菅原智也はこの都で官職にある者、京官たちの人事考査や叙任、礼式などを司る式部省で大輔を務めていると同時に、左衛門府の佐も兼務していた。堯毅の家司という役職は、数年前まで今上天皇の侍読を務めていた縁で、今上天皇に請われて引き受けたものだ。あくまで智也の本職は、式部大輔であり左衛門佐だった。
大内裏の内部の警備を任務とする衛門府の者たちにとって、先日まで行われていた騎射(うまゆみ)は厄介事であると同時に楽しみでもある。
五月七日の朝一番で左衛門府の陣所に出仕するなり、事務を担う(じょう)や雑務の(さかん)、果ては衛士までが目を輝かせて智也に話しかけてきた。
「佐殿、昨日の左近衛(さこのえの)将監(しょうげん)の一矢、ご覧になりましたか?」
「いやいや、右近衛(うこのえの)将曹(しょうそう)こそ見事なものでございましたぞ」
「待て、俺は去年的をかすりもしなかった舎人たちが当ててくるのが楽しみで……」
左衛門の陣所はいわゆる禁裏、内裏の東側にある建春門にあるのだが、部下たちが揃いも揃って昨日まで行われていた騎射の話題で沸き立っている。
近衛府も衛門府も、ついでに言えば兵衛府も、腕に覚えがある者が多い。騎射は武を生業とする者にとっては血沸き肉躍る行事の一つだ。観覧していた者も多いようだが、それ以上に智也にとって大変なのは警備の手筈を整えることだった。

 都の治安が低下しているからといって、宮中行事がある大内裏の警備がおろそかで許されるわけがない。従って綿密な警備計画を練り、指揮を執り、実行するのは主に佐である智也の仕事なのだ。
そしてもう一つ頭が痛いのは、衛門府の役人が検非違使を兼任しているという点だった。大内裏の警備に重点を置かざるを得ない一方で、都全体の治安維持も担わねばならない。必然、宮中行事がある日やその前後は、都の警備が手薄になってしまう。
現状に物申したくても、実質的に検非違使を取り仕切っているのは右衛門権佐(ごんのすけ)であり、智也には裁量権がない。運用や捜査方針に口をはさむこともできないというわけだ。
 ため息をついて、まず溜まっていた決済書類を片づけることにした。警備計画に日々の当番書、大尉や少尉たちの報告書などの確認と、すべきことは山ほどある。早く終わらせて、施薬院で民の診察をしている堯毅の傍へ行かなければならない。帳内として千央が随行しているから不慮の事故は防げると思うが、やはり不安は残る。

 書類と格闘していた智也に来客があったのは、そろそろ昼になろうかという頃だった。警備計画を見直し、必要な衛士の当番を割り振ってひと息ついたところだ。報告書を手にすると衛士が外から声をかけてきた。
「佐殿、左兵衛(かみ)殿がお見えです」
顔をあげ、智也は報告書を文机に置いて立ち上がった。
「ご案内してくれ」
「すまんな、待てなかった」
言葉尻に被せるように、妻戸を開いて入室してきたのは源雅忠(まさただ)だった。左兵衛府の督であり、今まさに公鷹が調べを進めている、殺害された左兵衛佐・佐伯伊之の上司だ。同じ警固を担う役職にあるが、あまり親しく話をしたことはない。

というのも、一つは兵衛府は衛門府よりもより今上帝に近い、大内裏と内裏の間の警備を司っているからだ。警固する場所が違うため接点が少ない。
そしてもう一つは、智也が出世街道から少しばかり外れているからだった。遡れば皇族の出身である源家は、その多くが都で重要な役職を得ている。あくまで学者の一族である菅原氏の智也とは、近い役職にあるとはいえそもそも出自が違うのだ。だから積極的に話をしようという気になったことがなかった。
「忙しいところ悪いが、時間をくれ」
「構いません。どうぞ、お座りください」
「おう」
上座を勧めると、彼はどかどかと智也の前を通り、畳の上にどっかと腰を下ろした。智也よりも二歳若く頭半分ほど小柄ながら、黒い袍をまとっていても兵衛の長らしく分厚い胸板が見てとれる。
「騎射での警固はご苦労だったな。大きな問題なく終わったのはさすがだ。左衛門督殿も満足されていたようだぞ」
「身に余るお言葉です」
そんな用事でわざわざ衛門府の陣所まで来たわけではあるまい。時間の無駄だ、言葉通りの嬉しそうな態度をする気にもならない。
隠すことなく顔に出した智也を見やり、ため息をひとつついた雅忠は眉根を寄せた。
「そうだな、無駄話はやめよう。で、うちの佐が殺害された事件はどうなってる?」
これにも智也としては苦笑せざるを得ない。
「私は検非違使ではなく、ただの左衛門佐ですよ」
「だが弾正尹宮さまの家司であり、弾正には検非違使に籍をおく者もいるのだろう」
「それはそうですが。私の知る限り、目立った進展はないように思います」
雅忠の表情はひときわ険しくなった。
「知っていると思うが、先に襲われた左京大夫は俺の従兄だ」
それも公鷹からの報告で聞いていた。正確には、左京大夫・源光長が夜討ちに遭い負傷し、随身二人を失っている、ということだけ。
知っていると思うが? 正直なところ、都のそこらじゅうにいる源姓の誰が誰とつながっているかという点は把握するのが難しい。だが面倒なところでつながりがあったようだ。
「そうでしたか。お怪我をされたそうで、お見舞い申し上げます」
「見舞いを言ってくれる気があるんなら、犯人を捕らえて獄舎へ放り込んでくれ。検非違使はあてにならん。俺の手で捕らえてやりたくても、兵衛は介入できんのだからな」
「お恥ずかしい限りです」
なにしろ検非違使は衛門府の衛士が兼任している。犯人を検挙できないのは検非違使の、ひいては衛門府の能力が疑われるわけだ。人手が足りない、などという都合を貴族も都人たちも斟酌してはくれまい。
「検非違使だろうが京識だろうが弾正台だろうが、俺は捕らえてくれればいいんだ」
「ご存知のことと思いますが、現在弾正台は……」
「知っている。だが、まがりなりにも弾正は『ある』のだろう。傍流とはいえ源姓をもつ者を襲って、ただで済むと思わせるわけにはいかん。おまえに言うのはなんだが、表だって介入できない以上、市中には俺の郎党を巡回させている。賊と思わしき者を見つけ次第斬れとな」
厄介なことになった、と智也は思うった。

 検非違使が無能だとか使えないとかいう評価は、正直、検非違使とは何の関係もない智也にとってどうでもいい。しかし国の都合で弾正台をお飾りの職位にしておいて、弾正台、ひいては堯毅がまっとうに仕事をしていないかの如く言われるのは不愉快だ。
左兵衛督の郎党が巡回しているとあれば、盗賊たちも姿を隠してしまうだろう。治安の向上にはひと役買ってくれるだろうが、調査にはあまりいいとは言えない。
ついでに言えば、佐伯伊之の話が最初に出たっきりであるところを考えると、彼にとって左兵衛佐の件は単なる面子の問題らしい。

念を押すように智也の顔をじっと眺めると、雅忠はすっくと立ちあがった。
「邪魔をしたな。ともかく、万事よろしく頼む」
「承知仕りました」
智也の返答を背に、振り返りもせず曹司を出ていく。いきなり妻戸が開いて左兵衛督が出てきたので、曹司の外にいた衛士たちが目を丸くしているのが見えた。

 左兵衛督・源雅忠が陣所を出ていったのを確認してから、智也は他の書類の下敷きになっていた紙束を手にとった。この半年ほどの間に夜討ちや強盗の被害に遭った貴族家や受領、その際に捜査で嫌疑がかけられた武士団や盗賊たちに関する情報をまとめた一覧だ。別に雅忠には隠していたわけではない、たまたま他の書類を上に置いていただけである。
二日前に公鷹から具申があり、その後、公鷹自身で検非違使庁で情報を集めてまとめたという。出仕を始めたばかりの刑部省の主典だったが、堯毅が気に入っただけのことはあり、思った以上に潰しが効く人材のようだ。
智也にも検非違使の業務に介入することはできない。しかし、もしこの事件を解決に導く主導ができれば、それは弾正尹宮である堯毅の評価にもつながるだろう。
微笑んで、智也は書付を懐にしまった。

さて、報告書に目を通して、次は式部省へ行かなければ。長である式部卿に次ぐ位、式部大輔にある彼の仕事は意外に多い。なにぶん、唯一の上役である式部卿は慣例に則って着任した親王であり、実質的には智也こそが式部省の業務を司っているからだ。
都の貴族にありがちな話だが、まずもって上位の貴族ほど働かず、きちんと仕事をする下位の者に仕事を押し付ける。従って、兼任する業務が多ければ多いほど、抱えている人物が有能であるという証左になっていた。
式部省では人事考査の続きや、次の除目における任官の候補を揃えるなどの業務が待っている。ゆっくりはしていられない。
智也は手早く報告書をめくり、目を通し始めた。