残った公鷹は三人分の膳をまとめて渡殿側の壁際に置くと、二階厨子から筆と硯を入れた箱を出して文机の前に座った。食膳を片付けるため、さらさらと衣擦れの音をたてて廂から女房たちが入ってくる。
「公鷹さま、今の童はどのようなお知り合いですの?」
膳を手に声をかけてきたのは、公鷹の乳兄弟の百瀬(ももせ)だった。公鷹の乳母の娘であり、今は女房たちに交じって公鷹の身の回りの世話をしている。不思議そうな彼女に公鷹は笑顔を向けた。
「食事をありがとう。正とはお役目で知り合ったんだよ」
「まあ。お役目ということは刑部の? まさか罪人ではございませんでしょうね?」
きゅっと眦を吊り上げた様子は、怒った時の彼女の母親によく似ていた。母親の百重(ももえ)はかつては美貌でも鳴らした人だが、それ以上に公鷹の教育係を任されたほどの才媛だ。昔しっかり躾けられた関係上、反射的に娘の彼女の声でも肩がびくつく。
「違うよ、その逆。京識の木下って人の雑色なんだ。ちゃんとお手当もらってない上に、痣だらけで、ぶたれてるみたいで」
「それは……かわいそうなことですわね」
百瀬が眉をひそめる。数秒逡巡した後、やはり言わねばと思ったのだろう。膳を持ち直して語を継いだ。
「でも公鷹さま、そんな童をすべて面倒みるおつもりですの? こう言ってはなんですが、悲田院へ送ったほうが童のためではないでしょうか」
百瀬の言葉は、あながち外れたものではなかった。
悲田院は御仏の教えに則り、貧者や孤児を収容・保護するための場所だ。まして現在は主である堯毅が施薬院別当で、施薬院の別当は悲田院も監督する。歴史的にはあまりまっとうな扱いを受けてこなかった施設だが、これまで以上に安心できる場であるはずだ。
だが。
「正が行きたくないって言うし……悲田院に入っちゃったら会えなくなるって思うと、僕も強く言えなくて」

 出仕し始めて感じたのは、周囲の同僚にうまく馴染めない、という感覚だった。
学館院に所属した期間が短く、一緒に試問を受けた同輩も年齢がかなり上。出仕している同じ年ごろの貴族の子弟たちは有力な家の子弟が大多数で、彼らはもっと上の職にある。
同僚たちはというと年齢も立場も大いに違った。むしろ公鷹の父が受領であると知ると、その蓄財から賄賂(まいない)をもって現職を得たのだろうと邪推するものがほとんどだ。
出仕を始めた頃は己の仕事をきちんとこなすことが普通だと思っていたのだが、どうやら大内裏で働くほとんどの人がそう思っていないらしい。なんなら仕事を押し付けられる。

現状について悩んでいたわけではないが、堯毅によってもたらされた職にあって同じ年ごろの者と出会えたことは、公鷹にとって思いがけず心が浮き立つことだった。
「公鷹さまの周りにいる方々だって、年上の方たちばかりではないのでは?」
「うん、そうなんだけど、みんな割と仕事が適当だからさ。拍子抜けっていうか」
「まあ」
「でも、正はよく殴られてるみたいなのに、いつ見ても一生懸命仕事をしてるんだ」

初めて出会ったのはつい三月ばかり前、左京の三条大路と東洞院大路の角でだった。大柄な男に二、三度蹴られて転がり、放置されるのを見て駆け寄ると、正は驚いた顔で身を引いた。聞けば蹴ったのは主で、文使いから戻ったところ、文の内容が主の癇に障ったからだったという。
「何それ、ひどいよ!」
憤然としてあげた公鷹の声に、正は驚いて一言も出せずにいた。
それからは都を歩くたびに注意して見ていると、時折正が一生懸命走っているのを見かけた。主の木下某に殴られているのを見たこともあったが、昼の都の往来は人が多く近づくのも簡単ではない。止めに入れたことはなく、木下某が立ち去るのを数度見るに留まっているが、もし間に合えば一言言ってやらなければと公鷹は思っていた。
そんなことがあっても、見る限り正は罵声に身を縮こまらせながらなお、与えられた仕事を必死でこなしていた。それは、まだ子供の身で小突かれながら雑色をせねばならないほど身寄りのない立場だから、ということもあるかもしれない。
公鷹は初対面の際に悲田院のことを伝えてある。それでも雑色を辞めないということは、あの木下なる者に仕えなければならない、余程の理由か恩義でもあると思われる。

 話を聞きながら、百瀬はなんとなく公鷹の気持ちがわかった。橘家はもとが大貴族とは思えないほど、郎党や女房たちに親身な一族だ。傍流とはいえ父祖伝来の教育を受けてきた彼にとって、その木下という役人のやりようは納得がいかないのだろう。
かの雑色が素直で真面目な働きぶりのようだから、猶のことなのだ。
「僕はとにかく、お祖父様や父上、みんなの期待に応えたいからね。彼に負けずに頑張りたいんだよ」
墨を磨りながらそう言うと、公鷹は表情を引き締めた。
「これから仕事に関する書き物をするから、しばらく誰も立ち入らないようにしてね」
「かしこまりました」
深々と一礼した百瀬が女房たちと共に下がっていく。
ふと、公鷹はもの思いに沈んだ。

堯毅の目に留まり、弾正大忠と検非違使の大志を兼任することになった時は、正直迷っていた。家のため、祖父や父のためにも出世はしたいと思っていたが、果たして異色の親王である堯毅の信を得ることは、家のためになることだろうか。
そこにはまだ答えを出せていない。
しかし、堯毅という親王の為人は尊敬に値すると思っている。

 さて。
 ここ最近の都全体の治安の低下に始まり、ここ最近の都全体の治安の低下に始まり、佐伯伊之の死、それに先立つ左京大夫が襲撃され、怪我を負ったという事件、そして左兵衛佐である佐伯伊之の死。正の話を聞いて思いついたが、最近都で起こっているのは、これまでの散発的で無計画な夜討ちや強盗事件とは一線を画した組織的な犯罪だ。白昼堂々と強盗・傷害事件が起きること自体は前例がないわけではないが、昨今の事件は「被害者が的確すぎる」。

 先程も強盗事件の勘文にいくつか目を通してきたが、昨年までは強盗や窃盗といっても、被害がないに等しい事件も珍しくなかった。食い詰めた武士や下級貴族が行っていることもあり、入りやすそうな家屋敷に侵入しての場当たり的な犯行になるからだ。
ところが昨年からは被害の程度が大きく、押し入った側にとって実に失敗のない事件ばかりになっている。
事前に下調べをして確実に欲しいものがある時に押し込む、これは相当組織だった行動といえる。それこそ、どこかに召し抱えられている武士団のような、明確に統率された一団によるものだ。

いつ、どこで、どのような事件があったか。怪しい者を目撃した人はいたか、事件前にどんな者が周辺に出没していたのか。それらを徹底的にまとめたほうがいい。まずは借りてきた勘文を、それが済んだら検非違使庁に戻って他の勘文を調べてみよう。
事件が早く解決するよう尽力して――それから。

仕事が片付いたら、正を誘って一緒に市場の菓子屋に行ってみようか。楽しい予定を目標に据えて、公鷹は仕事に集中した。