「ただいまぁ~」

玄関の扉を開けると、フライパンの上で具材が弾ける音が聞こえた。

何気ない生活音ですら小さな音符となって舞い散るから、はるかは夕食がどんな料理なのか、すぐにわかってしまう。

あっ、今日は茄子の肉味噌炒めね。あたし、これ好き~。

母が作ってくれる肉味噌炒めは少し甘口ではるかの好みの味だ。仕上げに加えたごま油の香りが食欲を刺激し、おなかの虫が暴れだす。

軽い足取りでリビングへ向かうと、エプロンをまとって台所に立つ母の姿があった。軽快な包丁さばきの手を止めて振り向き、はるかに話しかける。

「おかえり、今日はちょっと遅かったのね」

その表情は少しばかり不安そうに見える。

「うん、今日はコンクールの選考会で、ひとりひとり演奏する日だったの。だから遅くまでやっていたんだよ。まあ、あたしは初心者だから圏外なんだけどねー」

そう言って肩をすくめて、ぺろっと舌を出す。おどけた仕草をしたのは、母の不安を気遣ってのこと。

「でも菜摘はコンクール出場の可能性ありだから、めっちゃ気合いが入っているんだよ」

そう言うと、母はためらいがちに尋ねる。

「また音符が視えたとか、まさかそんなことないわよね」

はるかは胸の内を悟られまいと、冗談を笑い飛ばすような口ぶりで言う。

「あはっ。何言っているの、お母さん。子供の頃の話でしょ、それ」

母は昔のことを気にして、音符のことを言い出すときがある。だから、どう対処すれば無難にやり過ごせるのか、はるかはよく心得ていた。

「ところで今日の夕食は何? 美味しそうな匂いがするね」

はるかは夕食のメニューが何なのかわかっていながら、あえて母に尋ねる。音符が視えていないというアピールのために。

「肉味噌炒めよ、はるか好きだよね」

「えーほんと、嬉しい!」

はるかは後ろめたさを隠すように、母の両肩に手のひらを当て、今晩のおかずを肩越しに覗き込む。

「ねぇ、お母さん。成長期には摩訶不思議なことが起こるって言うじゃない。あれもそのひとつだったんだよ」