔の造作が都人の美の基準から外れていることは知っているが、人によっては受けがいいことも先刻承知だ。
 そんなわけで、今、千央は式部大丞・佐伯連之の屋敷にいた。二日ぶりに堯毅の使いとして訪い、薬湯に必要な薬草を台盤所に届けたところだ。そこから門へは向かわず、屋敷の北側に回った千央は、内側から開いた二枚格子を潜って曹司の中に入り込んでいた。
「お歌をありがとうございます。それに、この撫子」
嬉しそうに華やいだ表情の周防が胸に寄り添ってくる。昨夜、普段袖を通している衣と同じ香を焚きしめた料紙に歌を綴り、花を添えて送ったのが気に入ったようだ。
三日もすればと思っていたが、堯毅の訪いの翌日には、彼女は千央の求めに応じて招きいれてくれた。
「毎夜通えない辛さはありますが、なればこそ、このような花にも喜んでいただけたようだ」
「わがままは申しません。お忙しい中で来て下さるだけで、私、日々の辛さも消えてしまいます」
そう、それだ。日々の辛さ。それを聞かせてもらいたい。
こんな年若い女房を口説くほどのことか、と言われれば「何もやましいことはない」とまでは言いきれないが、検非違使に追捕されるというこの数年で最大の恥を帳消しにするためだ。千央はつとめて笑顔を作った。
「よく働いておられるのですね。式部大丞殿のお加減はいかがです?」
水を向けると、周防は嬉しそうに話し始めた。
曰く、お殿さまは薬湯がよく効いて、夜はずいぶんとしっかり眠られるようになった。
曰く、おかげで菱野さんの機嫌がとてもいい。叱られることも少なくなって、屋敷の雰囲気もすっかり和らいだ――でも。
「逆に、和田さまのご機嫌がよろしくないんです。もちろん、出世の足がかりであるお坊ちゃまを亡くされたことで、失望されたのでしょうけど」
「出世などと……菱野殿の話によれば、それこそ我が子のようにかわいがっておいでだったのでしょう。お気落ちも詮なきことでは」
「とんでもない!」
ぱっと顔をあげた周防は、柳眉を逆立てて言いつのる。
「和田さまの今の職位だって、お坊ちゃまがお世話なされたんですよ? そもそも和田さまが都に出ていらした時にお殿さまがお世話した職は、希望とは違ったとかで」
それは初耳だ、と千央は眉を寄せる。だが確かに、先に智也や公鷹から聞いた式部大丞の為人から考えて、北の方の縁戚だからといって官職を世話するようなことはあるまい。つくづく佐伯親子は性格がかなり違うようだ。
「きっと、お坊ちゃまが権中納言さまの姫君の婿になられたことで、ご自身ももっと出世できると思っておられたからですわ! 今日もたいそうお怒りで、お坊ちゃまに……その、ひどいことをした人を絶対に許さないって」
「なんとも物騒なことですね。お連れの方たちも皆、憤っておられるのでしょうか」
物騒も何も、そういう千央自身、主である堯毅の身を守るために一通りの武器を扱うのだが、ここは周防の心情に添っておくのが吉だ。
「はい。普段お連れになっている武士の方もそうですけれど、時々和田さまと一緒に来られる方も大きな声を出されて。乱暴されるのではないかと不安でしたわ」
思い出したのか、細い肩がぶるっと震えた。普段から粗暴な行動が多いという和田の供の者たちを知っていながら、そんなに憤った様子だったということか。
「和田殿とご一緒、ということは、衛門府のご同輩でしょうか?」
「違いますわ。その方にもお坊ちゃまが職をお世話されましたけど、和田さまと同じ職に就けなかったと仰ってましたから……でも私、あの方のお顔が怖いんです」
「おや」
千央は小さな笑い声をたてた。そんじょそこらの男たちと比べたら、胡人風の顔と大柄な体の自分のほうが余程怖いだろうに。そう言うと、周防はぷっと頬を膨らませた。
「とんでもないことですわ。千央さまはこんなに様子の素敵な方ですもの。こんなことを言うのは失礼ですけれど、私が怖いのは、その方のお顔の左半分にひどい痘痕があるからなんです……このようなこと、誰にも言わないでくださいましね」
人の(かんばせ)のことを悪し様に言ったことを悔いてか、そわそわと視線をさまよわせて恥ずかしげに顔を伏せる。
(これはなかなか重要な手がかりじゃないか?)
千央は心中、大いに盛り上がっていた。

 もちろん顔に痘痕がある者は、都のどこにだっているだろう。しかしそんなに目立つ特徴があるなら、この屋敷の近辺で聞き込みをしたら見知っている者が現れるかもしれない。
あの穏やかで実直な佐伯連之の息子、伊之が何故ああも困った性格に育ち、乱れた生活を送るようになったのか。まあ親子の性格の違いもあろうが、和田とその痘痕の男による悪影響が大いにありそうだ。恐らくは彼らに悪い遊びを教わったのだろう。
そして伊之もそれを楽しんでいたのだ。でなければ、自身の出世に伴い二人によりよい職を世話すまい。

まずは重大な情報をもたらしてくれた周防を労うことにしよう。
「もちろんです。大変でしたね」
「本当に。あのお怒りの声を聞くと、私、震えあがってしまいます」
よりいっそう千央に身を寄せた周防は、ふと、かさりと乾いた音がしたことに耳をそばだてた。動きを止め、千央の顔を見上げる。にこりと笑って、千央は懐から懐紙の包みを取り出した。
「実は、今日は手土産があるのです」
灯明の下で包みを解くと、周防が嬉しそうな声をあげる。
「まあ、唐菓子ですの?」
「尹宮さまからご下賜がありまして。索餅(さくべい)です」小麦の粉と米の粉を練って塩で味付けし、ねじって縄のようにしたものを揚げた菓子だ。宮中では7月7日に行われる、手技の上達を願う乞巧奠(きっこうでん)で供される。ある程度俸禄がある貴族家では時折作られたり、東西の市にある菓子店で買うこともできるが、周防のもらう手当てでは買う余裕はあるまい。
「嬉しい! 千央さま、ありがとうございます。そうだ、今ご酒をお持ちしますね!」
声を弾ませて立ち上がった周防が曹司を出ていく。笑顔でそれを見送り、足音が遠ざかると一足先に索餅の切れ端を口に運び、千央は首を傾げた。
 さて、彼女との付き合いはいつまで続けたものか。必要なことを聞けたからすぐさまおわり、というわけにはいくまい。まあ、そこは流れに身を任せるとしよう。