話を聞けば、正は二日に一度は食事を抜かれているという。固粥(かたかゆ)水飯(すいはん)では消化不良を起こすかもしれないと思った公鷹は、自分の分とまとめて汁粥にしてもらうことにした。公鷹が育った河内の別邸から送られてきた覆盆子(のいちご)を高坏から取って、いくつか正に握らせる。
「粥が炊けるまでこれ食べて。美味しいよ。僕が育った別邸から届けてもらったんだ」
おずおずと正が頷く。覆盆子を口に運ぶ間も、おどおどと落ち着きのない視線があちこちをさまよっていた。片手では井戸水で冷やした布で頬をおさえている。橘家の家人用の直垂と括り袴を借りているものの、小柄なためぶかぶかだった。
「衣は今、洗って干してもらってるから。今日は風があるから、きっとすぐ乾くよ。……それで、木下殿、だっけ。正の主って」
「う、うん。右京識少属(しょうさかん)の木下為末さま。最近は、機嫌が悪くて……」
それは左京大夫が襲われたからだろうか、と公鷹は考えた。右京と左京の違いがあるとはいえ、やはり同輩が襲われては黙っていられまい。しかも、この半年の治安悪化で人手が足りず、検非違使が十分機能していないという問題もある。
「京識でも、左京大夫殿が襲われた件は調べてるのかな?」
言葉自体に怯えた表情になった正は、覆盆子を頬張ったまましばらく逡巡した。迷った挙句、唇を噛んで頷く。
「うん。で、でも他所の人に話しちゃいけないって、為末様が。検非違使が首突っ込んでくるからって……あと、どこのかわからない武士団が京識を締め上げて回ってるって。荒っぽい奴らだから、捕まらないようにしろって」
管轄の違う役所の内情を詳しく聞くのはよろしくないかもしれない。それについて調べたくても、どこから入った情報かを公にできないのは厄介だ。そうは思ったが、ここまで聞いて放っておくこともできない。公鷹は身を乗り出した。
「どこかの武士団が京識に乱暴を働いて、話を聞き出そうとしてるの?」
「うん」
「それで、木下殿は何か、手がかりは見つけたのかな?」
正は首を横に振った。捜査に進捗がないから機嫌が悪いのか知らないが、家人にやつあたりとは感心しない。そしてだ。

都に、すぐ所属のわからない武士団がいること自体は珍しくもない。上級貴族が護衛として丸ごと雇い入れていることが多く、武士団だけで都の中に屋敷を構えていることもあるほどだ。もちろんそんな武士団はよほど大きな後ろ盾、つまり雇い主の貴族がいるということになる。
しかしどうして武士団が、京識から話を聞きだそうとしているのか? それも力ずく、腕力にものをいわせてもという風情だ。
実際、その理由については公鷹は心当たりがないでもなかった。

 ちょうどそこで、透渡殿を軽い足音が近づいてきて止まった。軽い物音がしているところを見ると、昼食ができたのだろう。外の女房から声がかかる。
「若君、膳をお持ちしました」
「ありがとう。運び入れて」
公鷹の応えに応じて妻戸が開かれ、三人の女房が入室してきた。嬉しそうに表情を輝かせる夏清と、戸惑った顔の正、直衣に着替えた公鷹の前にそれぞれ膳が置かれた。汁粥の入った椀、味付け用の塩や酢、醤、酒の皿、牛蒡の粕漬け、青物が二皿、焼魚、雉と芹の汁物が並んでいる。
およそ下級貴族の家で出る品揃えではなかったし、主である公鷹と郎党である夏清、客人とはいえ雑色である正の全員に同じものが出ているのも普通ではない。普通は家の主である貴族が、膳に並べられた多すぎるほどの料理の中から欲しいだけ食べ、残ったものを家人が分け合って食べるものだ。
正もなんとなく気が付いたようで、膳と公鷹の顔をしどもどと往復して見ていた。
「遠慮しないで。お腹が痛くならないように、汁粥からゆっくり食べてね」
「お先にいただきますよ、若!」
夏清が満面の笑顔で、彼だけは汁粥ではなく大盛りにされた玄米飯をかっこみ始める。
その大声に一瞬びくっとした正は、公鷹の言葉に首肯して椀を手に取った。膳を持って正の隣に移動した公鷹は、正の膳から箸や匙を自分の膳に移した。貴族階級以外の下人の食事はまだほとんどが手づかみで、箸や匙は使わない。汁粥以外の皿を胡乱げに見る正に、それぞれ説明をする。
「これが蕗の炊き合わせで、これが茹でた野蒜(のびる)だよ。そっちは鮎。たくさん食べてね。正も僕と一つしか違わないんだから、どっちが背が高くなるか競争しようよ」
「えっ、そんなに変わらないのですか?」
水を差さないつもりだったが、思わず夏清は声を上げていた。五尺四寸ある公鷹から、正は頭半分ほども低い。二つ三つは年下だろうと思っていた。
器に口をつけて汁粥をすすっていた正がこくこくと頷く。次に鮎を手にとり口をつけた彼に、公鷹は塩をふることを薦めた。正にはとにかくいろいろと世話を焼きたくなってしまう。
 最初は遠慮がちだった正も前日からの空腹には抗えず、汁粥を飲み干すと次々と皿のものを平らげ、汁物もあっというまに胃に収めていった。最後にぼりぼりと牛蒡を齧りながら、小さな声を正がもらす。
「ご、ごめん、俺、そろそろ戻らないと……」
「え、でも、衣はまだ乾ききってないんじゃないかな」
流し込むような食べっぷりに空腹の度合いを見てとり、憤りと悲しさ半々の心持ちだった公鷹は、はっとして渡殿のほうを見た。陽は中天を少し過ぎた辺りだから、直垂も括り袴も、もう少し干せば完全に乾くと思われた。しかしちょうど未の三刻を告げる鐘の音が聞こえてくる。
「……うん、戻りが遅くなって今以上にいじめられると困るね。わかった」
女房を呼んで正の直垂と括り袴を持ってくるよう頼むと、正が蚊の鳴くような声で、皿が空になった膳を押し出し礼を言った。
「あ、あの、ありがとう。お腹いっぱいになった」
「よかった」
にこりと笑ってから、公鷹は真面目な顔になって正に向き直った。
「ねえ正、屋敷から放り出されたりしてるんでしょ? これからもさ、ご飯を抜かれたらうちに来て。きちんとしたお膳を出すように女房たちに言っておくから」
正が呆然とした顏で公鷹を見返す。信じられないといった表情なのは、彼がなんの地位もない庶人であり、公鷹が貴族だからだ。舌をもつれさせて問い返す。
「……なんで、そんなに良くしてくれるの? 俺、何も返せないのに」
「何か返してほしいわけじゃないよ。正と仲良くなりたいから、困ってたら助けてあげたいんだ」
唇を噛んだ正が涙目になった。うつむいて、絞り出すように「ありがとう」とこぼす。
「僕はこれからお役目があって一緒に行けないんだけど、右京識まで送らせるよ。忘れないでね、何かあったらちゃんとここへ来てね」
「……わかった」
鼻水をすすり上げて答えた正が、頷いて立ち上がると女房に案内されて対屋を出ていった。それを見送って、公鷹がまだ食べている夏清を振り返る。
「正を送ってきてあげてくれる? 僕は勘文を作ってから使庁に戻るつもりだから」
「承りました。童を送ったらすぐ戻って参ります」
玄米の一粒も残さず昼食を胃に収め、公鷹がわずかに残した牛蒡の粕漬けまで食べ尽くした夏清は、首肯して立ち上がるとふと首を傾げた。
「さっきの、武士団が聞き込みをしているとかいうのは何なんでしょうね」
公鷹はちょっと眉を寄せた。
武士団が調べているのは、恐らく、佐伯伊之が死んだ同じ日に殺害されていた二人の武士についてだろう。何らかの理由で検非違使に、自分の武士団所属の者だと言えないのだ。そこで殺害した者を調べていると考えられる。
「後ろ暗い事情があるんだと思うよ」
最も考えられる理由としては、左京大夫を闇討ちした者たちが仲間の死の真相を探っている。京識の者たちに殺されたのではないかと疑っているのだろう。そしてなんなら、京識の者たちが実際に手にかけた可能性があった。
ただ、これはあくまで予想だ。迂闊な発言は慎まなければならない。
「んじゃ、ひとっ走り行って参ります」
そう言い残して、夏清も対屋を出ると大股に渡殿を歩いていった。