気づいた時、はるかは濃霧の中に佇んでいた。視界が遮られよく見えなかったが、足元は坂道で、その坂を昇っているところだった。

霧の隙間からわずかに覗く風景は、城西高等学校の学園祭の風景を映し出していた。舞台裏に人が集まっていて、はるかはその様子を空から眺めているようだった。

あたし、どこに向かって歩いているんだろう?

不思議に思い耳を澄ますと、坂の上から足音が聞こえてきた。その足音はゆっくりとはるかに近づいてきて、距離を置いて止まった。目の前の霧がしだいに薄くなり、銀白色のフルートを手にした男性の姿がはっきりと映る。

「千賀先輩……?」

見上げる千賀の表情は憂いや呵責のような湿度を含んでいた。

はるかは自分の置かれている立場がどういうものなのか、千賀の表情からすぐに理解できた。千賀に向かってそっと話しかける。

「あたし、倒れてしまったんですね。前にも同じようなことがあった気がします。あっ、そうだ。北川先輩の家で演奏した後です」

「ああ、そのようだね」

「音符が視えるのって、たぶん悪い能力だったんですね。あたしが倒れちゃったのは、あんな演奏をしたせいなんですよね。やっぱり音楽、向いてなかったんだなぁ。みんなにごめんなさいって謝らなくちゃ」

はるかは乾いた笑みを浮かべる。

千賀は、運命を理解していながら演奏を促した自分のことを、はるかは恨み非難するのだろうと思っていた。けれどはるかの表情に、恐れや怒りはまるでなかった。

「ねえ千賀先輩、あたし、わがまま言ってもいいですか。できれば叶えて欲しいんですけど」

「ああ、なんでも言ってくれ。僕にできることなら」

罪悪感からか、千賀ははるかの言葉に素直に耳を傾ける。千賀を見上げるはるかの瞳は潤んでいて、星の光を浮かべる湖面のような儚い輝きがあった。

「今なら触れられますか? 千賀先輩のその長い指に。素敵な音色を奏でるその手のひらに。あたしが触れたら、千賀先輩は消えちゃうんですよね。でも、今なら大丈夫なはずでしょ?」

その一言に千賀は黙って手のひらを差し出す。

はるかは千賀の指先を軽く握って引き寄せる。手のひらを自分の頬に当てて感触と温度を確かめると、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。はるかの奏でるフルートから飛び立つ音符にも似た透明な雫は、頬を滴り落ちて千賀の手のひらを濡らした。

「あたし、音符が視えなくなったんだって、お母さんに嘘をついていました。悪い子ですよね。それにみんなの心の中を覗き見して楽しむなんてひどい子ですよね。音楽は素人で下手くそで、みんなの邪魔になっちゃうし。

でも、千賀先輩みたいな素敵な人に出会えて、一緒に演奏するのか楽しいって思えて、コンクールのメンバーにも選んでもらえて、舞台で演奏できて……たくさん、たくさんいいことがありました。思い残すことなんてありません。

だけど、千賀先輩とは離れたくないなぁ……。

だからあたしのこと、連れていってもらえませんか? 千賀先輩と一緒にいられるなら、それだけでいいんです」

千賀は黙したまま、その言葉を聞き続けていた。

するとそこにもうひとつの足音が近づいてくる。

現れたのは千賀が屋上で出会った男性、瀧廉太郎だった。瀧は千賀とはるかの姿を確認すると小さくうなずいて言う。

「ああ、この子が『フィーネの旋律』を奏でたのですね。同じ時間、同じ空間に、この特性を持つ人間がふたりも存在するなど、奇跡的な巡り合わせではないですか」

男性の表情は穏健そうに見えたが、視線は鋭く、はるかを捉えて離さない。

「誰ですか、この人……?」

はるかは不安そうに千賀に尋ねる。

「名前は聞いたことがあると思う。瀧廉太郎さんだ。彼も僕たちと同じなんだ」

はるかは瀧の顔をまじまじと見る。確かにどこかで見た顔のような気がする。音楽の教科書か、それとも歴史上の人物図鑑か。記憶は定かではなかった。

瀧は千賀に向かって尋ねる。

「それでは千賀さん、その女性をしかるべき世界に案内させていただきます。神々もお待ちかねです」

はるかははっとして千賀の顔を見上げる。

「千賀先輩……どういうことなんですか」

はるかが問いただすと、千賀はようやっと口を開く。絶望にも似た重々しい一言がそこから発せられた。

「はるか、僕とはここでお別れだ」

「えっ、どうして連れていってくれないんですか」

「君はひとりで帰らなければならないんだ」

そのやり取りを聞いて瀧は小さくうなずき、紳士的な態度ではるかに声をかけ腰を折る。

「お嬢さん、魂の姿となったあなたをお待ちしている方がいらっしゃいます。私がその方の元へエスコートいたします」

そこで千賀は覚悟を秘めた表情を瀧に向ける。

「いや、そうではありません。はるかは涼太と麗の元に帰ってもらいます。この子には輝かしい未来も、大切な友人も仲間もいます。それらを身勝手な運命なんかに奪わせたくはありません。だから僕が赴けばよいのでしょう」

はるかは千賀と自身の絡み合った運命が、ここで(ほど)かれるのだと悟った。思わず千賀に向かって叫ぶ。

「いやですっ! あたし、千賀先輩と離れたくない! 一緒にいられるのなら、あたしはどうなっても構わないから!」

はるかは千賀がまとう詰襟服の袖を掴み、腕を手繰り寄せる。そんなはるかを見下ろす千賀の瞳は澄んでいて、はるかの抱いた悲しみを色濃く映し込んでいた。千賀は諭すように優しく語りかける。

「いいかい、メロディにもいつかはフィナーレか訪れる。僕と涼太の想いを叶えるために頑張ってくれた君を、僕が連れていってはならないんだ。だから未練から解き放たれたら潔く天に召すのが僕たちのような者の掟であり、僕たちが住んでいた世界への感謝でもある。僕は君の未来を冒涜(ぼうとく)できるはずがなかったんだ」

千賀はるかの顔を覗き込んでゆったりと目を細めた。胸の中に込めた想いを整え、はるかの耳元で風のように囁く。

「僕も君が好きだったよ、はるか」

桜花のように淡い色をした千賀の一言は、溶けるようにはるかの胸に沁み込んだ。

はるかは千賀の言葉に別れの意味を感じ取った。あふれだす寂しさを抱えきれなくなって、とめどなく涙がこぼれる。頬を伝い、なだらかな流線を描く。

千賀は瀧に向かい毅然として言う。

「僕だって屋上で暇を持て余していたわけではないんです。いろいろ調べていたんですが、もしもこの能力が神話の通りなら、描けるのは眩い世界だけではないはずですよね」

そしておもむろにフルートを構えた。瀧は怪訝そうな顔をする。

千賀はフルートからメロディを解き放った。今までの澄んだ音色とはまるで異質の音だ。地の底から沸き上がるような禍々しさを宿した不穏なメロディが流れる。瀧はその音色はどこかで耳にしたことがあると思い、脳裏に五線譜を描き譜面を埋めてゆく。

ほんの数秒で、瀧はそれがどのような音楽なのか気づいた。けっして演奏されることのない、闇に帰属する類のメロディだ。

そのメロディの正体はショパンの「別れの曲」――を、「逆再生」したものだ。

瀧の目が大きく見開かれる。目は血走り、口元が歪んだ。

「いけません! 音楽を終止線から遡るなど冒涜に等しいことです! 今まであなたが存在していた世界の音楽は、逆再生によって多くの呪いの言葉を生み出しました。歌詞を伴わないメロディでさえ、そこには闇が宿ります! 神々は不浄なメロディを浴びた者を許すはずがありません!」

確かに、作曲の時点で意図したかどうかは明らかではないが、さまざまな楽曲において、逆再生により負の意味を持つ言葉が発見されている。

「望むところだ。神話で伝えられる神の事情など、今を懸命に生きているはるかには関係のないことだ! 僕ははるかをそんな運命から解放してやるんだ!」

涼太のフルートからは漆黒の音符が濁流のように流れ出す。音符ははるかを呑み込み、はるかの身体で砕けて火花を散らせる。

「せっ、千賀先輩っ! やっ、やめてくださいっ!」

はるかが必死で抵抗するにもかかわらず、千賀はそのメロディをクレッシェンドで演奏する。

「はるか、君にお願いがある。涼太に伝えてくれ。僕は音色のように世界から消えても確かに存在し、君の良き友人であり続けると!」

「うっ……千賀先輩っ! 行かないでっ!」

はるかは怒涛の如く吹きつける黒い音符に押しやられ、じりじりと坂の下へ引き戻されていく。

「そしてさよならを伝えてくれ、お願いだ!」

その瞬間、黒い音符が一気に爆発した。

「きゃあー!」

はるかは爆発の衝撃で宙に放り出された。風圧の勢いそのままに空の彼方へ飛ばされているような感覚があった。そしてふたたび濃霧に包まれ、意識が遠ざかっていった。