解放された千央は、さも眠そうに大欠伸の上に伸びをした。掴みかかられて乱れた身なりを整え、公鷹が千央を見上げて袖を引く。
「ともかく弾正台へ行きましょう。少尉殿から連絡がきた時に、屋敷の方に束帯一式届けていただくよう使いを立てておきました」
「でかした。で、俺の腹が減ってるのはどうしたらいい?」
「水菓子も頼んでいます。いい加減、開諸門鼓までにはご自宅に帰ってくれないと困りますよ」
先に立って歩きだす小柄な背中を見下ろし、千央が鼻を鳴らす。
二人は並んで検非違使庁を出ると、まっすぐ西へ歩いて大内裏の陽明門をくぐった。役目をもつ公人とは思えないだらしない服装のため、千央が周辺の人々の耳目を集めまくっているが、本人は意に介していない。

夜が明けたばかりだが、大内裏の内は出仕の時間を迎え、清涼殿への昇殿が許されない諸大夫や地下人たちが忙しく行き交っていた。公卿などの身分の高いものは昼頃に顔を出すぐらいでも文句は言われまいが、中流や下級の貴族は早朝から働かねばならない。
門をくぐったすぐ左手は左兵衛府だ。恐らくは佐の佐伯伊之の訃報に接し、騒がしいことになっているだろう。
「あの末成(うらな)りが左兵衛佐ねえ」
千央が唸る。衣は立派だったが、およそ体格がいいとはお世辞にも言えない男だった。猛者揃いの兵衛府で佐が勤まったとは思えない。実際、太刀を抜きもせず殺されていた。
「気になりますか?」
「気になるな」
千央の答えを歩きながら、公鷹がこくんと首を傾げた。豊楽院の角を曲がると、行く手に弾正台の庁舎が見えてくる。

都の治安はもともと良いとはいえなかったが、この半年ほどで急速に悪化した。夜討ちや強盗が急増し、日中の大路でも暴行事件が起こることがある。取り締まりのために市中を回る放免や京識が襲われるといった事件も勃発していた。
こうなると武士団を抱えるような上層の貴族は、往来で何かあれば武力による問題解決を躊躇わなくなる。その結果、道で貴族の車同士がすれ違って、随身がぶつかるだけで乱闘騒ぎが起きかねない。
何故こんなに急に治安が悪化したのか、原因はどこにあるのか。それを調べるのは、確かに弾正台の職掌のうちだ。

「じゃあ、調べましょうか」
ちょっと驚いた顔で公鷹を見下ろした千央だったが、口にしたのは別のことだった。
堯毅(ぎょうき)さまは今日、屋敷へまっすぐ帰られるのか?」
「千央さんが追捕された旨の使いを立てましたので、今日はお見えになると思いますよ」
「は?」
突然千央が凶悪な顔になって足を止め、その顔を見上げた公鷹は再び首を傾げた。
「おまえ何してくれてんの?」
「黙ってるつもりだったんですか?」
怯む様子もない公鷹の返答に、うっ、と声をあげて千央が罵声を飲み込む。

 常識的に考えて、検非違使とて弾正の者を追捕しておいて報告せずにはおけないだろう。恐らく弾正台の長、(いん)に問い合わせが行っている。現在の尹は、都の民の治療や施薬を目的として創設された施薬院(やくいん)の長と兼任だった。閑職と言って差し支えない弾正台の庁舎に朝から来ることはなく、午前いっぱいは施薬院で民の診療をしていることが多いが、使いは疾っくに主のもとに到着しているだろう。
なんであの時、死んでるか確認しよう、とか思ってしまったのか――などと後悔したところでまさに覆水盆に返らず。
目の前が暗くなった千央が思わず頭を抱えた。
「……だめだ。なんとしても犯人をとっ捕まえて、この恥辱を雪がなければ」
「監督責任があるので、僕も頑張りますね」
弾正台の庁舎の入口を潜りながら、公鷹は朗らかに頷いた。

 屋敷から急遽届けられた衣冠束帯を身につけ、千央は割ってもらった甜瓜(まくわうり)をがつがつと貪っていた。またたく間に四つほど平らげて手を拭っていると、自分の曹司(ぞうし)へ行っていた公鷹が結構な量の紙束を手に戻ってきた。
「検非違使の調べ書きを書き写してきました」
「おまえが使庁に席があるの、便利だな」
早速手にとる千央に、公鷹は説明を始めた。
「まず、死体は確かに佐伯伊之殿でした。二十一歳、現職は左兵衛佐です。昨年の秋に権中納言家の乙姫に見初められ、婿になられました」
乙姫、つまり末の姫だ。確か十五歳になる評判の美人で、権中納言が選りすぐりの公達を集めて何度も宴を催し、よい婿を探していたと聞く。
「それで権中納言は婿のために左近少将の席を用意したというわけか。佐伯ねえ……聞かねえ姓だが、親父は役職があるのか?」
目立つ役職は藤原氏に掌握されていることもあるが、姓に聞き覚えがない。しかし、公鷹は違ったようだった。
「父君は式部(しきぶ)大丞(だいじょう)の佐伯連之(つらゆき)殿です。それでもご子息をもっと早く上位の職に就けなかったところを見ると、清廉潔白な方のようですね」
というのも、式部大丞は文官・武官を問わず任官に関与する権限を持つからだ。我が子が可愛いだけの人物なら、佐伯伊之は既に左近少将になっているだろう。
「ところが息子は遊び歩いて、まともに仕事をしていなかった。そんなとこだろ」
「何故わかるんです?」
公鷹が首を傾げたが、千央にしてみれば自明の理だった。
「右京の六条を朝方うろついてる時点で確定だ。どうせ身分の釣り合わない女相手に遊んでたんだろ」

 実際そのとおりだった。というのも、都とはいえ、それらしい繁栄を見せているのは都の東半分、左京に限られる。西側である右京は南方が湿地であり、整地が必要なため貴族たちから敬遠された。
時の政府から見放された土地は畢竟、治安が低下し好ましくない人々が集まるものである。整備が追い付かない右京は結果としてその街の半分が、いささか物騒だったり怪しかったりする生業をもつ人々や、貧民によって形成された。

 千央が切懸を壊した家の女は西市で菓子を売る店の者だった。当然ながら次期左近少将が自分で菓子を買いに来るはずもない。昨晩は彼女のあばら家で一夜を共にしている。
当の女は朝寝していて、夜明け前に家を出たはずの佐伯伊之が自宅の庭で死んでいたと聞いて腰を抜かした。
「女は論外だが、これ強盗の仕業だと思うか?」
千央の言葉に、公鷹は即答しなかった。別の紙を取り出して眺め、熟考した上で首を振る。
「違うと思います。左兵衛佐殿ほどのお立場なら、随身を連れていなければ不自然です。女子の前で興を削がれるから家を出ているよう申し付けたとしても、普通付近には居りましょう」
「道理だな」
左兵衛佐が連れ歩くような随身なら、盗人ぐらいで遅れは取るまい。ではまとめて何者かに殺されたかといえば、随身らしい死体もまたなかった。
「そういや、どこのか知らん武士が殺されてたとかいう報告を聞いたが」
ああ、と頷いて、公鷹が更に別の紙を取り出した。
「西大宮川に、武士と思しき二人の死体があったそうです。付近の者に身包み剝がされて、身元もわかっていませんが……ご大身の随身という風体ではありませんね」
西大宮川なら佐伯伊之が死んでいた区画の一つ東隣を流れている川だが、二人は髭も当たっておらず、かなり酒の匂いもしていたようだ。
「やっぱ違うか。まあ、これは保留としといて……そうなるとあの末成りが恨みを買ってないかって話になるのか」
「まず、普段随身をお連れになっていたのかをご家族から伺うところからでしょうね。心当たりについてはそれからかと」
それには屋敷を訪問する必要があるが、既に検非違使から、佐伯伊之の父である佐伯連之の屋敷に人が行っているだろう。待っていれば検非違使が聞いたことは公鷹伝手に入手できるが、正確なことを聞けているかは話が別だ。
「聞き込みを続けます。佐伯連之殿については訪問する口実を見つけましょう。検非違使と我々弾正は、視点を異にすべきです」
あれこれと広げた紙を取りまとめながら、公鷹が呟く。
いまや弾正台は有名無実。とはいえ、すべきことは変わらない。

 二人が互いに言うべきことも言い終えて息をつくと、妻戸の向こうから、控えめな舎人の声がかかった。
「大忠殿、調査が必要な案件があると承りましたが」
永峯(ながみね)、入ってください」
公鷹に促されて、額に笹竜胆の紋がある源永峯が入室してきた。
大疏(だいさかん)、つまり弾正台における補佐官としての職にあり、型どおりにきっちりと袍を着こなした彼は、板間に両手をついていざり入ると顔をあげた。厳めしい顔つきから四角四面の性格が窺い知れる。
「迂闊にも少忠殿が検非違使めらに追捕されたと聞き耳を疑いましたが、誤報でございましょうか」
「安心してください、事実です」
「ひとつも安心できねえ。んなことより、
、つまり弾正台における補佐官としての職にあり、型どおりにきっちりと袍を着こなした彼は、板間に両手をついていざり入ると顔をあげた。厳めしい顔つきから四角四面の性格が窺い知れる。
「迂闊にも少忠殿が検非違使めらに追捕されたと聞き耳を疑いましたが、誤報でございましょうか」
「安心してください、事実です」
「ひとつも安心できねえ。んなことより、尹宮(いんのみや)のお戻りの時刻は?」
じっと千央の顔を眺めた永峯が、目を逸らし鼻で笑った。
「未の三刻を予定されていると使いが来ております」
「おい今俺の顔見て笑ったよな?」
「我々が残りますから、皆さんはいつも通り午の刻でお帰りいただいて構いませんよ」
未の三刻ということは、陽が最も高い頃だ。あまり時間はないな、と考える公鷹をよそに、千央が面倒くさい絡み方をしたが、それには一切応じず永峯は公鷹に頭を下げる。
「とんでもない。尹宮様がお戻りになると知っていて、帰るものなどおりませぬ」
既に三十代に入っている彼は、きっちり半分の年齢の上官である公鷹に対し礼を欠かない。一方で千央に対してはというと、言わずもがなである。
首を傾げて少し考えた公鷹は、頷いて了承した。
「では、無理強いはせぬこと。本来今日はお戻りの予定ではありませんでしたから、予定を入れている人もいるでしょう。それは咎めぬように」
「承知いたしました」
千央を完璧に無視して、一礼した永峯は退室していった。反応がなかったので一応黙って見送ったものの、目の据わった千央が唸り声をあげる。
「んだよあいつ、着任以来ずっと俺につっかかってくるじゃねえか」
「千央さんは貢挙(こうきょ)という例外的な扱いで少忠になられましたからね。以前から弾正にいた永峯が不満を持っていたとしても、不思議ではないかと思います」
 本来無位で官職を持っていなかった千央は、堯毅の護衛兼側仕えである帳内の筆頭に就き、堯毅の貢挙で試験を受けて役職を得た。四等官の大疏である永峯が少忠になり、千央が大疏になるならまだわかるが、無位だった千央が永峯の位を飛び越えて判官職に就くのは異例のことだ。公鷹の説明は理路整然としていた。
「お前が上官なのはいいのかって点はまあおいといて、なるほどな。納得」
そう言われれば腑に落ちたらしい。やれやれと伸びをして横になった千央を、立ち上がった公鷹が笑顔で急き立てた。
「さ、堯毅様が戻られる前に、この調べ書きを読み込んでおきましょう」
俺寝てねえんだけど、と言いかけて、多分右から左に流されるだろうなと思った千央は、素直に起きることにした。