激情する弥宵を見て、どれだけの女を泣かすつもりなんだと糢嘉は苦笑いをもらす。
 その苦笑いも華やかな恋する自然な笑顔へと変わっていく。
 弥宵はその笑顔に見惚れては、何度も糢嘉に恋をする。
 この選択でどれだけの女を敵にまわすことになるのかと、糢嘉は前途多難に思いつつも弥宵をけっして手放そうとはしない。
 人の迷惑を考えずに弥宵から白昼堂々と愛の告白をされて、重苦しいとストレスに感じるどころか誰にも渡したくはないと思えてきてしまっている。
 弥宵が糢嘉を追いかけたように、糢嘉も弥宵を追いかけたい。
 糢嘉の眼鏡が外れて、瞳に映るすべてのものがぼやけたおかげで、弥宵と糢嘉の恋愛劇を観覧している人たちのことが糢嘉はさほど気にならなくなった。
 弥宵の表情までもかすんでしまうのは非常に残念ではあるのだが──。
 まだ完全に乾ききっていない涙を手で拭いながら糢嘉が笑う。糢嘉も弥宵に伝えたいことがあるのだが、泣いた顔では弥宵は喜んでくれないであろう。
「永倉、視力いくつ?」
「両目とも、1.5」
「そのわりには人を見る目がないな」
「モカを好きになった僕の目は、人を見る目があると思う」
 もう一度、誰かと本音で向き合う覚悟なんて糢嘉はもう二度と持てないと思っていた。
「俺のどこが良いんだよ。俺なんかのどこが……」
 弥宵からここまで愛される理由が糢嘉にはどうしてもわからない。
 弥宵からしてみたら、糢嘉からのこの問いかけがどうしても理解できない。
 だけど、これによって糢嘉は思い出してくれるだろうか。思い出してほしい。
「あの時みたいに、こんな状況でも僕を見捨てないところがだよ」
 忘却されたポケットの中身の記憶を一刻も早く取り戻して、呼び起こしたい。
「永倉一人で納得するなよ。俺にもちゃんと説明しろよ」
「もちろん。そのつもりだよ」
 この後、弥宵が知っていることを糢嘉は洗いざらい聞きだすつもりでいるのだが、ここでその話はできない。
 コーヒーを飲んだあの心安らぐ喫茶店でゆっくりと話したい。
 よくよく考えてみれば、平日の真っ昼間に街中を学生服で出歩いていればサボリが見つかる。
 見つかったとしても、誰にも邪魔させない。
 それよりも、なによりも、今、一番したいことは──。
「永倉のせいで俺の眼鏡がどこかに落ちた。俺、眼鏡がないとほとんど見えないんだ。永倉の顔もぼやけて見えない」
 眼鏡をかけていない糢嘉はどこかしら温厚で素直になる傾向があるらしい。
 糢嘉が「眼鏡、拾って」とお願いするまでもなく、弥宵が糢嘉の眼鏡を拾う。
 糢嘉の大切な眼鏡だ。
 弥宵は眼鏡を丹念に調べる。
 残念なことに少し傷がついてしまったが、ネジのゆるみもなく、レンズも割れていないことに弥宵は安堵する。
 だけどどうしても実行させたいことがある弥宵は糢嘉に眼鏡を手渡そうとはしない。
「モカにキスしたいから、まだ眼鏡は返せない。キスするとき眼鏡って邪魔になる。さっきモカとキスしたときにそう思った」
「あんなのはキスじゃない。永倉が無理矢理したんだろが」
「でも、今からするキスは同意だよね? 無理矢理じゃないよね?」
「いちいち聞くなよ。わかっているくせに」
「わかっていても聞きたいよ」
 弥宵の唇が糢嘉の唇に迫り来る。
 ところが──。
「待て」
 ここにきて糢嘉からの待て宣言。
 これでは生殺しも同然だ。
「待てない」
 弥宵がこう言うのは当然だ。
「そうじゃなくて……。キスは待たなくていいんだけど……」
 糢嘉の掌が平手打ちをした弥宵の頬を癒やすかのように優しく触れる。
「ごめん……ひっぱたいたりして……」
 痛みを与えた人物が痛みを和らげてくれるのだから、こんなに幸福なことはないと弥宵は糢嘉を称賛する。
「モカは優しいね」

 そう思うなら、
 そう思うから、

 ご褒美を、くれよ。
 ご褒美を、あげる。

 糢嘉が弥宵の両腕を借りて自分自身の体を隠し、周囲から向けられているであろう好奇な視線を隔てる。
 糢嘉のかすんだ視界には弥宵の姿だけがぼんやりと映る。
「永倉、今、人が見てる?」
「見させとけばいい」
 ひどいドラマだ。ひどい映画だ。
 再び重なり合った二人の唇に観客たちはどよめくが、それを無視して営業すれば最高傑作のドラマと映画にあっという間に早変わりする。
 そういう一風変わった恋愛に免疫ない人でさえ惹きつけさせる。

 羨ましいだろう?
 羨ましいでしょう?

 キスだけじゃなく、

 抱きつかなくちゃ。
 抱きしめなくちゃ。

 弥宵が糢嘉の頭を両手でがっしりと掴み固定する。そしてこれでもかというほどに唇と唇を隙間なく埋めてゆき、心行くまでキスを堪能する。
 糢嘉は背伸びをして弥宵の後頭部になんとか手を伸ばすも、ふらつく足元はバランスが悪くて頼りない。
 そんな糢嘉を弥宵が上手に補助してくれる。
 糢嘉の身長に合わせて弥宵が頭を下げる。弥宵は自分の首が痛くなろうがお構いなしだ。
 糢嘉の腰回りを両腕で囲んで安定させれば、それは糢嘉にとってはつらくない体勢となる。
 糢嘉は弥宵と楽々にキスができるだけでなく、弥宵の髪に指を通せる。
 それは想像以上のサラサラ感でなめらかだ。これでは世の中に存在する絹糸が嫉妬するに違いないであろう。
 弥宵の髪質の良さを伝えるよりも、糢嘉はまだ弥宵からの質問に答えてはいなかった。
「そんなふうに堂々としていられる永倉を、俺は……」
 聞き取れないほどの小さな声で耳打ちされた糢嘉からの秘めた想いに歓喜した弥宵の自制心は瞬く間に崩壊していく。
 弥宵はさらに抑制不可能になり、糢嘉の骨が折れそうなほどに力いっぱい抱きしめると、口づけはよりいっそう深まっていった。