「皆さんはじめまして、ワタクシがアンサンブル部の部長をやっています、北川と言います」

音楽室の檀上で北川がうやうやしく頭を下げる。新体制を迎える新年度の挨拶だ。

並べられた椅子の最前列にはたくさんの新顔が並んでいる。そのせいで桜色の季節だというのに、音楽室は熱気で溢れ返っている。

「それから副部長がこちらです」

手のひらを向けた方向には、小柄でボブカットの女子がひとり、ちょこんと立っていた。照れた笑みを浮かべて挨拶をする。

「二年の花宮 はるかです。今日はせっかくですので、皆さんにアンサンブル部の演奏をお聴かせしたいと思います」

とたん、どよめきが上がる。その反応にやっぱり皆、去年の実績を知っているんだなとはるかは気づいた。

「でも、レジェンドのおふたりがまだ到着していませんので、まずはアンサンブル部の活動についてお話ししたいと思います。では北川部長、よろしくお願いします」

そう言ってはるかは司会のバトンを北川に渡した。



涼太は駅を降りて早足で高校へと向かっている。七分袖のストライプシャツにジーンズといった、大学生らしいラフな格好だ。その後を追うのはパンプスの足音。涼太が足を止めて振り返ると、薄水色のワンピース姿をした麗が息を切らせて追いついた。ちらっと涼太を見上げて言う。

「はぁはぁ、あたし一応、女の子なんだから少しは手加減してよね。まったくいつだってマイペースなんだから」

「悪い悪い。もう始まっている時間だろうから、つい焦っちまって」

「大学のオリエンテーション、学長の話ながーい!」

「しっかしなんて因果だ。まさかお前が俺と同じ大学、しかも医学部に進学して、その上スモールグループまで一緒になるとはな」

語尾はだいぶ呆れたような物言いだった。

「あー、それひどくない? 彼女に向かって言う言葉じゃないと思うんだけど」

桃色の唇を尖らせて不貞腐れる麗。それでも頬を赤く染め嬉しさを滲ませている。

「誰かを救うって素敵だなぁ、って思ったからね。別に涼太と一緒の大学じゃなくたって良かったんだけど」

「おい、それ強がりだろ」

「さあ、どうでしょうね。私が離れたら心配する?」

麗はすまし顔でそう言ってみせた。

ふたりの関係は変わったようでもあり、そうでもないようにも見える。けれど麗はわがままを言えるようになったようで、そのぶん笑顔が増えたことに涼太も気づいていた。かつて「氷の女王」といわれた面影はもうなかった。

高校に到着すると入り口で構える守衛さんに入校の許可をもらう。「北川さんから聞いていますよ」と二回返事で通してくれたから、そのまま音楽室へと向かった。

音楽室の扉を開けると、予想よりもたくさんの学生がいて、羨望を含んだまなざしをいっぺんに向けられる。ふたりは一瞬、たじろいた。

そして、その中のひとつに涼太の見慣れた顔があった。妹の有紗だ。有紗もまた、このアンサンブル部に入部していたのだ。有紗はしてやったりといった顔をしている。

あいつ、俺に黙っていやがったのか。

涼太はあの学園祭の日の、やたら興奮した妹の顔を思い出した。

「すごい、すごい、特にあのアンコールの曲。なにあれ、ド迫力で頭おかしくなりそうだったよ!」

涼太と同じように、演奏に感激したことが入部の決め手となったのは言うまでもない。

涼太と麗は現在の部員だけでなく、新入部員にとってもレジェンドである。壁に目を向けると、その証拠である賞状が高々と掲げられていた。バッハの肖像画よりも高いところに、だ。しかも賞状は二枚あり、ひとつはフルート三重奏での「金賞」、もうひとつが混成八重奏での「銀賞」だった。ともに全国大会での結果である。

はるかは皆に笑顔でアナウンスする。

「これから屋上で特別イベント、新入生歓迎の演奏会を行います。これで予定通り、レジェンドの演奏が聴けることになりました! あたしとゲストの先輩方は先に行って準備していますね。皆さんは北川先輩と一緒に、十五分後に来てください」

「じゃあ、はるか、よろしくね。おふたりは丁重におもてなししてね」

「はい、わっかりましたぁ~!」

そう言って背筋をしゃんと伸ばして歯切れのよい敬礼をする。



はるかは麗と涼太とともに屋上に向かう。途中、階段を昇りながら涼太ははるかに話しかける。

「あれから半年かぁ。懐かしいような、短かったような」

麗は感慨深そうに当時を思い出す。

「ほんとうね、それにしても花宮さんって不思議な子よね。呆れるくらい」

はるかは照れくさそうに頭を掻きながらとぼける。

「へへへぇ~、今は何の取柄もない、ただのフルート奏者ですけどね」

あの日以来、目に映る音符は薄れてゆき、徐々にはるかの視界から消えていった。千賀が奏でた神を冒涜する音楽を浴びたせいだったが、今度こそほんとうに、音符が視えなくなっていったのだ。

足を進めてゆく。そして鋼鉄製の扉の前にたどり着いた。

はるかと涼太は、ともに千賀と屋上で同じ時間を過ごしたふたりだ。だから涼太はみずからはるかに提案をする。

「花宮、この扉、一緒に開けるとするか」

「いいですね、そうしましょうか!」

そう言うはるかの頬は少しだけ紅に色づいていた。女子の心情に疎い涼太ではあるが、麗のことで学習したのか、それが何を意味するのか気づいたようだった。そのことに涼太自身も少しばかり驚き、同時に嫉妬にも似た、複雑な感情が呼び起こされた。

ふたりでノブを回す。きぃ~、と軋んで屋上の扉が開くと、斜陽が扉の隙間から差し込んで足元を紅色に照らしだす。光を辿るように三人で屋上に踏み出した。

夕陽で紅に染まる屋上には、よく知る痩躯の背中姿があった。長い影が床に伸びていた。

その人はゆっくりと振り向き、かつてと変わらない、澄んだ微笑みを浮かべる。

涼太は目を見開き、一目散にその男性に駆け寄った。息を詰まらせながら話しかける。

「貴音さん、歩けるようになったんですか!?」

千賀は自分の両足を手のひらで軽く数回叩き、照れくさそうな笑みを浮かべる。

「もうすっかり回復したよ。涼太、僕の足が駄目にならないようにと、君がリハビリを手伝ってくれていたんだってな。感謝の言葉もない」

千賀のまっすぐなまなざしに涼太は顔を赤らめ視線を逸らす。

「良かったです、貴音さんがちゃんと元気になって。でもやっぱり……」

それからちらっとはるかを一瞥する。

「花宮のおかげですよね」

「いや、みんなのおかげだよ、ほんとうにありがとう。僕の人生の五線譜には、フィーネはまだ書き込まれていなかった」

そこではるかがくいっと腰を折って涼太の顔を覗き込む。

「高円寺先輩、あたし先輩にご報告があります」

同時に千賀は知らん顔をしてそっぽを向く。その仕草にやっぱりそういうことかと、涼太は確信した。

「ジャーン! 千賀先輩、もとい『貴音さん』は、あたしの彼氏になりましたぁ~!」

一瞬、驚いた表情を浮かべる涼太。けれど自制心が勝り上手く笑顔を作ることができたようだ。

「おおっ、そうか、おめでとう! 音楽家同士、お似合いじゃないか」

「というわけで潔く諦めてくださいねっ!」

はるかはびしっと鋭く涼太を指差した。その一撃が含む意図に、涼太はすこぶる苦々しい顔をしてのけぞった。

千賀はそんなふたりのやり取りを目にしてくっくと笑う。ちらりと麗を見ると、頬をオレンジ色に染めた麗と目が合った。千賀は気を遣ってすかさず話題を元に戻す。

「だけど僕は、はるかのせいで神から見放されたようだよ」

「それは音符が視えなくなったってことですか、花宮さんと同じように」

麗は千賀に尋ねる。

「ああ、そういうことだ。だけど将来は音楽の道に進みたいと思っている。神を冒涜した癖にだよ、笑っちゃうだろ」

「たっ、貴音さんだったら絶対、大丈夫ですよ。神の寵愛なんかなくたって!」

片眼を瞑りぐっと親指を突き立て格好をつける涼太。けれどまだ顔が紅潮したままだ。

「そう言ってもらうと勇気が湧くな。君はやはり、いつまでも僕の親友だ。だけど――」

千賀は涼太に意味ありげに歩み寄る。そして耳元に唇を近づけ、そっと囁く。

「男同士でのキスは勘弁してくれよな」

とたん、涼太の顔は夕陽よりも真っ赤になり、頭から湯気が立ち昇る。会話を聞き取れなかった麗は不思議そうな顔をして、きゅーっと長い首を(かし)げた。

そこではるかはひとつ手を叩き、皆に声をかける。

「さあ、ぐずぐずしているとみんなが来ちゃいますから、リハーサルしましょうか。曲は『想い出は銀の笛』、ちなみに『四重奏』ですよ~!」

「おっ、そうこなくっちゃ」

千賀は晴れ晴れとした顔でフルートを構える。麗も黙って微笑み、唇をフルートに添える。涼太は赤らめた顔のまま麗の隣に並んだ。はるかも千賀にそっと肩をよせる。

沈む夕陽を群青が追いかけてゆく空に向かってフルートを構えた。はるかは心の中で千賀に語りかける。

あたしと貴音さんの出会いの曲ですよ。ここから始まったんです、あたしの音楽の人生は。

そして胸いっぱいに澄んだ空気を吸い込んだ。

四人で奏でるメロディのハーモニーが、夕暮れの空に舞い散ってゆく。

音色に心を委ねながら遠くに目をやると、山の稜線には一番星が静かに瞬いていた。音楽で繋がった四人の未来を明るく照らし出すように。

【了】