二
千央は尭毅や智也が連之と話している間、途中までは大人しく座していたが、ふと気づくと御簾の向こうで菱野が気遣わしげにちらちらと顔を出しているのを見て、腰をあげた。何か不明なことがあるのだろう。そっと身を乗り出して智也に是非を問うと、無言のまま頷いて返事を返してくる。
音を立てずに母屋を退いて、千央は廂へ出た。菱野と、その後ろに年若い女房が廂に座して何事か囁きあっている。思いがけず見栄えのよい彼が出てきたことで、若い女房は素直にも頬を染めていた。
「私は宮の帳内、千央と申す者です。女房殿、処方で何か不明なことが?」
自分の顔の効果をよく知っている千央が、とびきりの笑顔をつくって問いかける。ぽうっとなっている女房をよそに、きりりとした眉が印象的な菱野は手にした処方と椀へ目を落とした。
「お手を煩わせて申し訳ありません。こちらの石のようなもの、こんなに入れてよいのでしょうか。このような材料を使った薬湯など初めてで、不安で」
「牡蛎ですね」
千央は手元を覗きこんで呟いた。伊勢国から貢納された牡蠣の殻だが、綺麗に磨かれ乳白色の石のようになっている。不安に感じるのも無理はない。
「ご懸念には及びません。不眠に効果があるものです」
女房頭らしく、主に忠実なたちのようだ。安心させられるかわからないが、さっき処方で見たことを笑顔で答えた。正直、もう一つの石のような薬材が大昔の牛だか犀だかの骨だと尭毅から聞いていたので、そちらを聞かれなくてよかったとも思う。
ほっと息をつく菱野と対照的に、若い女房は顔を隠すでもなく、しかし自分から話しかけるほどの勇気もないようだ。
「牡蛎を擦るのは女房殿には大変でしょう。私がやりましょうか?」
「お願いできますでしょうか!」
菱野を置き去りに若い女房が身を乗り出した。渋い顔をしたものの、菱野もそのほうがありがたいと見える。二人に先導されて千央は台盤所へ向かった。
連之の屋敷は小造りながら、過ごしやすそうな手入れの行き届いた状態に保たれていた。それは恐らくは使用人たちがしっかりと為すべき仕事をしているからで、連之の人望や使用人たちの水準の高さが窺われる。
ちらちらと観察を忘れない千央だったが、台盤所へ着くまでのわずかな間も、若い女房から興味津々の質問をぶつけられることになった。
「千央殿は帳内と仰られましたが、宮さまのお側近くに侍られるお役目ですよね?」
「お身の回りのお世話や、外出される際の護衛など務めさせていただいております」
「まあ……お恥ずかしいことに、帳内の方とお話しさせていただくのは初めてなんです。皆さま、こんなにご立派でいらっしゃるんですか?」
「およしなさい、周防。はしたない」
先に立って歩く菱野は困った様子だが、千央にとってはこういう女房は都合がいい。十五、六ほどか、もともと気になる物事に前のめりなたちなのだろう。そうした関心の対象に、自分が入っているらしいことも勘づいていた。
「帳内では私が筆頭ですが、私など、宮さまの家司である式部大輔殿とは比べ物になりません。主のため、私も菱野殿のように、まだまだ精進せねばと思います」
官位については興味がないので除外するが、正直なところ、智也に負けているところは身長だけだと思っている。千央がさも真面目であるような顔でそう言うと、周防と呼ばれた女房はいくぶん唇を尖らせ、菱野もやや目尻を緩めた。
「式部大丞殿は清廉潔白なお人柄と、常々承っております。女房殿たちもお勤めにさぞかし尽力されていることとお見受けします」
「それはもう!」
雑談には乗り気でなかった菱野が、今までで一番大きな声をあげた。
「お殿さまは私たち女房や雑色たちにも親身で、色々と気遣ってくださいます。私などは流行病で家族を亡くしておりますので、ここより行く宛もありません。こちらに終生お仕えするつもりでございます」
「身寄りが……そのような方は多いのですか?」
千央の問にはやや食い気味に周防も答えた。
「はい、私も父以外みな亡くしまして……父がこちらのご子息の伊之さまにお歌のご指南をしておりましたご縁で、女房として雇っていただきました。お殿さまはお優しい方なんです」
女房たちの忠心はかなりのものだ。相槌を打ちながら、千央は感心していた。
着いてみれば、台盤所の女房たちが一瞬ざわついた。庖丁人や雑色以外の男が台盤所へ来ることはあまりない。まして歴とした帳内とあって、騒ぎもひとしおだった。
「みな、取り乱さないように。お薬湯のご指導のために来ていただきました」
菱野の一言で騒ぎが静まり、粛々と材料と薬湯の淹れ方について千央から説明が始まる。薬湯は厳密に材料を調整する必要があるため、薬道具から秤を出して一回分ごとに小分けに薬剤を包んでおくよう説明した。
「これを煎じて、お休みの前に飲んでいただいてください。都度、しっかり煮立てるようお願いします」
昨今の貴族の屋敷では鉄の鍋を使っているところもあるが、煎じ薬の材料である生薬は、鉄に反応して好ましくない変化を起こす場合がある。幸いにしてこの屋敷ではまだ石堝や土堝だったが、さすがに食事を作る堝で煎じ薬は作りたくないだろう。
「薬湯は専用の堝を使います。差し支えなければ、今持ってきておりますものを差し上げます。宮さまのご意向ですので、ご遠慮はなさらず」
「ありがとうございます。本当に……蛍の宮さまのご温情に畏れ入るばかりです」
菱野が半泣きで言った。
『蛍の宮』とは都人が尭毅に好んで使う呼称である。昼は屋敷の奥深くにあり外出はもっぱら夜、光輝く髪や白皙の容貌から蛍の名を冠せられているようだ。
彼女のような一般の貴族に仕える女房の立場からすれば、尭毅の名を直接口にするのは憚られるだろうから、その呼称を使うこと自体は驚いたことではない。
しかし、隔意をもって口にする者も少なくないため、笑みが若干ひきつったことを千央も自覚していた。
一通り、煎じ薬に使っている材料や一度に飲ませる量についてなどの質問に答えたところで、千央は自身の用事を切り出すことにした。
「時に、先ほど屋敷にお見えになられていた方、和田さまとおっしゃられましたか」
途端に、今まで和やかだった女房たちの表情ががらりと変わった。一様になんとも言えない不快そうになった顔を、慌てたように衣の袖口で隠す。
「北の方さまの縁者であられるというお話しでしたね」
「……お殿さまは和田さまをたいへん頼みにしておられます」
渋々といった様子で口を開いたのは周防だった。彼女自身はそれに納得しているという口調ではない。それはどうやら菱野も同じだったようだ。
「お殿さまは荒事は和田さまをお頼りするしかないのです。でもあの方、私たち女房や雑色にはちょっと……」
「乱暴なことでもなさるんですか?」
「それは……ちょっと見目のよい女房には親切にしてお手をつけられたり、お気に召さない雑色を厳しく打たれたり。お殿さまの目が届かないところであれこれと!」
「お供の方たちはもっとひどいんです。新人の女房を曹司に連れ込もうとするわ、大路を歩いていた棒手振りを引きずり込んで商いものを奪い取るわ、やりたい放題です」
周防が堰を切ったように不満を吐き出すと、相槌をうって別の女房も身を乗り出した。他の女房たちも同意の声をあげ、先ほどまでは屋敷の内情を口にしたがらなかった菱野でさえ、渋い顔ながら訴えを止めようとはしない。
千央からすれば正直、そのぐらいはありうることだと思っていた。主である連之がおよそ穏当であるがゆえに、和田の挙動が際立って見えているのだろう。
そもそも武士団を構えている地方豪族は、都人に比べて荒事慣れしている。抱えている武士たちもつまるところ、自分の郷を追い出されたような無頼のものが多数いることだろう。
しかしだ。
「郎党がそんな乱暴を働いているというのは困りますね。狼藉が知れたら京識からお咎めがあるかもしれません。その場合、式部大丞殿が責めを負われることになります」
「……そんな! お殿さまは何も悪くありませんのに!」
思わず大声をあげた周防が一瞬息をのみ、いくぶん小声にして訴える。まだ何か言いたそうな彼女を制して、菱野が眉を寄せて呟いた。
「ですが、そうした狼藉を働く郎党を抱えている和田殿に警固を頼んでいるのが、お殿さまだからですね」
「そうです」
首肯した千央は、もう一押ししておくことにした。
「京識で済めばよいですが、物盗りをしているとなると検非違使が出てくるかもしれません。式部大丞殿の御名に傷がつくようなことがなければよいのですが」
菱野が唇をひき結んだ。その場にいる者たちからは声も出ない。『検非違使が出てくる』ということにはそれだけの重大な意味があった。
「……お殿さまに、和田さまやお供の方たちの行状について申し上げるべきでしょうか」
「まったくお伝えしていないのですか?」
「いえ、女房たちのことについてはお伝えしています。でも棒手振りのことなどはお話ししておりません。そもそも和田さまは、警固は熱心にしてくださるのです。北の方さまのご縁ということもあってか、特に伊之さまにはお優しくて……よく伊之さまあてに差し入れなども送ってこられていましたし、弓馬の扱いなども伊之さまには丁寧に教えてくださっていました」
無理もなかった。女房頭の菱野が女房への仕打ちについて訴えるのは当然のことだが、和田の郎党の行状について、しかも屋敷の者が被害に遭っていないことを訴えるのは勇気がいることだろう。
「いえ、それを菱野殿からお伝えした結果、もし女房殿たちへの当たりが強くなるようなことがあれば大変です。私から式部大輔殿にお伝えし、それとなく式部大丞殿へお話しいただくようにしましょう」
「そうしていただけましたら幸いです」
菱野がそう答え、女房や雑色たちの間にほっとした空気が流れた。大事にならなくてよかったという想いも見て取れる一方で、使用人たちは式部大丞に忠実で思いやりもある。
しかしなるほど、和田という男は粗暴な一方で、縁者の伊之を大切にしていた面があったようだ。先ほどの取り乱しようは、察するに妻の縁者という立場から、連之よりも伊之に入れ込んでいたからこそなのだろう。今後役職などにつきたい時に、権中納言の娘婿となり栄達した伊之からの口添えや紹介を期待していた、という打算もあったかもしれない。
今日のところはこのぐらいの情報でよしとするか。
再び始まった女房たちの雑談に応じながら、千央は尭毅や智也たちのもとへ戻る機会を図り始めた。
千央は尭毅や智也が連之と話している間、途中までは大人しく座していたが、ふと気づくと御簾の向こうで菱野が気遣わしげにちらちらと顔を出しているのを見て、腰をあげた。何か不明なことがあるのだろう。そっと身を乗り出して智也に是非を問うと、無言のまま頷いて返事を返してくる。
音を立てずに母屋を退いて、千央は廂へ出た。菱野と、その後ろに年若い女房が廂に座して何事か囁きあっている。思いがけず見栄えのよい彼が出てきたことで、若い女房は素直にも頬を染めていた。
「私は宮の帳内、千央と申す者です。女房殿、処方で何か不明なことが?」
自分の顔の効果をよく知っている千央が、とびきりの笑顔をつくって問いかける。ぽうっとなっている女房をよそに、きりりとした眉が印象的な菱野は手にした処方と椀へ目を落とした。
「お手を煩わせて申し訳ありません。こちらの石のようなもの、こんなに入れてよいのでしょうか。このような材料を使った薬湯など初めてで、不安で」
「牡蛎ですね」
千央は手元を覗きこんで呟いた。伊勢国から貢納された牡蠣の殻だが、綺麗に磨かれ乳白色の石のようになっている。不安に感じるのも無理はない。
「ご懸念には及びません。不眠に効果があるものです」
女房頭らしく、主に忠実なたちのようだ。安心させられるかわからないが、さっき処方で見たことを笑顔で答えた。正直、もう一つの石のような薬材が大昔の牛だか犀だかの骨だと尭毅から聞いていたので、そちらを聞かれなくてよかったとも思う。
ほっと息をつく菱野と対照的に、若い女房は顔を隠すでもなく、しかし自分から話しかけるほどの勇気もないようだ。
「牡蛎を擦るのは女房殿には大変でしょう。私がやりましょうか?」
「お願いできますでしょうか!」
菱野を置き去りに若い女房が身を乗り出した。渋い顔をしたものの、菱野もそのほうがありがたいと見える。二人に先導されて千央は台盤所へ向かった。
連之の屋敷は小造りながら、過ごしやすそうな手入れの行き届いた状態に保たれていた。それは恐らくは使用人たちがしっかりと為すべき仕事をしているからで、連之の人望や使用人たちの水準の高さが窺われる。
ちらちらと観察を忘れない千央だったが、台盤所へ着くまでのわずかな間も、若い女房から興味津々の質問をぶつけられることになった。
「千央殿は帳内と仰られましたが、宮さまのお側近くに侍られるお役目ですよね?」
「お身の回りのお世話や、外出される際の護衛など務めさせていただいております」
「まあ……お恥ずかしいことに、帳内の方とお話しさせていただくのは初めてなんです。皆さま、こんなにご立派でいらっしゃるんですか?」
「およしなさい、周防。はしたない」
先に立って歩く菱野は困った様子だが、千央にとってはこういう女房は都合がいい。十五、六ほどか、もともと気になる物事に前のめりなたちなのだろう。そうした関心の対象に、自分が入っているらしいことも勘づいていた。
「帳内では私が筆頭ですが、私など、宮さまの家司である式部大輔殿とは比べ物になりません。主のため、私も菱野殿のように、まだまだ精進せねばと思います」
官位については興味がないので除外するが、正直なところ、智也に負けているところは身長だけだと思っている。千央がさも真面目であるような顔でそう言うと、周防と呼ばれた女房はいくぶん唇を尖らせ、菱野もやや目尻を緩めた。
「式部大丞殿は清廉潔白なお人柄と、常々承っております。女房殿たちもお勤めにさぞかし尽力されていることとお見受けします」
「それはもう!」
雑談には乗り気でなかった菱野が、今までで一番大きな声をあげた。
「お殿さまは私たち女房や雑色たちにも親身で、色々と気遣ってくださいます。私などは流行病で家族を亡くしておりますので、ここより行く宛もありません。こちらに終生お仕えするつもりでございます」
「身寄りが……そのような方は多いのですか?」
千央の問にはやや食い気味に周防も答えた。
「はい、私も父以外みな亡くしまして……父がこちらのご子息の伊之さまにお歌のご指南をしておりましたご縁で、女房として雇っていただきました。お殿さまはお優しい方なんです」
女房たちの忠心はかなりのものだ。相槌を打ちながら、千央は感心していた。
着いてみれば、台盤所の女房たちが一瞬ざわついた。庖丁人や雑色以外の男が台盤所へ来ることはあまりない。まして歴とした帳内とあって、騒ぎもひとしおだった。
「みな、取り乱さないように。お薬湯のご指導のために来ていただきました」
菱野の一言で騒ぎが静まり、粛々と材料と薬湯の淹れ方について千央から説明が始まる。薬湯は厳密に材料を調整する必要があるため、薬道具から秤を出して一回分ごとに小分けに薬剤を包んでおくよう説明した。
「これを煎じて、お休みの前に飲んでいただいてください。都度、しっかり煮立てるようお願いします」
昨今の貴族の屋敷では鉄の鍋を使っているところもあるが、煎じ薬の材料である生薬は、鉄に反応して好ましくない変化を起こす場合がある。幸いにしてこの屋敷ではまだ石堝や土堝だったが、さすがに食事を作る堝で煎じ薬は作りたくないだろう。
「薬湯は専用の堝を使います。差し支えなければ、今持ってきておりますものを差し上げます。宮さまのご意向ですので、ご遠慮はなさらず」
「ありがとうございます。本当に……蛍の宮さまのご温情に畏れ入るばかりです」
菱野が半泣きで言った。
『蛍の宮』とは都人が尭毅に好んで使う呼称である。昼は屋敷の奥深くにあり外出はもっぱら夜、光輝く髪や白皙の容貌から蛍の名を冠せられているようだ。
彼女のような一般の貴族に仕える女房の立場からすれば、尭毅の名を直接口にするのは憚られるだろうから、その呼称を使うこと自体は驚いたことではない。
しかし、隔意をもって口にする者も少なくないため、笑みが若干ひきつったことを千央も自覚していた。
一通り、煎じ薬に使っている材料や一度に飲ませる量についてなどの質問に答えたところで、千央は自身の用事を切り出すことにした。
「時に、先ほど屋敷にお見えになられていた方、和田さまとおっしゃられましたか」
途端に、今まで和やかだった女房たちの表情ががらりと変わった。一様になんとも言えない不快そうになった顔を、慌てたように衣の袖口で隠す。
「北の方さまの縁者であられるというお話しでしたね」
「……お殿さまは和田さまをたいへん頼みにしておられます」
渋々といった様子で口を開いたのは周防だった。彼女自身はそれに納得しているという口調ではない。それはどうやら菱野も同じだったようだ。
「お殿さまは荒事は和田さまをお頼りするしかないのです。でもあの方、私たち女房や雑色にはちょっと……」
「乱暴なことでもなさるんですか?」
「それは……ちょっと見目のよい女房には親切にしてお手をつけられたり、お気に召さない雑色を厳しく打たれたり。お殿さまの目が届かないところであれこれと!」
「お供の方たちはもっとひどいんです。新人の女房を曹司に連れ込もうとするわ、大路を歩いていた棒手振りを引きずり込んで商いものを奪い取るわ、やりたい放題です」
周防が堰を切ったように不満を吐き出すと、相槌をうって別の女房も身を乗り出した。他の女房たちも同意の声をあげ、先ほどまでは屋敷の内情を口にしたがらなかった菱野でさえ、渋い顔ながら訴えを止めようとはしない。
千央からすれば正直、そのぐらいはありうることだと思っていた。主である連之がおよそ穏当であるがゆえに、和田の挙動が際立って見えているのだろう。
そもそも武士団を構えている地方豪族は、都人に比べて荒事慣れしている。抱えている武士たちもつまるところ、自分の郷を追い出されたような無頼のものが多数いることだろう。
しかしだ。
「郎党がそんな乱暴を働いているというのは困りますね。狼藉が知れたら京識からお咎めがあるかもしれません。その場合、式部大丞殿が責めを負われることになります」
「……そんな! お殿さまは何も悪くありませんのに!」
思わず大声をあげた周防が一瞬息をのみ、いくぶん小声にして訴える。まだ何か言いたそうな彼女を制して、菱野が眉を寄せて呟いた。
「ですが、そうした狼藉を働く郎党を抱えている和田殿に警固を頼んでいるのが、お殿さまだからですね」
「そうです」
首肯した千央は、もう一押ししておくことにした。
「京識で済めばよいですが、物盗りをしているとなると検非違使が出てくるかもしれません。式部大丞殿の御名に傷がつくようなことがなければよいのですが」
菱野が唇をひき結んだ。その場にいる者たちからは声も出ない。『検非違使が出てくる』ということにはそれだけの重大な意味があった。
「……お殿さまに、和田さまやお供の方たちの行状について申し上げるべきでしょうか」
「まったくお伝えしていないのですか?」
「いえ、女房たちのことについてはお伝えしています。でも棒手振りのことなどはお話ししておりません。そもそも和田さまは、警固は熱心にしてくださるのです。北の方さまのご縁ということもあってか、特に伊之さまにはお優しくて……よく伊之さまあてに差し入れなども送ってこられていましたし、弓馬の扱いなども伊之さまには丁寧に教えてくださっていました」
無理もなかった。女房頭の菱野が女房への仕打ちについて訴えるのは当然のことだが、和田の郎党の行状について、しかも屋敷の者が被害に遭っていないことを訴えるのは勇気がいることだろう。
「いえ、それを菱野殿からお伝えした結果、もし女房殿たちへの当たりが強くなるようなことがあれば大変です。私から式部大輔殿にお伝えし、それとなく式部大丞殿へお話しいただくようにしましょう」
「そうしていただけましたら幸いです」
菱野がそう答え、女房や雑色たちの間にほっとした空気が流れた。大事にならなくてよかったという想いも見て取れる一方で、使用人たちは式部大丞に忠実で思いやりもある。
しかしなるほど、和田という男は粗暴な一方で、縁者の伊之を大切にしていた面があったようだ。先ほどの取り乱しようは、察するに妻の縁者という立場から、連之よりも伊之に入れ込んでいたからこそなのだろう。今後役職などにつきたい時に、権中納言の娘婿となり栄達した伊之からの口添えや紹介を期待していた、という打算もあったかもしれない。
今日のところはこのぐらいの情報でよしとするか。
再び始まった女房たちの雑談に応じながら、千央は尭毅や智也たちのもとへ戻る機会を図り始めた。