学園祭の日が訪れた。頭上にはぬけるような青空が広がっている。朝から活気ある生徒たちのざわめきが校内を満たしていた。

校庭に設置されたステージの周りにはテーブルが並べられ、敷地の端には屋台が配置された。お好み焼き、豚汁、綿菓子、フランクフルト、そして焼きそばなど、いずれも人気と馴染みがあるものばかりだから、学生たちや訪れる近所の家族連れが列をなして盛況だ。

演奏の舞台裏である音楽室では、部員たちが演奏の準備に取りかかっていた。北川の八重奏グループは、初出場となるコンクールの予行演習に余念がない。一方、涼太と麗は準備を済ませ、最後となる学園祭を迎え、感慨深そうに校庭の風景を眺めていた。

「あっ、あの……もう一度、リハーサルしてもよろしいでしょうか」

固い面持ちのはるかはおそるおそる涼太に尋ねる。

「だいぶ緊張しているみたいだな、花宮」

「あっ、はい、上手く演奏できるかどうか不安で……」

「大丈夫だ。俺と麗がリードするから、いつもの君の演奏で十分だ。とはいっても、ここのところ相当に上手くなっているから、自分を信じて堂々と演奏すればいい。ところで家族は来るのか?」

「あっ、はい、母が来るんです」

「俺のところは妹が見に来る予定だ」

「へぇ、妹さんいらっしゃるんですか。きっと美人なんでしょうね、高円寺先輩に似て」

きらりと光る白い歯を見せて微笑む涼太。どうやら涼太にとっては可愛い妹らしい。そこで麗が口を挟んできた。

「そうね、お兄さんと違ってとても性格の良い子よ」

顔を綻ばせ、ちらと涼太を一瞥する。皮肉めいた言い方に、はるかはふたりの間に何かあったのかな、と不安になる。麗の涼太に対する想いを知っているだけになおさらだ。

音楽室の窓から校庭を見下ろすと放送部のナレーションでイベントが進行しており、さまざまな催し物がなされていた。ダンス部の「ダンシングヒーロー」や空手部の組合、そしてコーラス部の「旅立ちの日」と「モルダウ」、いずれも盛況だが、ラグビー部による女装コンテストがダントツで盛り上がっていた。

校舎の各教室では映画館、喫茶店、お化け屋敷など、クラス単位での催し物が行われている。

はるかはそんな喧騒から離れてひとり、屋上へと向かっていた。城西高等学校の中の一番高いこの場所で、澄んだ空気を吸い込み、空を仰いでつぶやく。

「千賀先輩、今日はきっと高円寺先輩と一緒に演奏できますよ。フルートを教えてくださった千賀先輩への恩返しのつもりです」

そして陽が傾き、空に淡い橙色が混じる頃、はるかは演奏の準備のために屋上を後にした。最後に一度だけ振り返り、屹立した山麓を背にした千賀の姿を思い浮かべた。



「さぁ、いよいよ学園祭初日の締めくくり、アンサンブル部の演奏となりました。曲は二曲、混成八重奏の『インパルシブ』とフルート三重奏の『想い出は銀の笛』をご来場の皆様にお届けいたします! ここ城西高等学校のアンサンブル部は毎年、地方大会を突破して県大会へ出場しています。今年こそは全国――」

前置きの解説が入る間、北川のグループ八名がそれぞれの楽器を携えてステージに登壇し準備を進める。皆、真剣な表情で準備にあたっていて、演奏に賭ける意気込みがひしひしと感じられた。

舞台下では涼太と麗、そしてはるかがフルートを手に並び、次の演奏に備えていた。

はるかは演奏を成功させるために、涼太に言わなければならないことがあった。出番を前にして早まった鼓動はさらに加速する。勇気を振り絞り、涼太にだけ聞こえるよう、こっそりと耳元で囁いた。

「高円寺先輩、あの……差し出がましいと思うんですけれど、いいですか」

「なんだ、花宮」

涼太は何かと思い腰をかがめて首をはるかに傾ける。

「高円寺先輩、麗先輩の気持ちって、考えたことありますか。すごく優しい人ですけど、今まで自分のこと、あまり他人に言わなかったと思うんです」

「麗の、気持ち……?」

はるかが口にした言葉に涼太は眉根を寄せる。正直、涼太にはその意図が理解できていない。

「麗先輩のことをもう少し気にかけてあげたらどうですか。そうしたらふたり、きっと素敵なハーモニーが奏でられますよ」

はるかだけはふたりのすれちがいに気づいていた。だからどうしても麗の気持ちを涼太に伝えてあげたかったのだ。

「あたし、これから高円寺先輩の願いを叶えようと思うんです。もしもうまくいったら、そのときはちゃんと、麗先輩に目を向けてあげてくださいね」

その言葉に涼太ははっとして目を見開く。

「そっ、それはどういう意味で言っているんだ、花宮。まさか、貴音さんの事なのか……?」

涼太はあからさまに動揺し声が震えている。先日、麗が言っていた、はるかと千賀が音楽で繋がっているという非科学的な仮説を思い出したのだ。

「教えてくれ、君と貴音さんは、いったいどういう関係――」

続く言葉は壮大な旋律によってかき消された。北川のグループが曲を奏で始めたのだ。はるかはそれ以上何も言わず、ただ、ステージ上に目を向けて北川たちの演奏を見守っている。

涼太ははるかの真意を探りたかったが、真剣なはるかの表情を目にして口を閉ざした。

煮えたぎるような熱量で沸き立つ旋律は、音色を耳にした聴衆を骨の髄まで震わせるほどの圧倒的な迫力だった。

サクソフォンが、トランペットが、ホルンが、チューバが、そしてトロンボーンが夕暮れの空気を容赦なく震わせる。個性豊かな楽器の音色が絡み合い、竜巻のように空高く噴き上がっていく。八人の若者が全力で注いだ情熱の塊の旋律は、聴く者すべての心を震わせた。

な、な、なんて迫力っ!

はるかは全身に鳥肌が立ち、身震いが止まらなくなった。

そして絡みあう旋律の中でも北川のトランペットの音色は圧巻だった。重厚でいて繊細、そしてひとつひとつの音を繋ぎ合わせる滑らかなグリッサンド。高校生の奏でた音色とは思えない、至高のメロディといっても過言ではなかった。

他の七人も選考会の時点とは比べられないほど上達していて、隙のない濃密な音色を思うがままに放っていた。

曲がフィナーレを迎えた。迫力に気圧された聴衆たちは拍手を送ることすら忘れている。しばらくしてどこからかひとつ、手を叩く音が聞こえると、それは人から人へと伝播してしだいに会場を満たす喝采へと昇華した。

すごい、みんなほんとうにすごい!

この選曲は未来への架け橋だと、はるかは実感した。これから北川は音楽とともに未来へ歩いてゆくのだと確信できた瞬間だった。安堵と満足の表情に満たされたメンバーは、並んで深々と頭を下げた後、そそくさと舞台を降りてゆく。

はるかはフルートを手にしてステージ横の階段下に立ち、舞台の入れ替わりを待つ。下りてきた菜摘は何も言わなかったけれど、すれ違った瞬間、意を決して菜摘の背中に声をかけた。

「菜摘の演奏、すごかったよ。コンクールも頑張って!」

菜摘は一瞬だけ足を止め、背を向けたまま小さくこくりとうなずいた。

菜摘の背中を見送ってから西空の彼方に目を向ける。太陽が辺縁を揺らめかせながら地平線に沈みゆく。今日の夕景はやけに眩しく見えた。

時は来た。

はるかは手のひらで紅の光線をさえぎり、口元を引き締めて一歩、足を踏み出した。