五月十八日、正が検非違使庁で血を吐いて、堯毅に施薬院へ連れて行かれて二日が過ぎた。検非違使別当の藤原実貞とのかねてからの取り決めで、この日の午の三刻から和田の勘問が行われることとなっている。
使庁には勘問の際に使う六間四面の母屋があった。尉ないし佐が母屋の中央に座し、証人は犯人と顔を合わせずに済むよう、その左右いずれかに座して几帳などで隠すという方式を採っている。
今回は都を大いに騒がせた群盗の裁きとあって、母屋には検非違使別当・藤原実貞がいた。また、証人を得たのは弾正台にも籍がある大志だったことから、勘問には弾正尹宮も参じている。人前に滅多に姿を現さないことから『蛍の宮』と噂される堯毅が来るとあって、衛士たちも少なからず浮ついていた。
 看督長(かどのおさ)によって母屋の前の土間に引き据えられた和田清重は、幾分面窶(おもやつ)れしていた。獄舎にいれば当然のことで、廂に座した少尉・鈴木尚季に勘文を読み上げられている間も苦虫を噛み潰したような顔をしている。
「以上、相違ないか」
返答を求められた和田はかすれた声で唸り声をあげた。
「相違しかございませんな。件の武士団とやらに濡れ衣を着せられておるのです。それと」
敵意をこめた目で、別当の隣の堯毅を見上げる。昼の日光は彼の肌を灼くため、座す場に影が落ちるよう格子が下ろされていたが、整った貌は垣間見えた。
「尹宮さまは何か……誤解をされています。私は尾張の豪族の端くれに生まれ、地方官を歴任して上役どもの無理難題にさらされながら必死に身を立ててまいりました。卑しき身なれど、お疑いのようなことは決してございませぬ」
聞いただけなら必死の訴えに聞こえたかもしれないが、生憎と口先三寸の嘘と哀願を聞き飽きている堯毅は失笑しただけだった。
「国の守や介が目下に少なからぬ横暴を働くという話は聞き及んでおります。仰るとおりなら気の毒なことと思いますが、実際にはあなたは任官先で周囲の人々の弱みを握って権力を得ていました。そうでしたね、別当殿?」
「その通り。これは検非違使庁にいくつか訴状が届いている。大和国、和泉国、伊賀国だな」
それが何故現在まで取り上げられなかったのかと言えば、各国に介や掾として赴いた和田は上司となる守や現地の権守、介に賄賂を渡し、検非違使からの問い合わせを握り潰してもらっていたからだった。
「すでに追捕した武士団の者たちから、都においての押し込み先や盗んだものの目録を作成済みだ。また、押し込んだ先での殺人・傷害は別件として扱われる。首魁であるその方もおとなしく刑に服すように」
「莫迦な」
別当の言葉を一蹴し、和田は喚き声をあげた。
「それを言うなら我が縁戚、式部大丞・佐伯連之が一子、佐伯伊之の殺害についてはいかがなのだ! 彼の殺害を自供した雑色がいるはずだ、あやつもこの場へ引き据えられるべきであろう!」
「まったくの別件ではないか。だがよかろう、これへ」
眉間にしわを寄せた別当が合図すると、扉が開いて看督長が縄打たれた正を伴って入ってきた。正が母屋の前に座る。その顔色は著しく悪く、青いを通り越して蒼白だった。
「和泉国、白露荘園は日根郡八田部郷、保司が一子、正」
「はい」
声にも力がないが、構わず別当は勘文を読み上げた。
「群盗の一味として京中を騒がしめ、十二件の押し込み先において家人を殺傷した罪。左京大夫・源光長の闇討ちにおいて随身二名を殺害せしめた罪。検非違使大志・橘公鷹の闇討ちにおいて犯人の逃走を幇助した罪。そして一味であった左兵衛佐・佐伯伊之とその護衛の武士二名、右京識少属・木下為末殺害の罪。以上、相違ないか」
「……相違ありません」
諾々と頷く正を見下ろし、別当はほっと息を吐いていた。衛士たちの心胆寒からしめるに十分な罪状の数々だ。昨日、証人として使庁を出入りしていたこの童がそれほどの罪人だったと堯毅から知らされた時には、思わず「何故野放しにしておったのです!」と怒鳴ったほどだった。
引き据えられた正を和田が憎々しげに睨みつける。
「まだ生きていたとはな、薄鈍めが。おまえなど拾うのではなかった」
どう見ても瀕死の様相の正が、雑言を浴びせられてふんと鼻を鳴らす。手足のごとく使ってきた正にあしらわれ、和田が眉を吊り上げた。そうした二人のやりとりを別当は流すことにした。罪人同士の罵り合いなど耳にする価値もない。
「こやつはおまえの懐刀として、群盗たちの中でも恐れられていたようだな。追捕後もおまえについて一切口を開かなかった奴らが、こやつがおまえの所業を吐いたと聞くと、次々におまえが首魁であると自供したぞ」
これにて都を騒がせた群盗の裁きは終了、と締めようとした別当を制し、不意に堯毅が口を開いた。
「ですが、それだけではありませんね。あなたはもう一つ、大きな罪を犯している」
強く唇をかみしめていた和田清重の視線が殺気を帯び、事前に聞いていなかった別当が眉をひそめて振り返る。
「それはどういうことですかな、尹宮さま」
「式部大丞である佐伯連之殿のご子息、真駒(まこ)殿の殺害です」
 一同、水を打ったように静まり返っていた。唐突すぎる殺人疑惑の提示に、別当が目を瞬いている。
「この件については父君、佐伯連之殿に足を運んでいただいています」
堯毅の言葉に応じ、その後ろに控えていた菅原智也が母屋から出たと思うと、まもなくやつれた佐伯連之を伴い戻ってきた。堯毅は懐から二つ折りにした料紙を取り出し、檜扇に乗せて別当へと渡す。料紙を開くと、そこには佐伯伊之の似姿が描かれていた。
「おかしいと思っていたのです。佐伯連之殿と佐伯伊之殿ではあまりに人品骨柄が大きく異なっています。親子でこれほどに違うことがありましょうか?」
「いえ、それは……」
ない話でもない、と思った別当だったが、堯毅はそれ以上の言葉を発させなかった。
「私も稀には見られると思ったのですが、それだけでなく、不自然なほどに伊之殿は和田殿、あなたと木下殿を慕っていたようですね。三日と空けずあなたの屋敷を訪れ酒を酌み交わし、東西の市を冷やかし、木下殿を伴い女性とも親しく交わっていた。とても弓馬の師というだけとは思われないほどの親密さです。そうでしたね、連之殿」
「は。仰せのとおりです」
板間に手をつき、俯いて連之が首肯した。あくまで穏やかな堯毅の指摘に、清重が歯ぎしりせんばかりに表情を歪めて口を開く。
「それは……確かに、彼の素行の悪さは私の悪い影響があったかもしれません」
「ええ、そうですね。まさに親子のようで」
「馬鹿な!」
清重は再び声を荒らげた。縛されていなければ掴みかからんばかりの勢いだった。
「尹宮さま、何を仰りたいのです!」
所詮は蝶よ花よと育てられた世間を知らぬ親王、怒声だけで竦みあがるに違いない――その思惑は大いにあてが外れることになった。堯毅は眉ひとつ動かさず、笑みを深めたのだ。
「相法をご存知ですか? 人の顔かたちから人の気質や縁起をはかる、観相というものです。私は相書を少しかじった程度ですが、伊之殿が連之殿のお子でないということはすぐにわかりました」
何故そんな確証を、このひ弱な親王が持つに至ったのかと別当は考えた。医師はそんなことまで見るものなのか? 首をひねったところで和田がせせら笑うように反駁する。
「畏れながら、尹宮さまは御目がよくお見えではないと佐伯から聞いております。そのような御目で、観相なるものができるものでしょうか」
「御目が? そうなのですか、尹宮さま」
どうやら別当は、堯毅に関する噂を詳しく聞いていないらしい。多忙すぎて犯罪と縁のない噂話を聞いている暇がないという可能性はある。痛いところを突いてやったとばかり、薄ら笑いを浮かべた和田だったが、堯毅もまた笑顔だった。
「よくご存じですね、そのとおりです。この目は近目で、鼻先にまで近づけないと書いてあるものが見えないのですから大変でしたよ。――伊之殿の似姿を見て、どんな事があればそんなことが起こりうるのか考えました。連之殿がご存知でないということは、何者かによって秘密裡に入れ替えられたということです」
 十八年前、当時三歳だった佐伯連之の一子、真駒は流行病で床に伏し、高熱が下がった後もなかなか床上げができずにいた。真駒の母で連之の北の方、(あや)姫も同じ熱病を得て、気鬱のためか塞ぎこむことが多かったという。
大いに気を揉んだ佐伯連之は、尾張にある別邸で二人を静養させることにした。その際、道中の二人の護衛を申し出たのが和田清重だった。
「あなたは文姫の家の縁戚で、武士団を持っていたため、こうした護衛や警固を引き受けていたそうですね。そして当時あなたにも、三歳になるご子息がおられた。ご幼少のみぎりに亡くなられたとか、蝉丸殿でしたか」
真っすぐに青灰色の瞳を向けられ、和田はおぞましげに身を震わせた。

 和田清重がいつから、我が子を佐伯の家の子と入れ替えるかを謀っていたかはわからない。しかし文姫と真駒が尾張へ向かい、牛車が山道に差しかかった時に、計画は実行に移された。警備の名目で彼らについて都を出た和田清重は、尾張に入ると山の中で二人と真駒の乳母をうち棄てる。
女子供を手にかけることに躊躇があったとは思えないが、その手間すら惜しんだのか、牛車ごと崖下へ突き落としたのだ。

連之は血の気が引いた顔で堯毅の語りを聞いていた。忌まわしい記憶を掘り起こす。
「……確かに、真駒と文、乳母を乗せた車が崖から落ちたと聞いております。それで文と乳母ははかなくなったと……」
なんということか、話の辻褄が合っている。しかしそうだとしたら、成長に気を遣い、ひたすら無事に成人することを願って育ててきた我が子とは。

和田は蝉丸の顔に怪我を負わせて布で覆い、真駒として別邸に連れて行った。牛車から転がり落ちた乳母は事故を証言させるため連れて行ったが、崖を転落した牛車ごと、母子は山中に置き去りになった。
別邸の者たちに蝉丸を真駒であると偽らせ、牛車の事故を証言させ、用済みとなった乳母はその夜打ち殺されたようだ。

いつになく饒舌な堯毅の話を、別当は魅入られたように聞いていた。引き据えられた和田は怒りのあまりか、赤黒くなった顔で堯毅を睨みつけている。その眼光は少しも怯みを見せず、今なお打てる手を模索していることが窺えた。おもむろに口を開く。
「伊之殿が元服するまでに、連之殿とて幾度も(まみ)えております。我が子がわからぬ親がありましょうか」
「ええ、それも念入りになさいましたね。別邸へ移っても真駒殿のお加減は良くならなかった。連之殿、真駒殿とはどのぐらい顔を合わせておられましたか」
「……私が京官ということもあり、一年に一、二度程度でございました。時には数年会えないこともあるというありさまでした」
今日この場に招かれた理由は、群盗の首魁と親しく交わっていたことについて責めがあるのだとばかり思っていた連之は、今起きていることが十分に理解できているとはいえなかったが、なんとか答えた。
 当時、和田は蝉丸に体調不良を訴えさせ、連之と顔を合わせる時間を減らすようにという細工をしていた。たまに別邸に立ち寄っても寝付いているとあれば、連之もあえて我が子を起こして会おうとするまいと、連之の優しい性根を利用されている。
「蝉丸殿の顔に傷をつけておいたことで、連之殿も顔立ちが違うことをさほど気に留めてはおられなかったようですね」
堯毅がそこまで話したところで、土間からふ、ふは、とかわいた笑い声があがった。和田が顔を引きつらせながら笑っていたのだ。
「控えろ」
眉を跳ね上げた鈴木がそう言い、看督長が和田に打った縄をぐいと引いたが、彼は笑うことをやめなかった。気でもおかしくなったかのようにげらげらと笑った後、据わった目で堯毅を睨みつける。
「尹宮さま、そこまで仰るからには証拠があるのでしょうな? いかに尹宮さまとはいえ、誣告もここまでくれば、私とて黙っておりませぬが」
「おや、どうしてくださると?」
今度こそ完全なる冷笑を浮かべた堯毅が平然と切り返した。そのいっそ嫣然とした笑顔に中てられたのか、透き見していた数人の衛士がざわめいたが、さすがにまずい流れだと思った別当が顔をしかめて言った。
「尹宮さまの仰ることですから私とて信じたいところですが、物証なしでは如何ともしがたいところですぞ」
ましてや十八年も前のことだ。死体も、牛車も、何も残ってはいない。推論などは以ての外だ。和田が首魁なのは間違いないと別当もわかっているのだが、あくまでも勘問は公正でなければならない。少しばかり義心あふれるこの親王が勇み足をしたのなら、どう話をまとめたものか。
そう別当が首をひねった時だった。
「それでは証人に来ていただきましょう」
堯毅が檜扇を開き、傍らの智也に何事か囁きかける。わずかに目を見開いた彼は立ち上がると板間を出ていった。わずかな時を置いて智也が伴ってきたのは、木簡数巻を抱えて息を切らせている公鷹と、小柄な身に墨染の裳付衣をまとった女性を連れた弾正弼・伴帯刀だった。
「大志と……尹宮さまが本日お連れになった弾正弼殿、それに尼でございますな」
「はい。公鷹はそちらでお待ちなさい。尼殿はこちらへ。僧籍の身でかような俗事に(かかず)り合わせてすみません」
指示を受けて公鷹は呼吸を整えながら、鈴木のいる廂の端に控える。尼僧は俯いて身を縮こまらせていたが、帯刀に促されて堯毅の傍らへ進み出てその場に座した。いえ、と答えて青ざめた顔をあげる。その途端、和田と連之が愕然と叫んだ。
「文……!」
「そういえば十八年ぶりでしたね、和田殿。こちらは文姫です。今は清心尼(せいしんに)殿と仰います」
腰を抜かさんばかりの和田に慇懃に紹介したところを見ると、堯毅も少なからず腹に据えかねていたようだ。顔色をなくしてはいたものの、文姫改め清心尼も黙ってはいなかった。和田を一瞥すると別当へ向き直る。
「十八年前、確かに私は和田殿に車ごと崖へ落とされました。我が子、真駒はその時に命を落とし、私一人が生きながらえたのです。彼が、私の……佐伯連之の子を死に追いやりました」

 和田は死んでいると思って放置したが、息を吹き返し、我が子の遺体を抱え坂の下の川までさまよい出たところを魚採(うおと)()に助けられていた。真駒を葬り傷と悲しみで寝ついた彼女の衣を売り、薬を買うなどして、魚採り女は何くれとなく面倒を見てくれたが、立ち直れなかった文姫は近くに庵を結んでいた僧を頼り出家したのだという。

そのまま僧の後を継いで庵を守っていた彼女は、過日、堯毅の指示を受けた弾正弼・伴帯刀によって放たれた巡察弾正によって発見された。
「文……今まで一人で……?」
言葉にならない様子で呆然と清心尼を見ていた連之は、堯毅へと視線を転じた。にこりと笑みを返されて我に返ったように立ち上がり、清心尼に駆け寄った。
「文!」
「殿……こんなに、おやつれになって……!!」
清心尼が差し伸べられた手を取って泣き伏す。柔らかな彼女の声を耳にし、連之の目からも大粒の涙がこぼれた。かつての妻を抱き寄せてかきくどく。
「なぜ私の元へ戻らなかったのだ、文」
「……殿に私よりもよい(ひと)との縁談が来ていたことは存じておりました。殿が私たちを探しに来られる様子もなく、真駒と共に見捨てられたのだとばかり……」
無論、連之は我が子の捜索に尾張まで行ったが、和田により事故の場所を偽られて案内されていたため文姫に会うこともなかった。貴族にとって婚家の支援は出世する上で重要なものであり、それをよく知る彼女は、己の家よりも良家からの申し込みがあった連之を責めても詮無きこと、と思い切ったのである。
十数年ぶりに明らかになった数々の物事に、涙を流し身を震わせる二人へ、堯毅は壊れ物を包むような柔らかな声をかけた。
「尼殿。連之殿はあなたを亡くしたと思い込むよう仕向けられていました。真駒殿と偽られた和田の子を育てるため、迎えられた奥方も亡くされています。どうぞ今は、連之殿を支えてはいただけませんか」
「宮さま……」
嗚咽をもらしていた尼僧がややあって頷き、長い時を経て再会を果たした二人は再び寄り添いあった。土間では全ての罪を明かされた和田が不貞腐れている。
二人の証人をもって和田の罪を立証した堯毅は、やっと息が整った様子の公鷹へ目線を移した。
「それで、どうでしたか公鷹」
「はい、故事を見つけました」

正は罪を犯している。
だがそこには事情があった。
二日前、尚季に言われた『大志にはできることがある』という言葉は、まさに公鷹にとっての天啓だった。
正の身の上に憤り嘆くだけなど、童にもできる。己の職と選んだ有識の道であるなら、それで戦うべきなのだ。二日かけて記録を(さら)い、あらゆる判例を紐解いて、目的のものを見出した時の気持ちは――なんとも言い表し難いものだった。
法に照らし公正に裁かれたかつてのすべての判例から、情に流されることなく適正と思われる例を見つけだす。
他者の仕事への熱意のなさを指摘していた己自身、そこまでの仕事はしたことがなかったし、これほどまでに達成感を感じたこともなかった。初めて、意味と意義のある仕事をしたと思い――そしてそこまで情熱を傾けられる己を、初めて公鷹は知った。

「数々の殺人の罪を悔いた犯人が自供したため、罪一等を減じ徒刑(ずけい)とされました。しかし下人であったことから杖刑(じょうけい)に処されています」
先程抱えてきた木簡の束を揃えて差し出す。全ての木簡を広げて目を通し、堯毅は満足げな笑顔を見せた。
「なるほど。よく調べましたね、公鷹。この前例に倣うならこの正という下人も、酌量すべき点として不本意にも身柄を拘束されたこと、暴行されたこと、殺人を強要されたことの三点があります。すると同様に杖罪ということになりますね、別当殿?」
唐突に話を振られた別当は目を白黒させた。急に今まで持ち出されたことがない故事を披露されたので戸惑ったが、すぐに気を取り直す。
「もちろん有職が調べ故事にもあることであれば、これなる下人の自供によりこやつの罪科が証されたわけですから、それでよいでしょう。さすがに殺害人数が多いですから、杖も百回は免れないところでしょうが……」
あえてそれ以上は口にしなかった。
 杖刑は三尺五寸の常行杖という木の棒で、背中ないし尻を一定回数打って罰とするものだ。百回は最も重い刑だが、これをもって流罪を回避できる。毒のために二日前に吐血しているところも見たが、そこへ杖刑では死ぬのではないか。まあ下人のことだから、大した問題ではないが。
そんなことを考えていた別当は、目の前の堯毅が居住まいを正したことに驚き、考えを中断した。
「いかがなさいました、尹宮さま」
「別当殿。弾正台が差し出がましい真似をとお思いかもしれませんが、これは正当な捜査です。私たち弾正台の職掌は非違を取り締まることであり、看過された罪の摘発です」
「それは……しかし」
堯毅自身わかっているはずだが、今、検断権を有しているのは検非違使で、すでに弾正台に権限はない。それをどう言うべきかと言葉を詰まらせた別当だったが。
「もちろん、この件を帝に奏聞するつもりはありません。多忙を極める別当殿がかくも例外的な案件までも責を負うべきとは思いません」
思いがけない言葉に目を白黒させた別当は、返答に窮して唸り声をあげた。
貴族の子息と我が子を入れ換えるなどということを考える者がいるなど、誰が想定しようか。まさに例外的な案件としか言いようがない。
「さようで」
実際、群盗事件については検非違使による捕縛でほぼ問題は解決していた。和田が首魁であるという真実を握っていた者が公鷹を頼ったが故に、それにまつわる情報が弾正台に集まったにすぎない。
「私たちが調査した内容は勘文に起こしてお渡しします。これで京中の群盗騒ぎ、左京大夫・源光長襲撃事件、左兵衛佐・佐伯伊之ならびに右京識少属・木下為末の殺害事件の全てが解決しましょう。私たちがしたのはあくまで、別当殿へのお力添えです」
別当もすぐさま飲みこんだ。弾正台が見過ごせないと判断した物事があったのも事実だが、少なくとも堯毅は弾正台が蟷螂の斧を振るうことよりも目立たぬことを選んだのだ。
一瞬落ちた沈黙。それを破ったのは、和田清重の咆哮だった。
「この白子風情が!」
その場の人々が凍りついた。

いくら閑職にあり皇位からもっとも遠いとはいえ、堯毅は親王に違いない。一度出家したとはいえ今は還俗し、後ろ盾に大納言がついているのだ。陰口であれば珍しくないとしても、正面から白子呼ばわりした者は和田清重が初めてだっただろう。

眉を跳ね上げた智也は別当と視線を合わせてから太刀の柄に手をかけ、口を開いた。
「今何を口にしたのか、わかっているのか?」
怒りが頂点に達したのか、和田清重は口角泡を飛ばして吠え付いた。
「おまえのような厄介者が、のうのうと国庫の金を使って生きていることを恥じ入るがいい! 私が今までどれほど苦労をして生きてきたか考えが及ぶか?!」
唾を飛ばして喚いた途端、清重の目と鼻の先に、土間へ下りた智也が踏み込んだ。鞘に収めたままの太刀で和田の鳩尾に容赦のない突き。苦鳴をもらし反射的に身を屈めた肩口を強かに打ち据える。骨の折れる音が響き渡り、苦鳴をあげて倒れ伏す清重を見下ろしながら、智也は殺気を隠さず唸るような声をあげた。
「堯毅様。抜刀のお許しを」
「その必要はありません。全ての罪状を明らかにした上で、彼に裁きを受けさせるべきです。遠流になるでしょうが、生きて着くことはないでしょう」
堯毅の言葉を聞いて、智也に打たれた痛みで呻き声をあげていた和田が怪訝な顔をした。
「わかりませんか? 群盗に立ち混じって無法を働いた婿、などという醜聞を権大納言殿が許すとでも?」
堯毅の言わんとすることを飲みこんだ和田が顔色をなくす。

 少なくとも権大納言にとっては、和田は婿である佐伯伊之に好ましくない遊興を教え、あまつさえ夜討ちに参加させたという許しがたい相手だ。夜討ちの件は表沙汰にならないよう手を回すだろう――つまり、箝口令と口封じである。

「あなたは長らく佐伯殿のもとで警固の職に預かり、かなりの信を得ていました。その信用を裏切り仇で返したのはあなたです。ついでに言うと私は数ならぬ身であればこそ、施薬院別当として己で仕事をこなし禄を得ています。己の立場もわきまえているつもりですよ」
笑顔でありながら堯毅の目が笑っていないことに、和田は初めて気がついた。
「その施薬院で群盗による怪我人を何人も手当てしました。私があなたの仰る『苦労』を知らぬとしても、あなたが他者に不当な痛みを強いたことが許される理由にはなりません」
半年ほど前、群盗が都に現れてからこちら、押し込みや夜討ちに伴う怪我人たちのほとんどが施薬院で治療を受けている。半年前からずっと、堯毅は激怒していたのだ。

その時、ぐ、という苦鳴があがった。座っていた正が身を屈め、苦し気に喘鳴をもらしている。
「おい、どうした!」
「正!」
看督長の不審げな声と公鷹の悲鳴のような声が重なった。廂から下りた公鷹が駆け寄るよりも早く、正はぐらりと姿勢を崩し、力なく土間に転がった。口の端から血が滴っている。
抱え起こす公鷹とは対照的に、死の穢れを怖れた看督長が縄を手放して飛びのいた。
「堯毅さま!」
振り返ってすがるような声を上げた公鷹に続いて、土間へ下りた智也が正の体を抱え上げて廂に乗せる。陽を浴びないよう几帳を差しかけられながら母屋から出てきた堯毅は、呼吸と脈と探って深々とため息をついた。
「可哀想に、力尽きたのでしょう」
「正、目をあけてよ……!」
もはや蒼白の童の体を揺すり、公鷹が悲痛な声をあげる。
「なんということ」
そうは言ったものの、別当としてはやっぱりな、という感想以外何も出なかった。あんな痩せて小柄な童が、毒を盛られて生き延びられるわけがない。
その一方で、裁きまであの状態の童を生き延びさせ、勘文もしっかり取った堯毅の手腕に少々の感心も覚えた。差し出口は気に入らないが、少なくともこの件で出しゃばるつもりもないらしい。
「尹宮さま、此度はお見事な采配でございました。あまりこのようなことが多いと困りますが、ご助勢ありがたく存じます」
釘を差すのも忘れない別当の油断のなさに微笑んで、堯毅は目を伏せ首肯した。
「お役に立ちましたなら何よりです。この童は私が弔いましょう」
「よろしくお願いいたします」
別当に否やはなかった。この宮は還俗してはいるが現在も僧形であり、よく経を詠むと聞いている。こちらで死体の処理をしなくてよい分、助かるぐらいだ。
悄然とした公鷹を促し、立ち上がった堯毅は憎々しげな視線を突き刺してくる和田を一瞥し、身を翻した。