ポケットに手を入れスマホを取り出し、画面に目をやると涼太からの電話だった。

はるかはぎょっとする。無視した方がいいのか、それとも応答するべきなのか。数秒の間に散々迷ったけれど、同じグループで合奏する先輩から逃げられるはずがない。

覚悟を決めて、えいっ、という掛け声とともに画面をタップする。すぐさま涼太の声が耳に届いた。

『あ……花宮か、俺だ、高円寺』

はるかは慎重に応対する。

「……はい、なんでしょうか」

『さっきは熱くなってすまなかった。だけどどうしても疑問に思うことがあって電話したんだ』

「あたしの方こそ急に逃げ出してごめんなさい」

はるかがそう言うと、涼太は一呼吸の間を置いた。

なんだろう、疑問に思うことって。はるかの胸に不安がよぎる。千賀との関係なのか、それとも音符が掴める能力のことなのか。いずれにせよ、千賀との関係を否定することは不可能だと悟った。

すると涼太の一言は、はるかには予想だにしないものだった。

『君はもしかしたら、貴音さんが今どんな状況にあるのか、知らないのか?』

まるで千賀の身の上に悪いことが起きたような、そんな言い方をした。ただでさえ菜摘に怒られ落ち込んだ胸中は、さらなる暗雲で覆われる。

「千賀先輩に何か良くないことが起きたんですか!?」

涼太は言葉を選んでいるようだった。電話の向こうから低いトーンの声が届く。

『貴音さんはずっと入院しているんだ。だいぶ前から』

「えっ……?」

涼太の意図することが理解できず、はるかはスマホを耳に当てたまま頭を抱える。どんな可能性を考えても堂々巡りにしか過ぎなかった。

『花宮は……知らなかったのか?』

はるかが何も答えられずにいると、涼太はさらに加える。

『……意識が、戻らないんだ。二年も』

千賀先輩が……意識不明?

はるかの手はまるで自分のものではないように力を失い、スマホが手のひらからこぼれ落ちた。床に落ちる鋭い音の響きに我を取り戻す。

涼太の声が横たわるスマホから発せられていたけれど、それ以上、涼太の話すことを聞けるはずがない。

誰もいないはずの屋上へ続く扉を見上げる。ぱらぱらと雨の雫が屋上に打ち続ける音色が広がっていて、まるではるかの心の中に染み込んでいくようだった。

はるかは思わず、雨の滴る宵闇の屋上に向かって、冷えきった階段を駆け上がっていた。薄々感じていた千賀の神秘的な雰囲気、音符が視える能力、そして自分だけとの繋がり。真相を知る予感がはるかの心身を戦慄させていた。

高円寺先輩は千賀先輩を探し続けている。それはきっと、千賀先輩の魂がこの世界のどこかに存在しているということなんだ。そして、あたしはそれを知っている。

辿り着いた鋼鉄製の扉のノブに手をかけ、力を込めてぐいっと回して押す。いつもよりもずっと重く感じた。扉を開けた瞬間、降り注ぐ雨音が一面に広がった。

屋上に広がる空は厚い雲が覆っていて、頼りだった月明りさえ今夜は姿を隠している。いたるところにできた水たまりが無数の波紋を広げながら水が跳ねる音を生みだす。

目を凝らすと、フェンスの手前に淡い人影が浮き出ていた。うっすらと光を放っているようで、その影はゆっくりと視線をはるかに向ける。表情を読み取ることがままならないはずの闇夜だというのに、その影は深い寂しさを漂わせているようにはるかは感じた。

漆黒の空から降り注ぐ雨粒が、その影を通り抜けてゆくのだ。

水溜まりの屋上に足を踏み入れていく。一歩一歩、踏み出すたびに、ピシャッ、ピシャッと悲鳴のような水の跳ねる音がして、いつもの屋上はまるで別世界のようだった。現実と隔絶された空間なのだとわかっていながら、はるかは黙ってその影に歩み寄る。そして、そっと触れるように話しかける。

「こんばんは、千賀先輩」

千賀は闇の中で口角を上げてはるかを迎えていた。はるかは普段通りの自分を演じながら、千賀に丁寧なお礼を言う。

「千賀先輩、おかげさまでコンクールのメンバーに選ばれました。けっして上手く演奏できたわけじゃなくて、先輩方の希望によるものだったみたいですけど。でも、ほんとうにありがとうございます」

はるかは丁寧に深々と頭を垂れる。顔を起こすと、口元を引き締めて右手を差し出す。

「もしよかったら、握手して頂けませんか」

はるかの言葉は、真実を知る覚悟を秘めているようで、どこか重たく、そして悲し気だった。千賀は差し出された右手に視線を落とし、少しだけ後ずさりした。足音は聞こえなかった。

千賀は逡巡し、いくばくの間を置いた。

「――君は、ようやっと気づいたんだね」

返事を聞いて、はるかの胸の中を冷たい風が吹き抜けていく。はるかは千賀を見つめながらそっとこぼす。

「千賀先輩、ここにいる千賀先輩自身が、『音符』なんですね」

その一言は、はるかが千賀の存在がなんたるかを理解しているのだと伝えるのに十分だった。目の前にある千賀の姿は、主の姿を象って魂を乗せた『音符』そのものなのだ。

千賀は黙ったまま、深くうなずく。

「やっぱり、そうだったんですか……」

はるかは差し出した手を力なく下ろした。千賀ははるかを直視して語りかける。

「そうだ、君が僕に触れると僕は砕け散ってしまう。君の知る通り、音符は魂を乗せてこの世界を漂う。そしていつかは消えてしまうんだ。僕はただ、そのときを待つことしかできない、無力な存在なんだ」

その告白は、病魔に侵され余命を知った患者の言葉と同質なものに思えた。

「千賀先輩、かわいそう……」

はるかは千賀がいたたまれなくなって瞳を潤ませる。千賀とは遠くない未来に別れが訪れることを、いやおうなしに知らされのだ。冷たい雨がしとしととはるかの制服に染み込んで、心の奥まで冷えきらせてゆく。

「ありがとう、そう思ってくれて。君は優しい子だね」

千賀は静かに微笑む。