それから一年半が経った。屋上から見下ろす音楽室にはまだ、涼太と麗の姿かあった。しかし他の部員たちの姿は見られない。千賀はふたりがかつての自分と同じ立場になったのだと察した。

必然的に新顔が目立つようになった。今年は女子が多いようだ。サクソフォンの上手な新人の女子がひとりいる。けれど音符たちは彼女の隣を素知らぬ顔で通り過ぎていった。どうやら彼女に音符を掴む能力はないようだ。

ところがその音符が突然、ぱりんと破裂した。千賀は驚きで息が止まりそうだった。集中して音符の挙動を注視すると、その犯人はサクソフォンの上手な女子のすぐ隣にいた。

ついに見つけた!

最初は信じられなかった。けれど彼女は確かに音符を目で追い、指先で触れ、音符に秘められた奏者の感情を楽し気に読み取っていた。

あの子は間違いなく、音色を掴まえている。僕以外でははじめて出会った、稀有な存在だ。けれど彼女はまだ僕を知らない。まずは彼女に接触しなければ。そして、もしも彼女に『フィーネの旋律』を奏でさせることができれば――。

その子の名は「花宮はるか」。ボブカットで笑顔の可愛い、一年生だ。

そして半年、僕は君を監視し続けていた。素晴らしい能力を持っていたにもかかわらず音楽が初心者だとは意外だった。目も当てられないフルートの演奏だったから、このぶんでは音楽の神とやらが納得することはないだろう。

秋が訪れた頃、君は偶然にもそのひどい音色がきっかけとなって屋上を訪れることになった。まさに奇跡の巡り合わせとしかいいようがない。

僕はすぐそばの廊下まで来た君を、フルートの音色で屋上へと(いざな)った。まったく、美しい歌声で人間を惑わせるセイレーンの気分だった。だから演奏する曲も『想い出は銀の笛』ではなくて『ドビュッシーの夜想曲』を選んだ方が似合っていたのではないだろうか。

彼女は確かにその耳で僕の音色を聞き分け、その目で音符を掴まえていた。不思議なことに僕と音色で触れ合う君は神々しいほどに美しいメロディを奏で始めた。空高く舞い踊る音符は、失われたはずの僕の五感のすべてに訴えていた。僕は確かに、君が『フィーネの旋律』を奏でられるフルート奏者なのだと信じることができたのだ。

『とっても素敵なメロディだったので、つい……邪魔しちゃって怒っているんじゃないかなって心配したんですけど』

ふたりのはじめての演奏が終わった後、君は確かにそう言った。

怒っているはずなどないだろう。むしろ心待ちにしていたんだ、君のことを。

『じゃあ、約束しよう。君が自信を持って演奏できるように、僕のメロディを君にあげるよ。だからちゃんと、(もら)ってくれないか』

そう、君には是非とも上手くなって欲しい。僕は君が僕の前に現れたのは、僕と涼太をふたたび巡り合わせるための、運命の計らいだと思えたのだから。

『神様は無駄なものなど、何ひとつ与えたりしないものだよ』

そう言ったとき、僕は思いついていたんだよ。我ながら最高のシナリオだ。

涼太が僕とふたたび演奏できる日を願ってやまないことを、僕は重々承知していた。彼が幾度となく病室を訪れ僕に話しかけているとき、僕もその場にいたのだから。眠ったままの僕にキスをしていたことさえも知っていたんだ。僕はまるで『眠れる森の美女』のようだった。

だから僕は君が『フィーネの旋律』に辿りつけるよう、意味深な言葉で意識させたのだ。涼太と僕を引き合わせる世界を君が描きたいと思えるように。

『はるか、君は音が掴めるだけじゃない。君の音色はとても不思議な風を感じさせるよ。まるで世界を描くような、と言ったらいいのかな』

だけど完全な旋律でなくとも、君はすでにその才能を開花させていた。君が北川の家で『海の見える街』を奏でたとき、そこにいた人たちは確かに海の風景の中に連れていかれた。そして君は気を失って――いや、一瞬だが仮死状態となり、魂だけが学校の屋上へ迷い込んだ。僕は正直驚いた。まさか君がここまでの才覚の持ち主だったとは。

しかも君は僕の現在の状態を涼太から伝えられて知り、ここにいる僕が実体のない存在だと認識してしまったにも関わらず、それでも僕に曲を教えて欲しいと願った。

まったく、想定以上に順調だ。このまま上手くいけば君は僕の代役を務めることができるだろう。いや、君のような素直な子なら、神でさえ文句なしにお気に召すことだろう。

そして『フィーネの旋律』を奏でるための絶好のチャンスが控えている。君が涼太と一緒に皆の前で演奏する機会だ。

そう、学園祭で行われるコンクールの予行演奏。場所は涼太と僕が出会った、その舞台(ステージ)だ。