★
翌週の月曜日、はるかは部活を早々においとました。部員たちは追い込みの練習で遅くまで残っていた。はるか自身、自分に期待していなかったけれど、音楽への切望はその胸の中で膨らんでいた。
千賀先輩、もう来ているかな?
フルートを片手に軽い足取りで屋上に向かう。
課題曲のハンガリー田園幻想曲、上手く吹けるようにならなくちゃ。千賀先輩はこの曲、得意なのかな……?
千賀の顔を思い浮かべながら屋上に到着する。鋼鉄製の扉を開けて辺りを見回すと、園芸部の女子が三名、花壇の手入れをしていた。けれど千賀の姿は見当たらない。
なーんだ、まだ来てないのかぁ。
残念な気持ちを味わったところではるかは冷静になり、ふと考えた。受験を控えた三年生は授業が早く終わる日がしばしばある。だから、部活に顔を出したはるかよりも遅くまで学校に残っていることは少ない。
はるかは少しだけ不安になる。勉強で忙しいはずなのに、あたしのことを相手にする時間なんてあるのかな。金曜日、ああいってくれたのは本気じゃなかったのかな。
はるかはフルートを片手に暇を持て余し、屋上をうろうろする。誰かが見ている場では、緊張して真っ当に吹けるはずがない。よしんば吹いたとして、ピーヒョロロで嘲笑されるのがおちだと想像し、ひとり赤面する。
園芸部の生徒が屋上を引き揚げるまで、はるかは遠くの景色をぼんやりと眺めていた。校庭ではサッカー部員たちの、ボールを蹴る音や掛け声が響いている。
城西高等学校は都会とも田舎ともいえない衛星都市にあり、自然と街並みを併せ持っている。北側を見渡すと山々の稜線が一望できる。野鳥が奏でるさまざまな音色も自然の風景に色を添えている。
南側には計画的に開発された幾何学的な街並みが一望できる。ところどころに公園や広場など、緑を有する空間が配置されている。それが無機質な人工建築物にアクセントを与えて調和し、近代都市のイメージをもたらしている。
世界は音色で溢れている。自然の中にもたくさんの音楽があり、生きとし生けるものの魂を宿している。そして日常生活の中にも、雑然としていながらリズミカルな音色がある。
気がつくと屋上に佇んでいるのははるかひとりだけとなっていた。だから、はるかは課題曲の練習を始めようと思い、フルートを構え、それからすーっと大きく息を吸い込んだ。
そして目前の世界に向け、自身の音色を解き放つ。
はるかの放った音符は宙に舞い風にたゆたう。ほんのりと暖かいオレンジの陽差しを頬に受けながら生み出す音色を見送る。音符たちとの、戯れの時間。
時折、鳶が空から高音域の鳴き声をあげ、はるかへハーモニーを贈ってくれた。
秋風もそっと囁いて、はるかの音色を歓迎しているかのようだ。
意識が自然の中に溶け込んでいくのを感じていると、時間が経つのを忘れてしまう。ああ、音楽っていいな、そう思って悦に入り演奏を続けていると、背後からフルートの音色が響いてきた。
はるかの演奏と同じ、ハンガリー田園幻想曲。はるかのリズムに並走する別パートのパッセージ。
驚き振り向くと、花壇に腰をかけた千賀の姿があった。ゆらゆらと輪郭を揺らした太陽が屋上を照らしていたから、千賀の表情は先日会ったときよりも明るく健康的に見えた。
「あっ、千賀先輩、こんにちはー!」
あわてて深々と頭を下げるはるか。そんなはるかの姿を見て、千賀は微笑みを浮かべて花壇の縁から立ち上がる。
「こんにちは、この前とは逆の立場だね。どうだい、驚いたかな」
そう言って悪戯っぽく笑う。
「君には驚かされたから仕返しのつもりだったんだ」
「ごっ、ごめんなさい……やっぱり迷惑でした?」
「いや、本心はウェルカムだよ。じゃあさっそく――」
千賀はゆったりと足を運び、はるかの隣、手を伸ばせば届く距離に立って並ぶ。
サッカー部員たちも日没に合わせて部活を切り上げたので、辺りは静寂に包まれていた。だからこの屋上はふたりだけのステージになっていた。互いが奏者でもあり、聴衆でもある。
千賀ははるかに向き合いフルートを構えた。はるかもまた千賀に向き合い、フルートに桃色の唇を添える。
「行くよ、ついておいで」
「はいっ、ご指導よろしくお願いしますっ!」
はるかは高まる胸の鼓動に声が震える。
ふたりは同時に息を吸い込んだ。はるかは胸に抱いた音楽への熱い想いを、呼吸に乗せてフルートに送り出す。するとふたりの空間は音符たちの舞台に早変わり。命を宿した音符のイルミネーションがメロディに乗って踊りだす。
ああ、なんて美しい音色!
はるかはあらためて千賀の奏でるメロディの透明感に心を奪われ、音符たちを目で追いながらフルートを吹き鳴らす。音楽の世界に戻ってこられたんだという実感が湧いてくる。つい、演奏しながら笑みがこぼれる。
ただいま、音符さんたち!
それからはるかは毎日、学校の授業が終わると屋上へと足を運び、千賀のメロディを真似て練習していた。千賀は音楽について諄い説明をすることなく、教えることはすべて、音を通じてはるかに伝えようとしていた。だからふたりの間に会話はほとんどなく、かわりに澄んだ音色が存在した。ただ、互いの音色に耳を傾けメロディを重ねていた。
けれど千賀が屋上を訪れるのには独特のリズムがあった。夕陽が地平線に差しかかる頃に屋上を訪れ、沈みゆく夕陽とともにフルートを奏で始める。
屋上に来るまで、どこかで勉強しているのかなぁ?
はるかは千賀に深く尋ねることはなかったし、余計な詮索はしたくないと思っていた。教えてくれる時間を貰えるだけでも有難かった。
そして金曜日、三度目の「選考会」の日が訪れた。
翌週の月曜日、はるかは部活を早々においとました。部員たちは追い込みの練習で遅くまで残っていた。はるか自身、自分に期待していなかったけれど、音楽への切望はその胸の中で膨らんでいた。
千賀先輩、もう来ているかな?
フルートを片手に軽い足取りで屋上に向かう。
課題曲のハンガリー田園幻想曲、上手く吹けるようにならなくちゃ。千賀先輩はこの曲、得意なのかな……?
千賀の顔を思い浮かべながら屋上に到着する。鋼鉄製の扉を開けて辺りを見回すと、園芸部の女子が三名、花壇の手入れをしていた。けれど千賀の姿は見当たらない。
なーんだ、まだ来てないのかぁ。
残念な気持ちを味わったところではるかは冷静になり、ふと考えた。受験を控えた三年生は授業が早く終わる日がしばしばある。だから、部活に顔を出したはるかよりも遅くまで学校に残っていることは少ない。
はるかは少しだけ不安になる。勉強で忙しいはずなのに、あたしのことを相手にする時間なんてあるのかな。金曜日、ああいってくれたのは本気じゃなかったのかな。
はるかはフルートを片手に暇を持て余し、屋上をうろうろする。誰かが見ている場では、緊張して真っ当に吹けるはずがない。よしんば吹いたとして、ピーヒョロロで嘲笑されるのがおちだと想像し、ひとり赤面する。
園芸部の生徒が屋上を引き揚げるまで、はるかは遠くの景色をぼんやりと眺めていた。校庭ではサッカー部員たちの、ボールを蹴る音や掛け声が響いている。
城西高等学校は都会とも田舎ともいえない衛星都市にあり、自然と街並みを併せ持っている。北側を見渡すと山々の稜線が一望できる。野鳥が奏でるさまざまな音色も自然の風景に色を添えている。
南側には計画的に開発された幾何学的な街並みが一望できる。ところどころに公園や広場など、緑を有する空間が配置されている。それが無機質な人工建築物にアクセントを与えて調和し、近代都市のイメージをもたらしている。
世界は音色で溢れている。自然の中にもたくさんの音楽があり、生きとし生けるものの魂を宿している。そして日常生活の中にも、雑然としていながらリズミカルな音色がある。
気がつくと屋上に佇んでいるのははるかひとりだけとなっていた。だから、はるかは課題曲の練習を始めようと思い、フルートを構え、それからすーっと大きく息を吸い込んだ。
そして目前の世界に向け、自身の音色を解き放つ。
はるかの放った音符は宙に舞い風にたゆたう。ほんのりと暖かいオレンジの陽差しを頬に受けながら生み出す音色を見送る。音符たちとの、戯れの時間。
時折、鳶が空から高音域の鳴き声をあげ、はるかへハーモニーを贈ってくれた。
秋風もそっと囁いて、はるかの音色を歓迎しているかのようだ。
意識が自然の中に溶け込んでいくのを感じていると、時間が経つのを忘れてしまう。ああ、音楽っていいな、そう思って悦に入り演奏を続けていると、背後からフルートの音色が響いてきた。
はるかの演奏と同じ、ハンガリー田園幻想曲。はるかのリズムに並走する別パートのパッセージ。
驚き振り向くと、花壇に腰をかけた千賀の姿があった。ゆらゆらと輪郭を揺らした太陽が屋上を照らしていたから、千賀の表情は先日会ったときよりも明るく健康的に見えた。
「あっ、千賀先輩、こんにちはー!」
あわてて深々と頭を下げるはるか。そんなはるかの姿を見て、千賀は微笑みを浮かべて花壇の縁から立ち上がる。
「こんにちは、この前とは逆の立場だね。どうだい、驚いたかな」
そう言って悪戯っぽく笑う。
「君には驚かされたから仕返しのつもりだったんだ」
「ごっ、ごめんなさい……やっぱり迷惑でした?」
「いや、本心はウェルカムだよ。じゃあさっそく――」
千賀はゆったりと足を運び、はるかの隣、手を伸ばせば届く距離に立って並ぶ。
サッカー部員たちも日没に合わせて部活を切り上げたので、辺りは静寂に包まれていた。だからこの屋上はふたりだけのステージになっていた。互いが奏者でもあり、聴衆でもある。
千賀ははるかに向き合いフルートを構えた。はるかもまた千賀に向き合い、フルートに桃色の唇を添える。
「行くよ、ついておいで」
「はいっ、ご指導よろしくお願いしますっ!」
はるかは高まる胸の鼓動に声が震える。
ふたりは同時に息を吸い込んだ。はるかは胸に抱いた音楽への熱い想いを、呼吸に乗せてフルートに送り出す。するとふたりの空間は音符たちの舞台に早変わり。命を宿した音符のイルミネーションがメロディに乗って踊りだす。
ああ、なんて美しい音色!
はるかはあらためて千賀の奏でるメロディの透明感に心を奪われ、音符たちを目で追いながらフルートを吹き鳴らす。音楽の世界に戻ってこられたんだという実感が湧いてくる。つい、演奏しながら笑みがこぼれる。
ただいま、音符さんたち!
それからはるかは毎日、学校の授業が終わると屋上へと足を運び、千賀のメロディを真似て練習していた。千賀は音楽について諄い説明をすることなく、教えることはすべて、音を通じてはるかに伝えようとしていた。だからふたりの間に会話はほとんどなく、かわりに澄んだ音色が存在した。ただ、互いの音色に耳を傾けメロディを重ねていた。
けれど千賀が屋上を訪れるのには独特のリズムがあった。夕陽が地平線に差しかかる頃に屋上を訪れ、沈みゆく夕陽とともにフルートを奏で始める。
屋上に来るまで、どこかで勉強しているのかなぁ?
はるかは千賀に深く尋ねることはなかったし、余計な詮索はしたくないと思っていた。教えてくれる時間を貰えるだけでも有難かった。
そして金曜日、三度目の「選考会」の日が訪れた。