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はるかがまぶたを開くと、群青色の空を背景にして、ひどく心配そうな顔が並んでいた。涼太と麗、そして菜摘だ。麗が膝枕で介抱していたらしく、後頭部が暖かくて心地よい。
「あれ? あたし……」
すっとんきょうな声に皆、ほっと胸を撫でおろす。はるかは起き上がり、辺りを見回してここが舞台裏だということに気づく。涼太が心底安心した様子で話しかけてくる。
「脅かすなよ、まったく気が気じゃなかったんだ」
「あ……、あたし、気を失っていたんですね。どれくらい経ったんですか?」
「ああ、ほんの数分だ。舞台から下ろしてしばらくしたら目が覚めたからな。観客も心配しているぞ」
並んだ席に目を向けると、観客が舞台裏に視線を向けている。はるかに起きた事態が場を混乱させているようだった。けれど次第に安堵のため息が会場を包んでゆく。
あれは夢だったのかな。でもどうしてこんなに……悲しい気持ちなんだろう。
そう思っていると、麗が薄桃色のハンカチを鞄から取り出し、黙ってはるかに渡した。
はるかはそうされてから、ようやっと気づいた。いまだに熱い雫が頬を滴り落ちていたことに。
ハンカチを受け取って泣き顔を隠しつつ涙を拭き取る。
はるかが落ち着きを取り戻してきたのを見計らい、麗ははるかの手をそっと引いた。
「ご来場の方々も心配していらっしゃるわ。挨拶して元気なところを見せましょう。立ち上がれる?」
「はい、大丈夫だと思います、麗先輩」
はるかは慎重に体を起こして腰を浮かせる。
そのとき、ブラウスの隙間からぽろりと小さな音符がこぼれ落ちた。
あっ……。
それは漆黒に染められた八分音符だった。五線譜の上では無数に見られる慣れ親しんだ記号がひとつ。それが存在するということは何を意味しているのか、はるかはすぐに気づいた。
あれはやっぱり、夢なんかじゃない!
空を見上げると、雲の隙間に音色の漂う雰囲気を感じた。しだいに空へと吸い込まれてゆく。
はるかは目を大きく見開いた。口元を引き締め、すっくと立ちあがる。そして、部員全員に向けて叫んだ。まるで運命を引き寄せるような力強い声だった。
「みんな、楽器を持って舞台に上がって! 音楽を奏でてほしいの!」
ひどく興奮した様子のはるかに、菜摘が怪訝そうな顔で尋ねる。
「ちょっと、どうしたのよはるか。何の曲を演奏するっていうのよ……」
「お願い、あたしの頼みを聞いて! あたしが秘密にしてきたこと、菜摘にも教えるから!」
その必死な表情に菜摘ははっとした。はるかが核心に迫る重要なことを伝えたいのだと直感し、すぐさま北川と麗に向かって声を張り上げる。
「北川先輩、麗先輩、はるかの言う通りにしてあげてください。はるかがこんなふうに言うんだから、大切なことに違いないんです。だからあたしからもお願いします!」
菜摘は地面につくほど、大きく腰を折った。
ほんっっっとにありがとう、菜摘!
すると麗は突然司会者からマイクを奪い取り、会場に向かって叫んだ。
「皆さん、ご迷惑をお掛けしました。部員がひとり、体調を崩しましたがもう大丈夫です。それではお詫びとして、アンコールをさせていただきます!」
とたん、会場がどっと湧き上がる。不穏な空気が漂っていたところだったので、このアナウンスは予想外だった。
「さあ、みんな、最後の演奏よ!」
部員たちは北川に率いられ、けたたましい足音を立てて舞台に上がってゆく。そのとき、菜摘ははるかに向かってぐっと親指を突きたて、ウインクをして見せた。はるかも満面の笑みで返す。
涼太は麗の耳元で尋ねる。
「おいおい、何の曲を演奏するんだよ、十一人って」
「そんなの私だって知らないわよ。でも、花宮さんの言うとおりにしてあげて」
「なんてこった。――でもまぁ、あいつならすごいことをやってくれそうだ」
「すごいことねぇ。たとえば神ってる演奏みたいな? 勘だけど」
「女の勘か、きっと当たるだろうな!」
ふたりは皆の後を追い舞台に上がる。
ふたつの曲を演奏した十一人のメンバーがステージ上に並ぶ。はるかは舞台の一番前に立った。
はるかはフルートを空高くかざし、振り向いて部員たちに向かって叫ぶ。魂を懸け演奏すると決心した、凛々しい表情をみせる。
フルートを構えて息を吹き込む。その瞬間、はるかのフルートから摩訶不思議な音色が飛び出した。
「ピィー! ヒョロロー!」
はるかの放つ音色が鳶の鳴き声のように、どこまでも響き渡った。
とたん、空一面に眩く光る五線譜が現れた。星座のような壮大な譜面が目に映ったことに皆は驚きを隠せなかった。浮かびあがる譜面は北川のグループが演奏した曲、「インパルシブ」だった。
はるかはフルートを掲げて腕を伸ばし、空のキャンパスめがけて大きな円を描く。
「音符さんたち、お願い、世界を繋げて!」
すると五線譜に囚われていたすべての音楽記号がふわりと浮き上がった。ひとつひとつの音符は意志を持ったかのように瞬きながら隊形移動をして整列する。
麗も涼太も、そしてステージ上の部員たちも皆、空を見上げあっけにとられる。
「私、信じられない……これが音楽の力だなんて」
「俺たちは夢を見ているのか……?」
はるかの演奏で海の光景を感じ取った北川でさえ、空に描かれた楽譜を見て震えだしている。
「な……なんなのよぉ、これは……」
幻想的な譜面は、「インパルシブ」を逆再生したものだった。それも見事な十一重奏に編曲されている。観客も辺りを包む異様な空気に何かが起きていると感じ取って息を呑む。
涼太は意を決し、皆に向かって叫ぶ。
「みんな、聞いてくれ。これは部長からの命令だ。絶対に間違うことなく、この譜面に書かれている自分のパートを演奏してくれ!」
麗も力の限り声をあげる。
「あなたたちは選ばれたメンバーよ、自信をもって!」
そして皆に精一杯の笑顔を向けた。
びりびりと痺れるような緊張の中、涼太と麗もフルートを構えた。そこで菜摘も後に続く。
「あ……あっ、あたしたちもはるかに続けえ!」
「よっしゃ、わけわからないけど、いっちょやってみるか!」
「すっげえことになってきた! 鳥肌もんだぜ!」
皆、思い思いの驚きと感動を口にしながら楽器を構えた。はるかは心の中で念じる。
あたしたちはこの音楽を千賀先輩に届ける。あたしはただ、千賀先輩が大切で、同じ時間を過ごしていたかった。だから、あたしの大切な千賀先輩は、誰にだって奪わせはしない!
そして、トワイライトが染める学園祭の舞台に、皆の旋律がほとばしった。
イントロから荒々しいクレシェンドの音色が疾走する。怒涛の勢いで漆黒の音符が吐き出される。
それは人々を感動させ歴史に刻まれるような音楽とは対極をなすものだった。力強く反骨心に満ちていて、まるで既存の音楽を破壊するために生まれたような音色だ。
部員たちの音楽への漲る情熱を詰め込んで放たれる漆黒の音符の渦は、灰色の雲を浮かべる宵闇の天空を突き上げて雷鳴を呼び、大地を激しく揺るがせるほどだった。
膨張する音のエネルギーは、もはやアンサンブルの域を超えてオーケストラのようでもある。圧倒的な迫力を持つ悪魔的なメロディに、聴衆は引き摺り込まれまいとひたすら耐え続けていた。それでも皆、演奏することを止めはしなかった。
そうして、演奏の常識を覆し、音楽の歴史を冒涜し、神にさえ楯突くそのメロディは、十一人のアンサンブル部員によって奏でられた。
はるかは魂の叫びをフルートに注ぎ込む。
音楽はみんなを繋げて、未知の世界を心の中に描きだす。そんなパワーがあるはずなんだ。
そしてこれはただの音楽なんかじゃない。常識の破壊から生まれた奇跡の贈り物だ。今、はじめてわかった。あたしはきっと、大切な人を護るために音色を操る力を持っていたんだ。
だからあたしはこのメロディを、あたしの大切な人のために奏でるんだ。どうか、あなたに届いて。あたしたちの奏でる、『フィーネの旋律』!
はるかがまぶたを開くと、群青色の空を背景にして、ひどく心配そうな顔が並んでいた。涼太と麗、そして菜摘だ。麗が膝枕で介抱していたらしく、後頭部が暖かくて心地よい。
「あれ? あたし……」
すっとんきょうな声に皆、ほっと胸を撫でおろす。はるかは起き上がり、辺りを見回してここが舞台裏だということに気づく。涼太が心底安心した様子で話しかけてくる。
「脅かすなよ、まったく気が気じゃなかったんだ」
「あ……、あたし、気を失っていたんですね。どれくらい経ったんですか?」
「ああ、ほんの数分だ。舞台から下ろしてしばらくしたら目が覚めたからな。観客も心配しているぞ」
並んだ席に目を向けると、観客が舞台裏に視線を向けている。はるかに起きた事態が場を混乱させているようだった。けれど次第に安堵のため息が会場を包んでゆく。
あれは夢だったのかな。でもどうしてこんなに……悲しい気持ちなんだろう。
そう思っていると、麗が薄桃色のハンカチを鞄から取り出し、黙ってはるかに渡した。
はるかはそうされてから、ようやっと気づいた。いまだに熱い雫が頬を滴り落ちていたことに。
ハンカチを受け取って泣き顔を隠しつつ涙を拭き取る。
はるかが落ち着きを取り戻してきたのを見計らい、麗ははるかの手をそっと引いた。
「ご来場の方々も心配していらっしゃるわ。挨拶して元気なところを見せましょう。立ち上がれる?」
「はい、大丈夫だと思います、麗先輩」
はるかは慎重に体を起こして腰を浮かせる。
そのとき、ブラウスの隙間からぽろりと小さな音符がこぼれ落ちた。
あっ……。
それは漆黒に染められた八分音符だった。五線譜の上では無数に見られる慣れ親しんだ記号がひとつ。それが存在するということは何を意味しているのか、はるかはすぐに気づいた。
あれはやっぱり、夢なんかじゃない!
空を見上げると、雲の隙間に音色の漂う雰囲気を感じた。しだいに空へと吸い込まれてゆく。
はるかは目を大きく見開いた。口元を引き締め、すっくと立ちあがる。そして、部員全員に向けて叫んだ。まるで運命を引き寄せるような力強い声だった。
「みんな、楽器を持って舞台に上がって! 音楽を奏でてほしいの!」
ひどく興奮した様子のはるかに、菜摘が怪訝そうな顔で尋ねる。
「ちょっと、どうしたのよはるか。何の曲を演奏するっていうのよ……」
「お願い、あたしの頼みを聞いて! あたしが秘密にしてきたこと、菜摘にも教えるから!」
その必死な表情に菜摘ははっとした。はるかが核心に迫る重要なことを伝えたいのだと直感し、すぐさま北川と麗に向かって声を張り上げる。
「北川先輩、麗先輩、はるかの言う通りにしてあげてください。はるかがこんなふうに言うんだから、大切なことに違いないんです。だからあたしからもお願いします!」
菜摘は地面につくほど、大きく腰を折った。
ほんっっっとにありがとう、菜摘!
すると麗は突然司会者からマイクを奪い取り、会場に向かって叫んだ。
「皆さん、ご迷惑をお掛けしました。部員がひとり、体調を崩しましたがもう大丈夫です。それではお詫びとして、アンコールをさせていただきます!」
とたん、会場がどっと湧き上がる。不穏な空気が漂っていたところだったので、このアナウンスは予想外だった。
「さあ、みんな、最後の演奏よ!」
部員たちは北川に率いられ、けたたましい足音を立てて舞台に上がってゆく。そのとき、菜摘ははるかに向かってぐっと親指を突きたて、ウインクをして見せた。はるかも満面の笑みで返す。
涼太は麗の耳元で尋ねる。
「おいおい、何の曲を演奏するんだよ、十一人って」
「そんなの私だって知らないわよ。でも、花宮さんの言うとおりにしてあげて」
「なんてこった。――でもまぁ、あいつならすごいことをやってくれそうだ」
「すごいことねぇ。たとえば神ってる演奏みたいな? 勘だけど」
「女の勘か、きっと当たるだろうな!」
ふたりは皆の後を追い舞台に上がる。
ふたつの曲を演奏した十一人のメンバーがステージ上に並ぶ。はるかは舞台の一番前に立った。
はるかはフルートを空高くかざし、振り向いて部員たちに向かって叫ぶ。魂を懸け演奏すると決心した、凛々しい表情をみせる。
フルートを構えて息を吹き込む。その瞬間、はるかのフルートから摩訶不思議な音色が飛び出した。
「ピィー! ヒョロロー!」
はるかの放つ音色が鳶の鳴き声のように、どこまでも響き渡った。
とたん、空一面に眩く光る五線譜が現れた。星座のような壮大な譜面が目に映ったことに皆は驚きを隠せなかった。浮かびあがる譜面は北川のグループが演奏した曲、「インパルシブ」だった。
はるかはフルートを掲げて腕を伸ばし、空のキャンパスめがけて大きな円を描く。
「音符さんたち、お願い、世界を繋げて!」
すると五線譜に囚われていたすべての音楽記号がふわりと浮き上がった。ひとつひとつの音符は意志を持ったかのように瞬きながら隊形移動をして整列する。
麗も涼太も、そしてステージ上の部員たちも皆、空を見上げあっけにとられる。
「私、信じられない……これが音楽の力だなんて」
「俺たちは夢を見ているのか……?」
はるかの演奏で海の光景を感じ取った北川でさえ、空に描かれた楽譜を見て震えだしている。
「な……なんなのよぉ、これは……」
幻想的な譜面は、「インパルシブ」を逆再生したものだった。それも見事な十一重奏に編曲されている。観客も辺りを包む異様な空気に何かが起きていると感じ取って息を呑む。
涼太は意を決し、皆に向かって叫ぶ。
「みんな、聞いてくれ。これは部長からの命令だ。絶対に間違うことなく、この譜面に書かれている自分のパートを演奏してくれ!」
麗も力の限り声をあげる。
「あなたたちは選ばれたメンバーよ、自信をもって!」
そして皆に精一杯の笑顔を向けた。
びりびりと痺れるような緊張の中、涼太と麗もフルートを構えた。そこで菜摘も後に続く。
「あ……あっ、あたしたちもはるかに続けえ!」
「よっしゃ、わけわからないけど、いっちょやってみるか!」
「すっげえことになってきた! 鳥肌もんだぜ!」
皆、思い思いの驚きと感動を口にしながら楽器を構えた。はるかは心の中で念じる。
あたしたちはこの音楽を千賀先輩に届ける。あたしはただ、千賀先輩が大切で、同じ時間を過ごしていたかった。だから、あたしの大切な千賀先輩は、誰にだって奪わせはしない!
そして、トワイライトが染める学園祭の舞台に、皆の旋律がほとばしった。
イントロから荒々しいクレシェンドの音色が疾走する。怒涛の勢いで漆黒の音符が吐き出される。
それは人々を感動させ歴史に刻まれるような音楽とは対極をなすものだった。力強く反骨心に満ちていて、まるで既存の音楽を破壊するために生まれたような音色だ。
部員たちの音楽への漲る情熱を詰め込んで放たれる漆黒の音符の渦は、灰色の雲を浮かべる宵闇の天空を突き上げて雷鳴を呼び、大地を激しく揺るがせるほどだった。
膨張する音のエネルギーは、もはやアンサンブルの域を超えてオーケストラのようでもある。圧倒的な迫力を持つ悪魔的なメロディに、聴衆は引き摺り込まれまいとひたすら耐え続けていた。それでも皆、演奏することを止めはしなかった。
そうして、演奏の常識を覆し、音楽の歴史を冒涜し、神にさえ楯突くそのメロディは、十一人のアンサンブル部員によって奏でられた。
はるかは魂の叫びをフルートに注ぎ込む。
音楽はみんなを繋げて、未知の世界を心の中に描きだす。そんなパワーがあるはずなんだ。
そしてこれはただの音楽なんかじゃない。常識の破壊から生まれた奇跡の贈り物だ。今、はじめてわかった。あたしはきっと、大切な人を護るために音色を操る力を持っていたんだ。
だからあたしはこのメロディを、あたしの大切な人のために奏でるんだ。どうか、あなたに届いて。あたしたちの奏でる、『フィーネの旋律』!