ふたりが互いに目を向けたのは、ほぼ同じタイミングだった。視線が交錯し、胸が高鳴ると同時に、はるかの口が勝手に動いた。

「あっ、あのっ……!」

けれどどんなふうに切り出せばいいのかわからず言葉に詰まる。謝るべきか、お礼を言うべきか、それとも普通に挨拶するべきなのか。

「ごっ、ごめんなさい、どうぞ」

はるかは顔を赤らめて手のひらを差し出し、会話の主導権を彼に譲る。彼は少しだけ驚いたような素振りをして、それから静かな表情に戻った。おもむろに口を開く。

「君はおかしな人だね。僕に話しかけるなんて」

それが彼の、最初の言葉だった。

「いっ、いえ! とっても素敵なメロディだったので、つい……邪魔しちゃって怒っているんじゃないかなって心配したんですけど」

しどろもどろな返事を聞いた彼は、くすっと小さな笑みをこぼす。

「はじめまして。とっても上手だったよ、君の演奏。僕は千賀(せんが)貴音(たかと)。音楽記号の『スタッカート』から『貴音』って名前がついたんだ」

温かみのある自己紹介に、はるかの緊張の糸がするっと緩む。

「あはは、無理やりですね。あたしは花宮はるか、アンサンブル部で下手すぎて、お笑い担当やっています」

さっきまであんなに落ち込んでいたのに、失敗を自虐的ネタにするなんてお調子者だなぁ、と心の中で苦笑する。

「あがり症でダメなんですよぉ、人前で演奏するの」

「ううん、大丈夫なはずだよ。だって一緒に演奏できたじゃないか」

「千賀先輩のメロディが優しいからうまくできたんです。人がいっぱいいると、笑われるんじゃないかって怖くなって、上手く演奏できなくて、結局笑われちゃうんです。その……自信がないっていうか、根っから臆病っていうか……」

しだいに声のトーンが下がって困った顔をするはるか。その様子を見た千賀は面白そうに提案をする。

「じゃあ、君が自信を持って演奏できるように、僕のメロディを君にあげるよ。だからちゃんと、(もら)ってくれないか」

はるかは千賀の妙な言い回しに違和感を覚える。

メロディを貰って欲しい? でも、もしもあたしがこんなに綺麗なメロディを奏でられるようになったら――。

そう思い、はるかはすーっと息を吸ってから満面の笑みを浮かべ、風が吹き抜けるような返事をする。

「はいっ、千賀先輩にフルートを教えてもらって、上手になりたいです」

それからふたりは花壇の縁に腰を掛けた。はるかは胸の中に沸き起こる高揚感をなだめながら千賀に話しかける。

「千賀先輩ってアンサンブルとか音楽の部活に入っていなかったんですか? こんなに上手ければコンクールでめっちゃ活躍、間違いなしですってば」

千賀は遠くの地平線に視線を送ったまま答える。

「ああ、昔、入っていた時もあったんだけどね」

「えっ、そうなんですか? じゃあなんで辞めちゃったんですか、もったいなーい!」

「……今は一緒に練習できなくなってしまったから」

ふと寂し気な表情になり、星營の浮かぶ空を見上げる。はるかはどんな事情があるんだろうと不思議に思ったけれど、なれなれしい詮索はいけないと思い、あわてて話題をそらす。

「じゃあ、どうして千賀先輩のフルートはこんなに澄んだ音色が奏でられるんですか?」

はるかの目に映る千賀の音は、今まで見たことのない色彩だった。透明でいて、内部に光を蓄えたような神秘的な色合い。だからはるかにとっては、褒め言葉の混じった、ごく素直に抱いた類の質問だった。

ところが、その質問を聞いた千賀は、はるかにしかわかるはずがないことを口にした。

「君は音色を掴まえられるんだね」

「えっ!?」

はるかは目を丸くして背筋をしゃんと伸ばした。胸が早鐘を打ち、冷たい汗が背中を伝う。千賀からさっと距離を置いた。

はるかの様子を見て千賀はすぐに察し、笑顔を浮かべてみせた。

「あっ、やっぱりそうなんだ。でも大丈夫だって。誰にも言ったりしないよ」

はるかは千賀の確信に満ちた言いっぷりに困惑する。

今、はじめて会ったばかりの千賀になぜそれがわかるのか、はるかには理解できなかった。音楽室で音符に触れる仕草をしても、誰も気づくことはなかったというのに。

けれど逃げ切れないと観念し、誰にも言わないと添えた千賀の言葉を信用することにした。他人にこの秘密を知られては大事(おおごと)なだけに、信用せざるを得ない。

「……どうしてわかったんですか? でもこれ、ぜんぜんいいことありませんけどね」

戸惑いつつも尋ねると、千賀は目を細めて諭すように言う。

「音色が掴まえられることは、とても大切な意味があるんじゃないかな。神様は無駄なものなど、何ひとつ与えたりしないものだよ」

「はぁ……。でもあたし、なんでこんななのかよくわからないんです。小さい頃、音符が視えるって言ったら頭がおかしいと思われたし、お母さんに迷惑かけちゃったし」

「はるか、君は音が掴めるだけじゃない。君の音色はとても不思議な風を感じさせるよ。まるで世界を描くような、といったらいいのかな」

「世界を……描く……?」

はるかは千賀の語ることの意味がよく理解できないでいた。けれどその言葉には、世界の(ことわり)に触れる者だけが知る重たさがあるように感じられた。

「それならあたし、頑張ってフルートを練習してみようと思います。そうしたら千賀先輩のおっしゃる意味がわかるかもしれないですね。だから先輩、宜しくお願いします!」

はるかは勢いよく頭を下げた。少しの間を置いてからはるかが頭を上げると、千賀は視線を合わせ、静かに返事をする。

「うん、僕は放課後、ここにいるよ。いつでもおいで」

それから一呼吸置いて続ける。

「だけどひとつだけ、約束してほしいことがある。僕のことは絶対、内緒にしてほしい。僕の名前、僕の奏でる音色、それに僕と会ったことも。僕のことを他の人に尋ねても駄目だよ。特に高円寺には絶対、知られないように」

「高円寺先輩……?」

はるかは不思議に思い千賀の顔を見つめるが、あたりは暗くなっていて表情を読み取るのが難しい。

同じフルート奏者だし、高円寺先輩と知り合いなのかぁ。でも、内緒にするなんて、過去になにかあったのかな? それともアンサンブル部員が部員ではない人に教わるのは気に障ることなのかな?

けれど秘密のひとつやふたつくらい誰にでもあることだからと、はるかは理由を訊くことはなかった。屈託のない笑顔で千賀に返事をする。

「はーい、ちゃんと秘密にしますね、千賀先輩のこと」

千賀が薄闇の中で優しく微笑んだように、はるかには感じられた。