はるかは自分がどうすればいいのかわからなかった。ただ逃げ出したい一心で廊下を走り去ってゆく。

息苦しさを感じて立ち止まると、そこは度々足を運んでいた、屋上へ向かう階段の麓だった。

雨は勢いを増していて、窓ガラスにぶつかり荒い音を立てる。まるで今、千賀に会えるはずはないのだと、はるかに伝えているようだった。

閉ざされた屋上の扉を見上げ、階段に座り込む。

高円寺先輩は、なんで千賀先輩のことを聞き出すのに、あそこまで必死になるんだろう。

涼太はまるで、姿を消してしまった恋人探しに耽溺(たんでき)しているようにさえ思えた。

うずくまり逡巡していると、ローファーの足音が近づいてきた。

それが誰であれ、何も答えるつもりのないはるかは顔を伏せたままでいた。たとえ誰にどう思われようとも、千賀先輩との関係と音符を掴む能力、そのふたつの秘密は絶対に知られたくない。

靴の音ははるかの隣ではたと止まる。そして、そっと隣に座り込む気配があった。

「はるか……」

はるかを呼ぶ声の主は菜摘だった。菜摘はうつむき黙ったままのはるかに向かって静かに話し始める。

「昨日さ、北川先輩に謝られたんだ。サクソフォンを隠したこと」

それを聞いてはるかは一瞬、肩をこわばらせた。

北川先輩、菜摘に正直に話していたんだ。

「それでね、はるかが北川先輩のお母さんのお店で一緒に演奏して、嫌なお客さんを黙らせたっていう武勇伝を話してくれたわよ」

はるかは何も答えなかった。それからほんの数秒、間があってから、菜摘の声は厳しいものに変わる。

「はるか、なんであたしに話してくれなかったの。あたしと友達のはずでしょ? 先輩にそういうことされたのは嫌だけど、あのあと素直に謝ってくれたんだよ。だけどはるかは自分のこと、あたしに何も話さないじゃん」

黙ったままのはるかに菜摘はたたみかける。

「だいたい、なんで高円寺先輩に告白されているわけ? あたし、はるかのしていることとか考えていること、ぜんっぜん理解できないよ! あたしが高円寺先輩に憧れていること、知っているくせにっ!」

はっとして顔を上げると、菜摘は怒っているのではなく、深い傷を負ったような苦痛に満ちた表情をしていた。はるかはしどろもどろに言い返す。

「違うの、それは、あの……」

けれどそれ以上、まっとうな言葉が出てこなかった。涼太の告白は千賀のことを聞き出そうと突発的にけしかけたことに違いないけれど、それを説明するのには千賀と涼太、それに自分自身との繋がりを明かさなくてはならない。いくら涼太に気づかれたからといっても、他人に千賀のことを話すことはできない。

「裏でこそこそして、先輩たちと仲良くなろうとしていたんでしょ。この前、麗先輩にどこかへ連れて行かれたのは、高円寺先輩との逢引きを手伝ってもらっていたんでしょ」

「うっ……」

逢引きというのは言い過ぎだけれど、否定はできなかった。

「そうでなくちゃ三人で演奏するなんてことになるわけないもんね、そうでしょ。だいたい、この前急に上手くなっていておかしいと思ったんだ。高円寺先輩に個人レッスンされていたんじゃない? 高円寺先輩もはるかもふたりとも、部活のない日は音楽室で自主練してないじゃん。あたし、気づいていたんだからねっ!」

部活のない日、はるかは屋上を訪れていたので、音楽室で練習をすることはなかった。一方、涼太がなぜ平日に音楽室で自主練習をしていないのか、はるかはその理由を知るはずもない。

「だから今日、演奏で失敗したのはわざとなんでしょ」

そう言って菜摘ははらはらと涙をこぼし始めた。悔しさと寂しさを混ぜ込んで崩れた顔。

「あたしね、はるかが上手く演奏できてほんとうに嬉しかったんだよ。ひょっとしたら一緒にコンクールに出られるかもって、そんなふうに期待していたんだよ。結局、あたしだけじゃん、盛り上がっていたの」

けれどはるかはふたたびうつむき、消え入りそうな声で言う。

「ごめんなさい……。あたし、どうしても自分のことは話せないの」

「何よそれ、友達なんかどうでもいいっていうの? ううん、はるかはあたしのこと、友達だと思ってないんでしょ。あたしを裏切ってもぜんぜん、平気だったんだよね?」

「そっ、そんなことないよ……」

「もう、はるかなんていいから!」

菜摘は悲痛な叫びをあげると勢いよく立ち上がり、はるかを冷たく見下ろす。

「絶交ね!」

菜摘は最後に低い声でそう言って踵を返し、足早に去っていった。

ローファーが床を弾く音が聞こえなくなっても、はるかは突っ伏したまま身じろぎひとつできなかった。

菜摘が怒るのも無理はない。振り返ってみるとすべて、菜摘の言うとおりだった。はるかの秘密が招いた誤解は解けることなく、結局は大きな亀裂へと進展していった。

ごめん、菜摘。あたしって、何のために音楽やっているんだろ。ばかみたい。

自分自身が情けなくなって涙が滲んでくる。誰かに縋りたくなったけれど、はるかの気持ちを理解してくれる人など、いるはずがなかった。

だけど、たったひとりだけ、この想いを共有できる人がそばにいる。

そう思い千賀の顔を脳裏に浮かべる。するとそのとき、スカートのポケットでスマホが振動した。