千賀は自身に起きたことを受け容れられず、茫然としていた。

発作性不整脈と低酸素脳症による植物状態、それが医師の診断だった。

いや、そんなはずはない。僕は確かにここにいる。手足を動かすこともできるし、フルートも演奏できる。何ひとつ変わったことなどないというのに。

千賀は壁にもたれて、病室の様子をぼんやりと眺めていた。突っ伏して泣きじゃくる母、立ちすくみ微動だにしない涼太、それに涼太を気遣う麗。そして、ベッドには横たわる千賀自身の姿があった。

涼太が虚ろな目をしてぼそっとこぼす。

「俺は信じない……信じるもんか……」

そうだ、信じられるものか。僕は涼太とコンクールで演奏するんだ。これから一緒に全国を目指すんだよ。そうだろ、涼太?

千賀の右手にはフルートが握られていた。使い慣れた鈍い銀色の筐体。千賀は涼太に気づいてもらおうとそれを構え、息を吹きこむ。いつもと変わらない、澄んだ音色が響き渡った。

まぶたを閉じで曲を奏で続ける。その間、千賀は嬉しそうに聴き入る涼太の姿を想像していた。そして曲を奏で終え、そっと目を開く。

ところが目の前の光景はまるで変化がなかった。病室にいる誰もが千賀の演奏に気づいていなかったのだ。そしてはじめて、千賀は自分がどのような存在であるのかを認識するにいたった。

ははっ、魂だけが彷徨っているって、こんな感じなんだ。また、孤独が訪れたみたいだ。

それからの千賀はおぼろげな意識のまま、学校の屋上へと向かった。辿り着くとビオラの咲く花壇の縁に腰を下ろし、かすかなオレンジを残す地平線を眺める。いつもと変わらない、屋上から見下ろす風景。

千賀はずっと、その場所で時が過ぎるのを待っていた。ここにいれば涼太がふたたび訪れ、ふたりで演奏できるかもしれないと思ったからだ。

屋上には学校の生徒たちがたびたび訪れる。たいていは花壇の手入れのためにやってくる園芸部員で、まれに愛の告白の呼び出しと、いじめやたかりの場面があった。実在していた時にはなかなかお目にかかれない光景だ。

勇気を出して告白した女の子が振られて落ち込み涙する姿に慰めの言葉は届かず、多勢に無勢の卑怯ないじめを止めようとしたがまるで無力だった。幾度となくフルートを演奏したが、その音色は誰の耳にも届くことはなかった。

それからしばらく経ったある日のこと。

深夜、誰もいないはずの屋上に人の気配が漂った。目を凝らすと、群青の幕が引かれた空を背にしてひとりの男性が佇んでいる。千賀と同じくらいの身長で、やや細身の若い男性だ。足音を立てることなく千賀に近づいてきた。千賀はその男性の顔を見て瞠目する。

「あなたは――瀧廉太郎さん、ですよね」

「その通りです。かつての名前ですが」

瀧は千賀を直視し、ためらうことなく答えた。

「端的に申しますと、私は貴方を迎えに来ました。しかし意外なことですが、現代の医療は貴方に不要な未練を与えたようです。ですからもう少しだけ、時間が要るのでしょう」

ああ、そういうことなのか。どこかで聞いたことがある。冥府に旅立つ時には使者(死者)が迎えに来るのだと。でもどうして音楽家が?

千賀の懐疑的な表情を察して瀧は言う。

「あなたはなぜ、自身がこのような運命を迎えることになったのか、ご存じないようですね。この能力を持って生まれた者に定められた、僥倖(ぎょうこう)運命(さだめ)を」

「僥倖の運命……?」

千賀は理解が追いつかず眉根を寄せる。

「そう、世界を描く音楽とは、人類が神より音楽を授かったときから続く、『悠久の約束』なのです」

そう前置きをして、瀧はこの能力が生まれた「神話」について語り始めた――。