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その日の帰り、麗はみずから涼太に声をかけ、ふたりで喫茶店を訪れていた。慣れ親しんだ行きつけの店だ。席に腰を下ろし、いつもと同じ飲み物を注文してから麗が話し始める。
「ねぇ、涼太。なんだか不思議だと思わない? 私、ちょっと変なことを考えているのかもしれないんだけどね」
妙な切り出し方をした麗だったが、涼太はその意図にすぐさま気づいた。
「ああ、花宮のことだな。確かに近頃の上達ぶりは凄まじい。いや、異常と言った方がいいだろう。部活のない日にいったいどこで練習しているのか知らないけれど、俺たちが教えた日よりも、空白の日を挟んだ後に急激に上手くなっている。誰かが教えているんじゃないかと思うんだ」
涼太は頬杖をついて考え込む。麗は涼太が同じ疑問を抱いていたのだと知るとすかさず切り込む。
「私ね、この前の選考会の後、花宮さんの後をつけていったの。そしたら不思議なことにねぇ……」
言いながら小首をかしげる麗。『この前の選考会』というのは『涼太がはるかに告白しているところを目撃した日』のことだが、それは互いにわかっていながら口にしなかった。
そこでマスターがカップをふたつ、テーブルにそっと置いた。
「ミルクティーにグアテマラのブラックです」
マスターは普段よりも控えめに言う。ふたりが深刻な表情をしているからだ。マスターの気遣いに麗は小さくおじぎしてから続ける。
「屋上に向かっていって、誰かと話していたみたいなの。だけどその後、屋上を覗いてみると、そこには誰もいなかったのよ」
「独り言じゃないのか? あるいは愚痴とか」
麗はそういう意味ではないと首を横に振る。
「じつは気になって何度か後をつけてみたんだけど、いつもそう。花宮さんは部活が終わったら屋上へ向かっていたわ。仲が良かった山村さんとは一緒に帰らないし、最近は話すらしていないみたいだし。しかも部活のない日でさえ、決まって夕暮れ時に屋上を訪れているの。誰もいない屋上にね」
涼太が麗の表情に目を向けるとその顔は大真面目で、言うことが冗談でないことは明白だった。涼太も思考を一巡させ、思い当たることを麗に言う。
「ふむ、じつはな、花宮は貴音さんのことを知っていた」
「えっ?」
麗は目を丸くして勢いよくテーブルに両手をつく。腰が浮き上がった。
「間違いない。自分から『千賀先輩』と口にしたからな。だけど現在の貴音さんがどんな状況なのか、まるで知らなかったんだ」
「それって……ちょっと待って!」
麗は身を乗り出して涼太に顔を近づける。冷静沈着な麗らしからぬ興奮した様子で言う。
「もしもの話をするんだけどね、たとえば千賀先輩が幽霊で、花宮さんに会って音楽を教えているとしたら?」
「おいおい、何を言い出すんだよ」
麗の仮説を一笑する涼太。
「幽霊なんて非科学的なことをお前が言い出すなんて。しかも校舎の屋上かよ」
そう言ってから涼太ははっとする。
校舎の屋上、か――。
涼太は千賀が倒れて以来、屋上を訪れるのが恐くなりその場所に足を運ぶことはなかった。けれど場所が場所だけに妙に胸が騒ぐ。
永遠を誓い合ったあの日、千賀が屋上で言った言葉を思い出す。いや、正確には『フィーネの旋律』の中でなされた、魂の語らいだ。
『僕はこうやって音楽で世界を描くこと、それに魂を込めた旋律で語りあうことができる』
貴音さんの魂が、音楽で花宮と繋がっているのか?
しかし涼太はそれ以上何も言えなかった。非科学的といっておきながら実体のないものの存在を肯定したこと、それに自身がいまだ抱いている千賀への生々しい想い、そのどちらも麗に知られたくなかったからだ。すぐさま話題を切り替える。
「でも麗、お前受験勉強と自分の練習もしなきゃいけないのに、他人の詮索をする余裕なんてあるのかよ。それとも女の勘ってやつか」
急に話を逸らした涼太にむっとして麗は言い返す。
「ええ、そうよ。でもあなた、女の勘って、私のこと一応、女として見てくれているわけ?」
あてつけのような非難的な口調だった。涼太は麗のそんな言い方は、長い付き合いの中で一度も聞いたことがなかった。よほど気に障ったのだろうと思い黙り込む。
けれど麗は麗でスイッチが入ってしまったようで、荒い口調で不満を口にする。今まで心の中に閉じ込めていたことがどっと溢れ出す。
「言わせていただくけどね、涼太、花宮さんのことほんとうはなんとも思ってないでしょ。それなのになんで告白なんかするわけ? みんな、あなたが告白したことを口々に噂しているわよ。花宮さんが不条理に妬まれかねないわ」
「おいっ、なんで今その話を持ち出してくるんだよ。だいたい、花宮が貴音さんのことを黙っているから訊き出そうとしただけだ」
けれど麗の高まった感情は収まることがなかった。むしろ火に油を注いでしまったようだ。
「花宮、貴音さん、花宮、貴音さん、って、最近の涼太、千賀先輩と花宮さんのことばっかり!」
うつむいて両手を強く握りしめる。その手はひどく震えていた。
「おいおい、女の勘っていうよりは感情論じゃないか。ぜんぜん科学的じゃない。麗、ひょっとして、花宮に妬いているのか」
麗はぽっと顔を赤らめた。何気なく口にした一言はまさにご名答。だからこのときばかりは、気丈な麗の理性はどこかへ吹き飛んでしまった。
「そういう問題じゃないでしょう、ほんとうにあったまきた! 涼太は、頭はいいけど鈍いんだからっ!」
「なんだよ、俺が何か間違ったことを言ったのかよ」
いつになく気が立っている麗にたじろぐ涼太。
「いいわよ、もうっ! 馬鹿と天才、紙一重の紙にはおっきな穴が空いていたわ!」
そう言って麗は席を立つ。椅子を引く音が響くとマスターは同時に黙ってレジへと向かう。
麗はマスターを引き止め、涼太に聞こえるよう、はっきりと言う。
「大丈夫です、お会計は涼太が払うから」
その表情は麗が今まで涼太に見せたことのない、ごくありふれた、不貞腐れた女子の顔そのものだった。
その日の帰り、麗はみずから涼太に声をかけ、ふたりで喫茶店を訪れていた。慣れ親しんだ行きつけの店だ。席に腰を下ろし、いつもと同じ飲み物を注文してから麗が話し始める。
「ねぇ、涼太。なんだか不思議だと思わない? 私、ちょっと変なことを考えているのかもしれないんだけどね」
妙な切り出し方をした麗だったが、涼太はその意図にすぐさま気づいた。
「ああ、花宮のことだな。確かに近頃の上達ぶりは凄まじい。いや、異常と言った方がいいだろう。部活のない日にいったいどこで練習しているのか知らないけれど、俺たちが教えた日よりも、空白の日を挟んだ後に急激に上手くなっている。誰かが教えているんじゃないかと思うんだ」
涼太は頬杖をついて考え込む。麗は涼太が同じ疑問を抱いていたのだと知るとすかさず切り込む。
「私ね、この前の選考会の後、花宮さんの後をつけていったの。そしたら不思議なことにねぇ……」
言いながら小首をかしげる麗。『この前の選考会』というのは『涼太がはるかに告白しているところを目撃した日』のことだが、それは互いにわかっていながら口にしなかった。
そこでマスターがカップをふたつ、テーブルにそっと置いた。
「ミルクティーにグアテマラのブラックです」
マスターは普段よりも控えめに言う。ふたりが深刻な表情をしているからだ。マスターの気遣いに麗は小さくおじぎしてから続ける。
「屋上に向かっていって、誰かと話していたみたいなの。だけどその後、屋上を覗いてみると、そこには誰もいなかったのよ」
「独り言じゃないのか? あるいは愚痴とか」
麗はそういう意味ではないと首を横に振る。
「じつは気になって何度か後をつけてみたんだけど、いつもそう。花宮さんは部活が終わったら屋上へ向かっていたわ。仲が良かった山村さんとは一緒に帰らないし、最近は話すらしていないみたいだし。しかも部活のない日でさえ、決まって夕暮れ時に屋上を訪れているの。誰もいない屋上にね」
涼太が麗の表情に目を向けるとその顔は大真面目で、言うことが冗談でないことは明白だった。涼太も思考を一巡させ、思い当たることを麗に言う。
「ふむ、じつはな、花宮は貴音さんのことを知っていた」
「えっ?」
麗は目を丸くして勢いよくテーブルに両手をつく。腰が浮き上がった。
「間違いない。自分から『千賀先輩』と口にしたからな。だけど現在の貴音さんがどんな状況なのか、まるで知らなかったんだ」
「それって……ちょっと待って!」
麗は身を乗り出して涼太に顔を近づける。冷静沈着な麗らしからぬ興奮した様子で言う。
「もしもの話をするんだけどね、たとえば千賀先輩が幽霊で、花宮さんに会って音楽を教えているとしたら?」
「おいおい、何を言い出すんだよ」
麗の仮説を一笑する涼太。
「幽霊なんて非科学的なことをお前が言い出すなんて。しかも校舎の屋上かよ」
そう言ってから涼太ははっとする。
校舎の屋上、か――。
涼太は千賀が倒れて以来、屋上を訪れるのが恐くなりその場所に足を運ぶことはなかった。けれど場所が場所だけに妙に胸が騒ぐ。
永遠を誓い合ったあの日、千賀が屋上で言った言葉を思い出す。いや、正確には『フィーネの旋律』の中でなされた、魂の語らいだ。
『僕はこうやって音楽で世界を描くこと、それに魂を込めた旋律で語りあうことができる』
貴音さんの魂が、音楽で花宮と繋がっているのか?
しかし涼太はそれ以上何も言えなかった。非科学的といっておきながら実体のないものの存在を肯定したこと、それに自身がいまだ抱いている千賀への生々しい想い、そのどちらも麗に知られたくなかったからだ。すぐさま話題を切り替える。
「でも麗、お前受験勉強と自分の練習もしなきゃいけないのに、他人の詮索をする余裕なんてあるのかよ。それとも女の勘ってやつか」
急に話を逸らした涼太にむっとして麗は言い返す。
「ええ、そうよ。でもあなた、女の勘って、私のこと一応、女として見てくれているわけ?」
あてつけのような非難的な口調だった。涼太は麗のそんな言い方は、長い付き合いの中で一度も聞いたことがなかった。よほど気に障ったのだろうと思い黙り込む。
けれど麗は麗でスイッチが入ってしまったようで、荒い口調で不満を口にする。今まで心の中に閉じ込めていたことがどっと溢れ出す。
「言わせていただくけどね、涼太、花宮さんのことほんとうはなんとも思ってないでしょ。それなのになんで告白なんかするわけ? みんな、あなたが告白したことを口々に噂しているわよ。花宮さんが不条理に妬まれかねないわ」
「おいっ、なんで今その話を持ち出してくるんだよ。だいたい、花宮が貴音さんのことを黙っているから訊き出そうとしただけだ」
けれど麗の高まった感情は収まることがなかった。むしろ火に油を注いでしまったようだ。
「花宮、貴音さん、花宮、貴音さん、って、最近の涼太、千賀先輩と花宮さんのことばっかり!」
うつむいて両手を強く握りしめる。その手はひどく震えていた。
「おいおい、女の勘っていうよりは感情論じゃないか。ぜんぜん科学的じゃない。麗、ひょっとして、花宮に妬いているのか」
麗はぽっと顔を赤らめた。何気なく口にした一言はまさにご名答。だからこのときばかりは、気丈な麗の理性はどこかへ吹き飛んでしまった。
「そういう問題じゃないでしょう、ほんとうにあったまきた! 涼太は、頭はいいけど鈍いんだからっ!」
「なんだよ、俺が何か間違ったことを言ったのかよ」
いつになく気が立っている麗にたじろぐ涼太。
「いいわよ、もうっ! 馬鹿と天才、紙一重の紙にはおっきな穴が空いていたわ!」
そう言って麗は席を立つ。椅子を引く音が響くとマスターは同時に黙ってレジへと向かう。
麗はマスターを引き止め、涼太に聞こえるよう、はっきりと言う。
「大丈夫です、お会計は涼太が払うから」
その表情は麗が今まで涼太に見せたことのない、ごくありふれた、不貞腐れた女子の顔そのものだった。