「あっ、ホントですね。そしたらジャージに着替えて帰ります。それじゃ、来週から宜しくお願いしますね!」

はるかがだとすぐにわかる、ころころとした声が鋼鉄の扉の隙間から洩れてくる。こちらに向かってきているようだと麗は察した。ローファーの靴音が響かないように気を配りつつ、壁の後ろに身を潜めて息を殺す。誤魔化しきれなかった音は幸い、雨音がかき消してくれたようだ。

はるかが通り過ぎ、階段を一歩一歩降りてゆく。意味ありげに何度も屋上を振り返っていた。

屋上にはいったい、誰がいるんだろう?

そこはかつて涼太が千賀とふたりでフルートを練習していた蜜月の舞台だということを、麗は重々承知している。

まさか……ね。

けれど麗はその場所に、はるかのフルート上達の秘密があるのではないかと察した。はるかが遠ざかったのを確認してから屋上に向かい、重い鋼鉄製の扉を開ける。金属の軋む音がして、宵闇に包まれた屋上が目の前に広がる。

麗は自分がここに立ち入るのは、千賀が倒れたあの日以来だと思い返す。

そして入念に目で闇夜を探ったけれど、そこには誰もいなかった。ふう、と小さくため息をこぼす。

花宮さんはいったい、誰と話していたんだろう。雨が降っているのだから、わざわざ屋上で電話をするはずもない。だけどここには誰もいない……。

麗は釈然としない気持ちを抱えたまま、その場を後にして自宅へと向かった。



麗の自宅は涼太の家の近所で、学校から歩いて十分もかからない場所にある。モッコウバラのアーチを抜けて芝生の生え揃った庭へ足を進める。

落ち着いた和風の引き戸を開けてくぐると燕尾服をまとう初老の男性が佇んでいた。

麗の姿を確かめると、ほっとしたように顔の緊張を緩めて深々と頭を下げる。

「おかえりなさいませ、お嬢様」

麗はちらとだけ目を合わせ、靴を脱ぎそろえながら返事をする。

「ただいま、服部。これからは火曜日と木曜日も帰りが遅くなるわ。コンクールが近づいてきたし、後輩を指導しなければならないの」

「左様でございますか。お嬢様もお忙しゅうございますね。――ところで、いずれの大学に進学されるか、お決まりになりましたでしょうか」

「ううん、まだ思案に暮れていますわ。お母様には人生の選択を楽しんでいるの、って伝えてちょうだい」

「かしこまりました。前向きな意味で捉えられるよう、上手くお伝えいたします」

麗はしずしずと自分の部屋に足を運び、そのままベッドに勢いよく倒れ込んだ。身体から一気に力が抜けて、手足がまるでいうことをきかない。はるかのあどけない表情が、麗の脳裏に浮かび上がる。

あの子、とってもキュートでチャーミングね。それに千賀先輩に似た、独特の澄んだ旋律。涼太が気にいるのも無理はないわ。先週の選考会の日、あなたの心は花宮さんのメロディに奪われてしまったのね。

どうしてこんなに上手くいかないんだろう。私はほんとうに欲しいものを、何ひとつ手に入れたことがない。

毛布を強く握りしめ、肩を震わせる。それから小雨のような嗚咽がもれた。

涼太……。あなたは幼い頃から私の唯一の心の支えだった。だから私は涼太に見合う女性になろうとして、頑張っていたつもり。凛として、綺麗に生きて、けっして弱みを見せないでいようと心に決めていた。自分を誇れる女性でいたいのだと、願い続けていた。

初恋は叶わないっていうけれど。それを認めたくはないけれど、ほんとうなのね。たとえあなたがどうしても千賀先輩のことを忘れられなくて、あの子に惹かれていたとしても、それでも想い続けていたかった。

私はあなたの思い出になるのかもしれないけれど、私のこの想いは、簡単に片づけられっこない……。