――二年半前。桜色の季節。

放課後の音楽室では、真新しい制服をまとう九名の学生が等間隔で檀上に並んでいる。皆、緊張の面持ちをしていて初々しい。

「ようこそ、アンサンブル部へ。今年は期待できる新入部員が多いと聞いている」

皆を眺めて千賀は嬉しそうに言う。男子が六名、女子が三名。常に県大会へ出場し続けている城西高等学校のアンサンブル部だから、この盛況ぶりは毎年のことだ。その中には涼太と麗の姿があった。

三年生のうち、数人は春のコンクールが終わった後も部活を続けていて、千賀もその中のひとりだった。一学期いっぱい、部長の役を務めることになっていた。

「じゃあ、ひとりずつ挨拶していこうか。得意な楽器のことも話してくれ」

皆、誰から言い出そうかと迷いもぞもぞする。そこで涼太はすかさず手を上げ一番に名乗り出た。

「高円寺涼太です。今はフルートを練習しています。千賀先輩、俺のことを覚えていらっしゃいますか」

その挨拶を聞いて千賀はぱっと表情に光が灯る。

「去年、学園祭を見に来てくれた子だね。ちゃんと覚えているよ。あのときは声をかけてくれてありがとう。嬉しかったよ」

「おっ、俺は先輩の音色に惹かれてこの部活に入りました。よろしくお願いしますっ!」

「ああ、よろしく頼むよ」

右手を差し出すと、千賀は涼太の手のひらを両手で包み込み、まじまじと顔を見る。涼太は頬を赤らめて目を逸らせた。まるで胸をときめかせた女子のように、やたら照れ臭そうだった。そして涼太のすぐ隣に並んでいた麗は、その奇妙な反応を目にして胸のざわめきを感じていた。

麗はすでに気づいていた。涼太がこの高校を志望したのは千賀を追いかけてのことなのだと。けれど進路の選択において、そんな安易な決断をした涼太を否定することはできなかった。

麗もまた、涼太と過ごす高校生活を願って同じ進路を選択したのだから。

それから涼太はことあるごとに千賀にフルートを教えてもらいたいのだとせがむようになった。千賀は涼太のために惜しげもなく時間を費やした。

「千賀先輩、今日、この後空いていますか」

「ああいいよ、いつもの所で練習するか」

部活が終わると同時に、ふたりは残練しようといって屋上へと向かう。そしてフルートの音色を暮れゆく空に放っていた。くる日もくる日も仲睦まじく合奏を続けていた。

ふたりには誰も割り込めない雰囲気があり、まるで逢瀬を繰り返す恋人のようだと部員たちに冷やかされていた。その甲斐あって涼太はめきめきと腕を上げ、独特の情熱的な音色に磨きをかけた。それは千賀の絹糸のようにきめ細かな音色と絶妙にマッチして、華麗なハーモニーを醸し出していた。

だから涼太が一年生にしてコンクールのメンバーに選ばれたのは、誰もが納得する結果だった。

フルート四重奏で地区大会を勝ち残り、県大会への出場が決まった時のことだった。「今年は期待できる」「全国が近づいている」と、皆の期待がいやおうなしに高まっていた頃、運命の刻が訪れた。

いつものように屋上でフルートを練習し、課題曲の演奏を終えたところだった。涼太は上手く演奏ができたと自信満々で千賀に笑顔を振りまく。

「先輩、これできっと優勝できます! そうすればついに全国大会ですよ。千賀先輩がいれば絶対、大丈夫です」

涼太は目を輝かせて千賀に言う。けれど千賀はさえない顔でぽつりとこぼす。

「……行けっこないよ」

そのときの千賀はどこか寂しそうだった。けっして謙遜ではく、本心から出た言葉なのだと涼太は勘案した。

「どっ、どうしてですか。先輩はすごく上手いのに」

千賀は胸の内に抱えていた想いを溢れさせる。

「いいかい涼太、僕らはあくまでアンサンブルの奏者のひとりだ。だから皆で奏でるハーモニーの美しさを大切にするべきなんだ。それなのに僕さえいれば大丈夫だから、というのは大きな勘違いなんだ」

千賀の真意に涼太は自分を恥じ、あわてて謝罪する。

「ごっ……ごめんなさい、先輩を頼ってばかりいるつもりではなかったんですけど……」

けれど千賀の声は、いつにもまして優しかった。

「僕は……演奏についてくる人ではなく、ともに切磋琢磨できて、打ち解けられる人間が必要だったんだ。そして君にはそうなってほしいと願っている。だから僕のことを先輩ではなく、友人と思ってくれないか」

そのとき、涼太の顔は夕暮れの中でもはっきりとわかるほどの真紅に彩られていた。

「千賀先輩……いや、貴音さん、って呼んでいいですか。あの……」

涼太は視線を落とし、ためらいながらも隠していた本心を打ち明ける。

「僕は自分が女子に生まれたら良かったって、何度思ったかわかりません。そしたら貴音さんの演奏のパートナーだけでなくて、恋人にだってなれたんですから」

そのとき千賀は、自分に対する涼太の感情が尊敬や羨望だけではないことに気づいた。けれどそんな涼太に対する千賀の答えは真摯なものだった。

「涼太、僕のことをそんなふうに思ってくれてありがとう。そして、そうまで言ってくれた君には、僕の秘密を打ち明けたいと思う。僕はずっと、そんな関係になれる人を探していたんだ」

しだいに千賀のまなざしが深く、澄んだ色に変わってゆく。

「秘密……ですか」

頬を紅に染めたまま不思議そうな顔をする涼太に千賀は続ける。

「ああ、そうだ。これから一緒に『想い出は銀の笛』の曲を奏でよう。その曲の途中で信じられないことが起きるかもしれないが、君にはそれを理解してもらいたいんだ」

千賀はフルートをそっと唇にあてがう。涼太もまた、誘われるように千賀と向き合ってフルートを構える。

「いいかい、これが僕の奏でる、ほんとうのメロディだ」

そう言って胸の中に蓄えた大気をフルートに流し込むと、澄んだ音色が勢いよく屋上に舞い上がった。すると、それまで辺りに散らばっていたすべての音色が一瞬にして閉ざされたのだ。校庭で声をあげるサッカー部員たち、我が家に向かって飛ぶ烏の鳴き声、風が樹木の枝葉を撫でる音。切り取られた一枚の写真のように、音の振動が存在しない静寂が辺りを支配した。

同時に、涼太は信じられないものを目にした。広がる風景が蜃気楼のように揺らめきだす。遠くに望む山々の稜線が歪んで大地から切り離され、宙に浮いているように見えた。空は急に色彩を暗くし、浮かぶ雲が渦を巻きいくつもの星雲を形作る。足下に目をやると、屋上の床が消え、星屑がばら撒かれた。まるで宇宙に放り出されたかのような錯覚を覚えた。いや、錯覚ではなくリアルにそう感じられたのだ。

「吹き続けて、涼太」

「はっ、はい……っ」

深淵の空間にたゆたう奇妙な感覚のなか、フルートに息を吹き込み続ける。涼太は自身の旋律に瞠目した。飛び立つ音符の姿が涼太の目にも映っていたのだ。

涼太の放つ音符は燃えるような紅色で彩られている。対して千賀のそれは硝子細工のように透明に輝いていた。

これはいったい……。

千賀のフルートから流れてきた音符が涼太の目の前で弾け飛び、千賀のメッセージが放たれる。

『僕はこうやって音楽で世界を描くこと、それに魂を込めた旋律で語りあうことができる。そして音色に込められた想いをすくい上げることができるんだ。そのことをずっと秘密にしてきたけれど、君になら伝えてもいいと決心したんだ。これは僕の、君の想いに対する最大の敬意だ。君が望むなら僕はいつでも音楽に満ち溢れた、ふたりだけの世界に連れて行ってあげられるんだ』

涼太の音符もまた踊るように跳ね回り、壊れて飛び散った。

『すごいっ……! 貴音さん、あなたはやっぱり現実世界の常識なんかには囚われていない、夢の住人だった! 俺は誰の手も届かない世界に憧れて渇望して、そしてあなたに辿り着いたんです! だからずっと、俺の音楽のパートナーでいてほしいです!』

『ああ、僕にとって君は大切な後輩であり、友人であり、そして今から僕の秘密を知る、特別な存在だ。僕は今までそれを誰にも言えず、孤独だったんだ。だけとやっと、その孤独から解放されるんだ』

『貴音さん、秘密を明かしてくれてありがとうございます。これから俺の心はずっと、貴音さんとともにあります。音楽の女神、ミューズにそう誓います』

涼太は夢見心地のまま、抑えていた自分自身の想いを音色に乗せてさらけ出していた。

曲が終焉を迎え、音符たちは宇宙の彼方に旅立っていった。朧気だった視界が徐々に輪郭をはっきりとさせ、日常の風景が戻ってくる。散りばめられていた生活音もまた、耳に届くようになった。

千賀はフルートを持つ手を下げ、ふぅ、と深いため息をつく。目の前には紅の音符がひとつ、とり残されていた。千賀は人差し指を掲げて指先で触れる。軽やかな音色で弾けた。

その仕草を涼太はうっとりと眺めていた。千賀は風が稲穂を揺らすように優し気な声で言う。

「世界を描くメロディ、僕はそれを『フィーネの旋律』と名付けた。フィーネとは曲を終わらせるための音楽記号なのは知っているだろう。僕がこの音色を奏でるときは、素晴らしい人生の友を見つけ、孤独に終止符を打つときに違いないと信じていた」

「ああ、貴音さん、僕はいつまでもあなたのそばにいて、あなたの音色とともに生きてゆきます。だからもう、孤独になんかさせません」

そう言って千賀は、乙女のように潤んだ瞳の涼太に歩み寄り、涼太の背中に腕を回して強く抱きしめた。

しばらく静閑な時間が流れ、ようやっと涼太の胸の早鐘は落ち着きを取り戻す。少しだけ身を起こし、ふたりは顔を見合わせて笑った。涼し気に過ぎるエメラルドグリーンの風が、ふたりの間を満たす熱気をさらってゆく。

涼太――。

貴音さん――。

ふたりは永遠を誓うように見つめあう。

そのときだった。

「うっ……!」

突然、千賀は胸を押さえてうずくまった。呼吸が荒く激しくなる。顔面は蒼白になり、冷たい汗がぼたぼたとひたいから滴る。瞳がどろりと光を失い、砂の城が打ち寄せる波に攫われるかのように、力なくその場に崩れ落ちた。

「どっ、どうしたんですか貴音さんっ!」

涼太は千賀に訪れた突然の事態にあわてふためく。千賀は屋上の床に横たわり、虚ろな目で涼太を見上げた。

「涼太……誰か呼んできてくれないか……苦しい、息ができない……」

息も絶え絶えの千賀は必死に声を絞り出す。

「貴音さんっ! それ以上話さないでください! 俺、人を呼んできますっ」

涼太は屋上の出口へ向かって駆けだす。扉のノブに手をかけ、勢いよく引いて屋内へ身を滑り込ませた。

今ならまだ、音楽室に誰かいるはずだ。

こんなとき、涼太がすぐに思い浮かべることのできた人物は、やはり麗だった。

涼太が音楽室に駆け込むと、部員一同、狼狽した涼太を見てただならぬ雰囲気を察した。

「はぁ、はぁ、みんな来てくださいっ! 貴音さ……千賀先輩が、千賀先輩が……」

屋上に皆が辿り着いたとき、千賀の意識はすでになかった。部員のひとりが職員室に駆け込み教師に救急車を呼んでもらっていたので、皆で千賀を抱きかかえ、校庭まで運び出した。

そして一命はとりとめたものの、その日以来、千賀は目覚めることはなかった。

涼太にとっては、千賀と永遠を誓い合ったその瞬間に、永訣が訪れたのだった。