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はるかは朝から課題曲である『ハンガリー田園幻想曲』の風景を頭の中に描いていた。新緑溢れる、静かな湖畔の田園。その中で演奏する自分のイメージを想像する。
そして音楽室の窓から屋上を見上げる。毎日、フルートの練習をしていた場所だ。しかし今、そこに千賀の姿はない。
終わったらお礼を言いに行こう。そのためにも、ちゃんと吹かなくちゃ。大丈夫、自信を持って。
はるかは自分に言い聞かせるが、以前とは違って気持ちがすこぶる穏やかなことに気づく。失敗し部員たちに冷やかされたとしても、曲をきちんと演奏して千賀の教えに報いることがなにより大切なことに思えた。
他人の評価なんてどうだっていい。ただ、千賀先輩に褒めてもらえたら、それだけで嬉しい。
「選考会」が始まった。今日は中山先生が事情によりお休みとのことであり、麗のまなざしがいっそう厳しくなっている。麗は涼太と並んでボードに視線を沿わせ、それから皆を見渡し儀式的な挨拶をした。
「それでは花宮はるかさんからお願いします」
例のごとく、はるかが一番に名前を呼ばれた。音楽室を見渡すと、あのお家芸が飛び出る瞬間を待ちわびる雰囲気が漂っていた。けれどはるかは臆することなく、目を閉じ大きく息を吸い込み、千賀の顔を思い浮かべる。
大丈夫、今日はちゃんと演奏できる。だって千賀先輩に向けて奏でるのだから。
スピーカーからピアノのメロディが流れてくる。不思議なことにその音色に郷愁を感じる余裕すらあった。はるかはフルートを構え、そっと唇を添え、息を吹き込んだ。
やわらかな音色がはるかのフルートから流れ出す。最初は粛々と、それからしだいに耿然と。
音色が広がってゆくと、すぐさま音楽室の雰囲気が一変した。
この音楽室がまるで壁を失ったかのような解放的な空気に支配された。皆は思わず辺りを見回す。まるで田園に佇んでいるような錯覚に陥ったのだ。
皆の表情が、さっと緊張の色を浮かべる。
物憂げでしっとりとした音色は朝露の匂いを含んでいた。草原の濡れた新芽たちは天を仰ぎ、遠くには澄んだ色の湖面が森の木々を見事なまでにくっきりと逆立てて映す。そよそよと囁く優しい風の音色、その温度。皆が耳と目と肌で曲のイメージを捉えていた。
それはハンガリーの田園の風景に違いなかった。この部員の目の前には、瑞々しい田園の風景が広がっている。曲の中に閉じ込められていた、いや、奏者によって展かれるのを待っていた、その幻想的な風景が。
しだいに音色が高まりを見せると、森は陽の光に照らされ、緑は鮮やかさを増していく。
いつの間にか森の木々の隙間からは木漏れ日が差していた。そして四方から差し込む光は陽だまりを作っている。
それはまさにソリストのための舞台だった。そこには「花宮はるか」という、皆が知る女子がひとり佇んでいる。だた幸せそうな顔をして、銀色のフルートを奏でていた。
その場所だけは別世界だった。まるで音楽の神様、ミューズが舞い降りたのだと思わされるくらい、幸福の音色に満ちていた。皆がその風景に魅入られ、息をのみ演奏を凝視する。時は赴くままに流れ、けっして音楽を邪魔しなかった。
最後の音が解き放たれフィナーレを迎えると、はるかはフルートをそっと唇から離し、小さな吐息をこぼした。
その曲が奏でられている間、制限時間を超えたというのに、誰も演奏を止めることがなかった。止められるはずがなかった。それは選考会における異例の事態だった。
「あ……しまった」
曲の最後まで行き着いたことに気づいたはるかは、おそるおそる音楽室を見渡して反応をうかがう。
演奏を聴いて感じた不思議な感覚のせいで、部員たちは拍手を送ることさえ忘れていた。すべての視線は無言のままはるかに向けられている。
音楽室の中、はるかだけがまるで事態を飲み込んでいなかった。だから拍手がないのは、自分の演奏の出来栄えがさして良くなかったからだと思った。あわててすぐさま謝る。
「あたし、下手くそなのに最後まで演奏させてもらっちゃって、すみませんでした!」
はるかが勘違いの謝罪を言うと、最初に口を開いたのは涼太だった。切れ長の目は驚いたように見開かれ、声はかすかに震えていた。
「花宮……君はどうして、その音色を……?」
「えっ、どうしてって……?」
すっとんきょうな声で返事をすると、涼太ははっとして口を閉ざした。意図の不可解な質問をしてしまったことに気づいたらしく、すぐさま「いや、なんでもない」といって質問を取り消した。
はるかが檀上から進行役の麗に目を向けると、視線に気づいた麗は事務的な声で呼びかけた。
「花宮さん、もう結構です。席に戻ってください」
はるかは気まずさを感じつつ、そそくさと元の席に戻る。菜摘の隣に戻って腰を下ろし、ほっとため息をついてから菜摘に小声で話しかける。
「はぁ……やっと吹けた。ドキドキしたなー、もうっ」
そして菜摘の顔を見ると、菜摘はやけに目を丸くしてはるかを凝視していた。
「はるか……どうしちゃったの?」
まるで重い病気を患った友人を気遣うような言い方に、はるかは疑問符を浮かべた。
「え……? 思いっきり元気だけど」
「そうじゃなくて、ちゃんと吹けるじゃん。しかもめっちゃ上手かったし。あたし、田園の風景が見えたよ~」
「えっ、そ、そうかなぁ? あんまり自信なかったんだけどなぁ……」
そう言って照れ笑いをする。すると麗は次に菜摘の名前を呼んだ。菜摘はサクソフォンを抱えて勢いよく檀上に向かう。
「あたしも頑張るから、よく聴いていてね!」
そのときの菜摘の演奏に、はるかも驚くことになる。
菜摘のサクソフォンの音色はいつにもまして躍動感があり、トパーズ色の音符が楽しげに飛び回っていた。
はるかの目の前には踊るように舞う音符が流れてきた。はるかはすかさず指先を立ててそっと手を伸ばす。触れると音符は勢いよく弾けた。
「ああ、嬉しい――!」
「はるかが上手く吹けてよかった――」
「今度はふたりで音楽、奏でたいよ――!」
まるで待ちわびていたかのような、期待に満ちた音色。その本心にはるかの心臓が跳ねあがった。
そうだったんだ、菜摘はあたしが恥をかいたことに責任を感じていたんだ。だけどもう大丈夫だよ、菜摘。あたし、千賀先輩に勇気と自信をもらったから、これからちゃんと演奏できるよ。
誰かが成功すると、我も我もと高まり、互いが刺激となり良い関係が築けることがある。今日のはるかは菜摘に対してポジティブな効果を生みだしていた。
けれど皆がそうだとは限らないことを、そのときのはるかは知るよしもなかった。
はるかは朝から課題曲である『ハンガリー田園幻想曲』の風景を頭の中に描いていた。新緑溢れる、静かな湖畔の田園。その中で演奏する自分のイメージを想像する。
そして音楽室の窓から屋上を見上げる。毎日、フルートの練習をしていた場所だ。しかし今、そこに千賀の姿はない。
終わったらお礼を言いに行こう。そのためにも、ちゃんと吹かなくちゃ。大丈夫、自信を持って。
はるかは自分に言い聞かせるが、以前とは違って気持ちがすこぶる穏やかなことに気づく。失敗し部員たちに冷やかされたとしても、曲をきちんと演奏して千賀の教えに報いることがなにより大切なことに思えた。
他人の評価なんてどうだっていい。ただ、千賀先輩に褒めてもらえたら、それだけで嬉しい。
「選考会」が始まった。今日は中山先生が事情によりお休みとのことであり、麗のまなざしがいっそう厳しくなっている。麗は涼太と並んでボードに視線を沿わせ、それから皆を見渡し儀式的な挨拶をした。
「それでは花宮はるかさんからお願いします」
例のごとく、はるかが一番に名前を呼ばれた。音楽室を見渡すと、あのお家芸が飛び出る瞬間を待ちわびる雰囲気が漂っていた。けれどはるかは臆することなく、目を閉じ大きく息を吸い込み、千賀の顔を思い浮かべる。
大丈夫、今日はちゃんと演奏できる。だって千賀先輩に向けて奏でるのだから。
スピーカーからピアノのメロディが流れてくる。不思議なことにその音色に郷愁を感じる余裕すらあった。はるかはフルートを構え、そっと唇を添え、息を吹き込んだ。
やわらかな音色がはるかのフルートから流れ出す。最初は粛々と、それからしだいに耿然と。
音色が広がってゆくと、すぐさま音楽室の雰囲気が一変した。
この音楽室がまるで壁を失ったかのような解放的な空気に支配された。皆は思わず辺りを見回す。まるで田園に佇んでいるような錯覚に陥ったのだ。
皆の表情が、さっと緊張の色を浮かべる。
物憂げでしっとりとした音色は朝露の匂いを含んでいた。草原の濡れた新芽たちは天を仰ぎ、遠くには澄んだ色の湖面が森の木々を見事なまでにくっきりと逆立てて映す。そよそよと囁く優しい風の音色、その温度。皆が耳と目と肌で曲のイメージを捉えていた。
それはハンガリーの田園の風景に違いなかった。この部員の目の前には、瑞々しい田園の風景が広がっている。曲の中に閉じ込められていた、いや、奏者によって展かれるのを待っていた、その幻想的な風景が。
しだいに音色が高まりを見せると、森は陽の光に照らされ、緑は鮮やかさを増していく。
いつの間にか森の木々の隙間からは木漏れ日が差していた。そして四方から差し込む光は陽だまりを作っている。
それはまさにソリストのための舞台だった。そこには「花宮はるか」という、皆が知る女子がひとり佇んでいる。だた幸せそうな顔をして、銀色のフルートを奏でていた。
その場所だけは別世界だった。まるで音楽の神様、ミューズが舞い降りたのだと思わされるくらい、幸福の音色に満ちていた。皆がその風景に魅入られ、息をのみ演奏を凝視する。時は赴くままに流れ、けっして音楽を邪魔しなかった。
最後の音が解き放たれフィナーレを迎えると、はるかはフルートをそっと唇から離し、小さな吐息をこぼした。
その曲が奏でられている間、制限時間を超えたというのに、誰も演奏を止めることがなかった。止められるはずがなかった。それは選考会における異例の事態だった。
「あ……しまった」
曲の最後まで行き着いたことに気づいたはるかは、おそるおそる音楽室を見渡して反応をうかがう。
演奏を聴いて感じた不思議な感覚のせいで、部員たちは拍手を送ることさえ忘れていた。すべての視線は無言のままはるかに向けられている。
音楽室の中、はるかだけがまるで事態を飲み込んでいなかった。だから拍手がないのは、自分の演奏の出来栄えがさして良くなかったからだと思った。あわててすぐさま謝る。
「あたし、下手くそなのに最後まで演奏させてもらっちゃって、すみませんでした!」
はるかが勘違いの謝罪を言うと、最初に口を開いたのは涼太だった。切れ長の目は驚いたように見開かれ、声はかすかに震えていた。
「花宮……君はどうして、その音色を……?」
「えっ、どうしてって……?」
すっとんきょうな声で返事をすると、涼太ははっとして口を閉ざした。意図の不可解な質問をしてしまったことに気づいたらしく、すぐさま「いや、なんでもない」といって質問を取り消した。
はるかが檀上から進行役の麗に目を向けると、視線に気づいた麗は事務的な声で呼びかけた。
「花宮さん、もう結構です。席に戻ってください」
はるかは気まずさを感じつつ、そそくさと元の席に戻る。菜摘の隣に戻って腰を下ろし、ほっとため息をついてから菜摘に小声で話しかける。
「はぁ……やっと吹けた。ドキドキしたなー、もうっ」
そして菜摘の顔を見ると、菜摘はやけに目を丸くしてはるかを凝視していた。
「はるか……どうしちゃったの?」
まるで重い病気を患った友人を気遣うような言い方に、はるかは疑問符を浮かべた。
「え……? 思いっきり元気だけど」
「そうじゃなくて、ちゃんと吹けるじゃん。しかもめっちゃ上手かったし。あたし、田園の風景が見えたよ~」
「えっ、そ、そうかなぁ? あんまり自信なかったんだけどなぁ……」
そう言って照れ笑いをする。すると麗は次に菜摘の名前を呼んだ。菜摘はサクソフォンを抱えて勢いよく檀上に向かう。
「あたしも頑張るから、よく聴いていてね!」
そのときの菜摘の演奏に、はるかも驚くことになる。
菜摘のサクソフォンの音色はいつにもまして躍動感があり、トパーズ色の音符が楽しげに飛び回っていた。
はるかの目の前には踊るように舞う音符が流れてきた。はるかはすかさず指先を立ててそっと手を伸ばす。触れると音符は勢いよく弾けた。
「ああ、嬉しい――!」
「はるかが上手く吹けてよかった――」
「今度はふたりで音楽、奏でたいよ――!」
まるで待ちわびていたかのような、期待に満ちた音色。その本心にはるかの心臓が跳ねあがった。
そうだったんだ、菜摘はあたしが恥をかいたことに責任を感じていたんだ。だけどもう大丈夫だよ、菜摘。あたし、千賀先輩に勇気と自信をもらったから、これからちゃんと演奏できるよ。
誰かが成功すると、我も我もと高まり、互いが刺激となり良い関係が築けることがある。今日のはるかは菜摘に対してポジティブな効果を生みだしていた。
けれど皆がそうだとは限らないことを、そのときのはるかは知るよしもなかった。