皆の喧騒が届くことのない校舎の端で足を止め、手に持ったフルートをじっと見つめる。

結局、なにも演奏できずじまいだったなぁ……。

ぼんやりと外の景色を眺めると、夕陽は姿を隠し、群青が空の主役になる頃合いだった。はるかの気持ちも風景につられるように夜を迎えていた。

これからは音符たちのことは気にしないことにしよう。あたしは音楽を生み出す才能はこれっぽっちもなかったんだから。

ふと、はるかは気づいた。どこからか流れてきたメロディに。

それは、やわらかくて優美なフルートの音色。

目の前に流れてきたのは、透き通るほどに澄んだ音符だった。

宝石のようにもみえるその音符は、薄闇の中でも眩しく輝いていた。

不思議な音色。こんな独特の音、聴いたことがない。いったい、誰が奏でているの?

はるかはその音色の正体、その音色を生みだしている人物を知りたくなった。好奇心からか、あるいは(すが)りたい気持ちからか、はるかの足は自然と音源に引き寄せられていった。

音色は階段を上った先、屋上からこぼれ落ちてきていた。気づかれないように足音を忍ばせて階段を上る。

踊り場を過ぎると屋上に続く扉が見えた。扉は少しだけ開いていて、そこからこぼれる淡い光彩がくすんだ廊下を色づけている。おぼろげな光の中で無邪気に踊る、透明な音符。不思議なフルートの音色はしだいに輪郭をあらわにしていた。

ああ、なんて綺麗な旋律なんだろう。

『想い出は銀の笛』

リズミカルでやわらかで、あたしの大好きな曲――。

はるかはその透き通った音符に手を伸ばし、一度は触れてみようとした。けれど、思い直してすぐさま手を引いた。鮮やかな音符を生み出せもしない自分が、その綺麗な音色に触れてしまうことが罪の行為のように思えたからだ。

すると、混迷したはるかを尻目に、音符はドアの隙間からさらりと流れ出て屋上に舞い戻った。はるかは自分が(いざな)われているように感じ、思わず音符を追いかける。しだいに踏み出した足のつま先まで、期待感が鼓動しているように感じられた。

扉を開けて屋上に顔を出すと、夕間暮れの景色に向き合って、フルートを奏でるひとりの男子学生の姿があった。

すらりと伸びた長い腕と脚のせいで、フルートの銀色の輝きがより映えてみえる。その男子生徒の背中を眺めていると、ふいにメロディが止んだ。

あっ、邪魔しちゃったかな?

好奇心を抱いた自分を後悔しつつ、少しだけ後ずさりする。勝手にメロディを聴いて怒ったかな、と不安になった。するとその生徒はゆっくりと振り向いた。はるかはその生徒の顔を確認したところですぐさま視線を逸らした。

その男子生徒は、はるかが見たことのない人だった。妙に大人っぽい、落ち着いた雰囲気。この学校の制服で、襟元には学年を示す『Ⅲ』のバッジがあった。

ふたつ上の先輩なんだ、あの人。高円寺先輩と同じだ。

三年生は今、受験勉強に集中している時期のはずだ。涼太や麗のように部活動に時間を割いている受験生は稀である。だから屋上で楽器を演奏しているのは、勉強の合間の気晴らしなのかなとはるかは察した。

男子生徒ははるかを一瞥すると視線を山々の稜線へと戻し、ふたたびフルートを吹き始めた。

よかった。気にしていないみたい。そしたら少しだけ、聴かせてもらおうかな。

はるかは色とりどりのビオラが咲く屋上庭園の花壇に視線を移す。その(ふち)に腰をかけ、フルートのメロディで冷えた心を満たしてゆく。男子生徒の奏でる透明な音色は風に乗って空の彼方へと消えてゆく。

ああ、綺麗な旋律。あたしもこんな、心が安らぐようなメロディを奏でられたらなぁ。

手に持ったフルートに視線を向ける。はるかはしばらくの間、そのフルートをじっと見ていた。けれどその音色を聴いているうちに、自分もまたフルートを奏でたいと思い始めた。

あの人の音色が導いてくれれば、あたしでも上手に奏でることができそう。

(いざな)われるようにフルートを口元にあてがい、ささやかな音量で吹き鳴らす。男子生徒の奏でるメロディにそっと乗せてゆく。

するとはるかの胸の内から、不思議な感覚が沸き起こってきた。

なんだろう、あたしのフルートの音色が透き通って、いきいきしてくる感じ。

『想い出は銀の笛』は、本来なら四重奏あるいは三重奏で合奏するための曲だ。けれどたったふたりで奏でる満たされないパートはアレンジの空間となって、自由なパートの往来を許してくれていた。

はるかは悪戯心から突然、異なるパートに飛び込んだ。すると彼のメロディも別のパートに乗り移り、ふたりは跳ねるような音遣いで追いかけっこを始める。奏でるメロディは乱雑で楽し気で、そして何にも縛られていなかった。脳裏に焼きついている譜面の五線は自由気ままな風になって、はるかの意識を超えて群青の空に舞い上がり、音符たちを迎えていた。

はるかはそのとき、この屋上がしだいに表情を変えながら煌いていることに気づいた。彼の奏でる主旋律が群青に染め上がった空に舞い上がる。ちらちら、ちらちらと。

すると彼の澄んだ音符はまるで瞬く星のようになり、この屋上に深遠な空間を創り上げた。

はるかは音符の描く旋律のプラネタリウムに、心地よい胸の高鳴りを感じていた。メトロノームのような、リズミカルなときめき。

はるかのフルートからも、澄んだ音符が飛び立った。自由奔放に夜空を舞い踊る。音符の期待に応えるかのように、はるかが副旋律でメロディを掴まえると、ふたつの音色が空を駆ける。まるでふたりが、手を繋いでステップを踏むように。

あはっ、すごく楽しい。それにとっても素敵!

それから流れに乗るようにふたりのメロディは同じパートで合流し、申し合わせたようなユニゾンになった。

けれど順調だと思った演奏も長く続かなかった。突然、はるかの息が乱れて音が割れた。

しまったっ!

全身がじりっと冷たく汗ばむ。

そのとき、彼はメロディのリズムをごく自然に落としてくれた。まるで歩みを遅くして、追いつくのを待つかのように。

あっ、なんか優しい……。

振り返ることもない彼に、胸の奥がくすぐられた気がした。はるかは演奏を続けながら彼に歩み寄る。いや、自然と足が彼に向かって歩みだしていた。

一歩、また一歩。

高鳴る胸の鼓動にメロディのリズムが乱されないようにと神経を集中する。はるかはいつのまにか彼の隣にまで歩み寄っていた。まるで魔法をかけられたかのようだった。

演奏がついにフィナーレを迎えた。群青を深める空がメロディの余韻を吸い込んでゆく。音符たちも満足気に旅立った。