幼少時のはるかは誰もが音色を視えると思っていた。だからその特性に最初に気づいたのは、はるかではなく母だったことは当然といえた。

「ママ、きょうはたくさんのおんぷさんがそらをとんでいたの。いろんなこえがきこえたんだよ」

そう、はるかが母に最初に言ったのは幼稚園生のとき。カスタネットやトライアングルなど、楽器を扱う機会ができたときのことだった。

それは素敵なことね、と最初は話を合わせていた母だったが、もしかしたら何かの病気なんじゃないかと、まずは身体の異常を懸念した。

そして「はるかのその不思議な音符さん、どこから来たのか調べてみよう」と笑いながら言った。けれどその笑みの裏側に、強い不安が浮かんでいることにはるかは気づいていた。そして冒険と称した病院巡りをさせられる羽目になった。

はるかは自分が病気だなんて、ちっとも思っていなかったし、事実、何の異常も指摘されなかった。

結局、いくら精密検査をしても異常は見つからず、もうやめてほしいんだとべそをかいて、それから母もようやっと医学的な問題ではないと理解してくれた。

けれど、はるかはいつも、空を見上げて何かを目で追い、指で触れるような仕草をしている。

そしてはるかが成長してから言い出したことに、母はしだいに狼狽の色を濃くしてゆく。

「ねえ、今日はシチューでしょ。音符に触ればわかるもん」

「ママ、疲れているの? だって、お皿洗いの音が元気ないよ」

「昨日、パパと喧嘩したでしょ。ママのピアノの音がプンプンしているもん」

そんなふうに神懸り的ともいえるはるかの洞察力に、これは大変な性質のものなのだと母は気づき始めた。はるかが小学校五年生の時だった。

それからはるかは、憑き物につかれたのではないかと心配され、厄除けに連れていかれたり、わけのわからない(まじな)いをかけられたりした。母ははるかの特性が受け容れられなくて、躍起になって解決しようとしていた。

ある日、はるかがベッドに潜り込むと、父と母の口論が聞こえてきた。それは毎夜訪れる、胸の奥を蝕むような恐怖の時間となった。

「また、はるかの話かよ。毎日毎日、お前の心配ばっかり聞かされてうんざりするんだ!」

「だってあなた……あの子、どこかおかしくなっちゃったのよ」

「お前の方がおかしくなっているんだ。見てみろ、はるかはいつも通り普通に暮らしているじゃないか。酷いこと言うなよ!」

父の声は普段の優しさを失いささくれだっていた。自分に向けられた言葉ではないのに、はるか自身が棘の生えた草むらに突き倒されたような痛みを覚える。

「だって私……あの子が薄気味悪くてしかたないの。きっと悪霊がとり憑いているんじゃないかって思うの。もしかしたら、ほんとうのはるかはどこかに連れて行かれちゃって、偽物がはるかのふりをしているんじゃないかしら」

「何言っているんだよ、あの子は想像力が豊かなんだ。個性だと思って受け容れてやるのがあいつのためさ」

日々仕事に追われている父にとっては、母の懸念は取り越し苦労としか思えなかったのかもしれない。

「だいたい、急に貯蓄が減っているのはどういうことだ。何に使ったんだよ!」

「だから……はるかのために……お祓いに……」

「馬鹿かお前は、なにペテン師に騙されているんだ!」

その瞬間、ドンと激しく机を叩く音がして、それに続きガラスの割れる音がした。刃物のような鋭い音符が部屋に飛び込んでくる。その強烈な音色ははるかに触れて爆発し、父の怒りの感情を解き放った。はるかはひとりで怯え、震えていた。

やめて! ママは悪くない! パパとママが喧嘩している原因は、あたしのせいだ。あたしがいけないんだ!

毎夜、はるかはベッドの中で小さくなり、自分を責め続けていた。はるかは自分の生まれ持ったその特異な体質が、罪人に付せられた焼印のように感じていた。

音符が視えさえしなければ、みんな幸せなのに!

はるかは決心した。鏡の前に立ち、自分の顔を観察しながら、平然とした表情を練習しはじめる。そして、それが自然にできるようになった頃、ついに母に向かって切り出すことにした。

不思議そうな、なにくわぬ顔をして。

「お母さん、あたしね、なんか、音符が視えなくなっちゃったの。あれ、何だったのかなぁ」

そのときの、母の安堵した表情をはるかはよく憶えている。母はその告白にしばらく唖然としていたけれど、急に深いため息をついて、はるかのそばに歩み寄ってきた。

おぼつかない足取りだった。その目は涙ぐんでいた。そっと手を伸ばし、はるかの頬に触れた。そして震える声ではるかにこう言った。

「よかった、はるか、普通の子で。お母さん、はるかがおかしくなっちゃったんじゃないかって思って、すごく心配していたのよ。よかった、ほんとうによかった……」

それからぎゅっと、はるかを強く抱きしめた。

その憑き物が落ちたような母の抱擁を受けながら、はるかはぼんやりと考えていた。

あたしのこの体質は、そんなに気味が悪かったんだ。そりゃあそうだよね。だって、音符の中に込められたものは、ほんとうは知ってはいけないものなのだから。音符のことは絶対、誰にも秘密にしよう。一生、あたしの、あたしだけの秘密。

以来、はるかは母に遠慮してみずから音楽を遠ざけていた。流行りの歌をプレーヤーで聴く程度はしたけれど、楽器を演奏することは避けてきた。録音された音楽からは音符が飛び出すことはなく、生の音だけが、奏者の感情を乗せた音符を放っていた。

音符と戯れることができなくなったはるかは、まるで大切な友達を失ってしまったかのように空虚な心持ちでいた。いつかは音が溢れる世界に戻りたいと思い続けていた。

そして隠し通して早四年、ついにそのときが訪れた。

「ねえ、はるかは楽器の演奏に興味あったりする? 今まではるかが演奏したところ、見たことないんだけどさ」

声をかけてきたのは、同じ高校に進学した菜摘だった。音楽にたしなんできた菜摘は高校入学と同時にアンサンブル部に入部し、一年生ながら部活の勧誘も手伝っていた。

「うん、あたし、興味はあるけど……ぜんぜんやったことないなぁ」

「ねぇ、そしたらあたし、アンサンブル部に入部したんだけど、よかったら一緒にやってみない?」

はるかはその誘いに思いを巡らせる。舞台はメロディで溢れる音楽室。たくさんの部員たちがいて、その想いを詰め込んだ音符たちが舞い踊る。青春を謳歌する学生たちの魂が弾けて飛び散るその情景に、はるかの好奇心が刺激されないはずがなかった。

はるかは「うーん、じゃあお母さんの許可もらってからでいい?」とためらう。けれど、母は中学時代から仲の良かった菜摘の誘いであれば了承してもらえるものと踏んでいた。それにひとりで演奏(と言うのは建前で、ほんとうは音符の中身)を楽しむ分には罪はない、と考えていた。

そして、思惑通りにアンサンブル部に入部が決まった。

ところが、溢れる音符に囲まれて幸せを感じたのもつかの間だった。二学期に行われる「選考会」の開催を聞かされ、はるかは愕然とした。音色に触れられさえすれば満足なのに、人前で演奏しなければいけないプレッシャーにはるかの心臓はぎゅーっと縮みこんだ。

何度も選考会から逃げ出そうとしたけれど、怖い先輩――清井麗――が「部員は全員参加」を掲げていたので、逆らった仕打ちを想像し、一時の恥を覚悟することを選んだ。