★
かつて天界には、九人の音楽の女神が存在していました。
そのひとりが天界を抜け出し、地上に舞い降りました。女神が森の中で歌うとさまざまな楽器の音色が生まれました。その音色を耳にしたひとりの男性が女神の存在に気づきました。
その頃、人間はまだ音楽というものを知りませんでした。男性は、桃色の唇からさまざまな美しい旋律を奏でる女神に惹かれます。天界しか知らなかった女神もまた、地上で生きる野性的な男性に惹かれます。そしてふたりは恋に落ち逢瀬を繰り返しました。
そして男性は人類ではじめて、音楽を知る人間となりました。
ところが神々の世界にだけ存在した音楽を人間に教えたことは、至上神の耳に届き逆鱗に触れます。そして女神は男性と引き裂かれ、天界に連れ戻されるのです。
永訣のときを迎え、女神は涙をこぼしながら男性にこう伝えました。
「どうかあなたが受け取ったわたしの音色を、たくさんの人間に伝えて下さい。音楽が世界中に広まれば、ときに神々の旋律と同質の音楽を生みだす者が現れるでしょう。あなたとわたしの愛の結晶である者は、その証として音色を視、旋律で世界を描くことができます。そして、音楽の神髄に辿り着いたその者は、音色となって神々の世界に還ることができるのです。音楽の母である、この私のもとに」
★
まさか。そんなこと、ただのお伽話にすぎない。だが、そうだとすれば、完璧な「世界を描くメロディ」を演奏できた者は、魂が音符となり、神の懐に抱かれる運命を迎えるということなのか。
千賀は頭を抱え込んでひざまずいた。その頭上から瀧の重々しい声が降りかかる。
「あなたがどのように解釈するかはわかりませんが、今、音符となったあなた自身がまさにその証だと思いませんか」
「だから僕は死んだのですか。愛し合った女神と人間の約束のために殺されたと?」
千賀は瀧を睨んで言う。しかし瀧は小さく首を横に振り、意味ありげに口角を上げた。
「奏でたではないですか。貴方がいうところの、『フィーネの旋律』を。貴方は今やまさに神の領域の奏者です。魂が神に導かれるのも当然の運命なのです」
千賀は瀧の意図することが痛いほどに理解できていた。
僕は気づかなかった。『フィーネの旋律』は、奏でてはいけない音楽だったことを。そして、どうしてその事実が知られていなかったのかを。
それは、「世界を描くメロディ」の演奏を成功させた者は、その瞬間に死の運命が決定づけられるからだ。
名だたる音楽家たちは、若くして亡くなった者も多い。ショパン、モーツァルト、シューベルトなど。彼らも同じ能力の持ち主だったのでは、と千賀は勘案した。
「私は結核に罹患し人生の終幕を自覚したとき、愛する女性を自分の音色の世界に誘い、彼女と意識を共有しました。死因は表向きでは病死として伝えられていますが、こうして世界の音色のひとつとして存在しています。その運命に誇りすら感じています」
この人は、そうして亡くなったのかと千賀には納得しかなかった。瀧は言葉を繋いで千賀を諭す。
「『フィーネの旋律』を奏でた者は、『悠久の約束』により女神の懐に抱かれるのです。神々の世界に迎え入れられるとなれば、あなたも誇らしい気持ちになれるでしょう」
しかし千賀は抗い拒絶する。千賀自身の生きる意味は現存の世界の中にあるのだ。
「嫌だ! 僕は涼太をひとりにはできない。戻って涼太と演奏するんだ。神など、僕が生きてゆくには必要のないものだ!」
瀧は目を伏せて深いため息をひとつつき、今度はためらいがちにこう告げた。
「でも、貴方でなければならないともいえません。女神の得心があれば、あなたの魂は『悠久の約束』から解放されることでしょう」
「得心……? それはいったい、何なんですかっ!」
千賀は目を見開き、瀧にその意図を詰問する。瀧は声を小さく低くして、それがけっして許されざる行為なのだという意図を醸して言う。
「もしも神の寵愛を享受できる人間がこの世界に存在し、その人間がメロディで完璧な世界を描けたのであれば、神の寵愛の対象は貴方でなくともよくなります。必然的に貴方の魂は解放されることでしょう」
つまり、僕と同じ特性を持つ人間がいて、『フィーネの旋律』を奏でられるのであれば……。
千賀はおそるおそる尋ねる。
「もしも、そのような人間を見つけたら、ということですね」
「はい。無論、音符に触れられるだけではその資格はありません」
千賀には自分と同じ能力を持つ人間の心当たりはなかった。音符を目で追い指先を掲げる、そんな仕草をする人間に接したことすらなかったからだ。
「ですが、あなたの魂の猶予は三年とない、と私は見たてています。どうか早急の決断とご自愛を」
そう言い残して、瀧は屋上から姿を消した。千賀は瀧が消えた空を見上げながら、ただ茫然と立ち尽くしていた。
かつて天界には、九人の音楽の女神が存在していました。
そのひとりが天界を抜け出し、地上に舞い降りました。女神が森の中で歌うとさまざまな楽器の音色が生まれました。その音色を耳にしたひとりの男性が女神の存在に気づきました。
その頃、人間はまだ音楽というものを知りませんでした。男性は、桃色の唇からさまざまな美しい旋律を奏でる女神に惹かれます。天界しか知らなかった女神もまた、地上で生きる野性的な男性に惹かれます。そしてふたりは恋に落ち逢瀬を繰り返しました。
そして男性は人類ではじめて、音楽を知る人間となりました。
ところが神々の世界にだけ存在した音楽を人間に教えたことは、至上神の耳に届き逆鱗に触れます。そして女神は男性と引き裂かれ、天界に連れ戻されるのです。
永訣のときを迎え、女神は涙をこぼしながら男性にこう伝えました。
「どうかあなたが受け取ったわたしの音色を、たくさんの人間に伝えて下さい。音楽が世界中に広まれば、ときに神々の旋律と同質の音楽を生みだす者が現れるでしょう。あなたとわたしの愛の結晶である者は、その証として音色を視、旋律で世界を描くことができます。そして、音楽の神髄に辿り着いたその者は、音色となって神々の世界に還ることができるのです。音楽の母である、この私のもとに」
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まさか。そんなこと、ただのお伽話にすぎない。だが、そうだとすれば、完璧な「世界を描くメロディ」を演奏できた者は、魂が音符となり、神の懐に抱かれる運命を迎えるということなのか。
千賀は頭を抱え込んでひざまずいた。その頭上から瀧の重々しい声が降りかかる。
「あなたがどのように解釈するかはわかりませんが、今、音符となったあなた自身がまさにその証だと思いませんか」
「だから僕は死んだのですか。愛し合った女神と人間の約束のために殺されたと?」
千賀は瀧を睨んで言う。しかし瀧は小さく首を横に振り、意味ありげに口角を上げた。
「奏でたではないですか。貴方がいうところの、『フィーネの旋律』を。貴方は今やまさに神の領域の奏者です。魂が神に導かれるのも当然の運命なのです」
千賀は瀧の意図することが痛いほどに理解できていた。
僕は気づかなかった。『フィーネの旋律』は、奏でてはいけない音楽だったことを。そして、どうしてその事実が知られていなかったのかを。
それは、「世界を描くメロディ」の演奏を成功させた者は、その瞬間に死の運命が決定づけられるからだ。
名だたる音楽家たちは、若くして亡くなった者も多い。ショパン、モーツァルト、シューベルトなど。彼らも同じ能力の持ち主だったのでは、と千賀は勘案した。
「私は結核に罹患し人生の終幕を自覚したとき、愛する女性を自分の音色の世界に誘い、彼女と意識を共有しました。死因は表向きでは病死として伝えられていますが、こうして世界の音色のひとつとして存在しています。その運命に誇りすら感じています」
この人は、そうして亡くなったのかと千賀には納得しかなかった。瀧は言葉を繋いで千賀を諭す。
「『フィーネの旋律』を奏でた者は、『悠久の約束』により女神の懐に抱かれるのです。神々の世界に迎え入れられるとなれば、あなたも誇らしい気持ちになれるでしょう」
しかし千賀は抗い拒絶する。千賀自身の生きる意味は現存の世界の中にあるのだ。
「嫌だ! 僕は涼太をひとりにはできない。戻って涼太と演奏するんだ。神など、僕が生きてゆくには必要のないものだ!」
瀧は目を伏せて深いため息をひとつつき、今度はためらいがちにこう告げた。
「でも、貴方でなければならないともいえません。女神の得心があれば、あなたの魂は『悠久の約束』から解放されることでしょう」
「得心……? それはいったい、何なんですかっ!」
千賀は目を見開き、瀧にその意図を詰問する。瀧は声を小さく低くして、それがけっして許されざる行為なのだという意図を醸して言う。
「もしも神の寵愛を享受できる人間がこの世界に存在し、その人間がメロディで完璧な世界を描けたのであれば、神の寵愛の対象は貴方でなくともよくなります。必然的に貴方の魂は解放されることでしょう」
つまり、僕と同じ特性を持つ人間がいて、『フィーネの旋律』を奏でられるのであれば……。
千賀はおそるおそる尋ねる。
「もしも、そのような人間を見つけたら、ということですね」
「はい。無論、音符に触れられるだけではその資格はありません」
千賀には自分と同じ能力を持つ人間の心当たりはなかった。音符を目で追い指先を掲げる、そんな仕草をする人間に接したことすらなかったからだ。
「ですが、あなたの魂の猶予は三年とない、と私は見たてています。どうか早急の決断とご自愛を」
そう言い残して、瀧は屋上から姿を消した。千賀は瀧が消えた空を見上げながら、ただ茫然と立ち尽くしていた。