★
アンサンブル部、恒例のイベントデー。部員全員がソロで演奏する「選考会」が催される。開催は今学期に入り二回目となる。
この「選考会」の演奏の出来栄えによって、顧問の中山先生と三年生がコンクールに出場するメンバーを選定する。夏休み明けの二学期、九月の毎週金曜日に行われ、計四回の選考会で最終的なメンバーが決定される。
出場できるグループは2グループ。1グループの構成は3名から8名の規定なので、約半数の部員は出場できずサポート役に回る。
一年生にとっては舞台デビューのチャンスであり、二年生にとっては下剋上との戦い。だから秋口の音楽室は真夏さながらの熱気に包まれている。
けれど一年生でダントツ初心者のはるかは、「縁の下の力持ち」を担う心の準備はとっくにできていた。
「これから選考会を始めます。一年生から順番に行います。ひとり三分、時間が来たら打ち切りです。採点は中山先生、私とそれから涼太の三人で行います」
麗は高円寺涼太のことを「涼太」と呼ぶ。涼太も清井麗を「麗」とファーストネームで呼んでいる。ふたりは幼馴染で、互いによき理解者ということになっている。文句なくお似合いなふたりだというのに、恋仲に発展する様子はまるでない。皆はそのことを不思議に思っているけれど、はるかだけは違っていた。涼太の情熱の向かう先が別にあるということを知っているからだ。
整列された椅子に皆が着席すると顧問の中山先生が登壇する。中山先生はふくよかな初老の音楽教師で、綺麗なブロンズの髪が淑女のイメージにそぐう。中山先生は「皆さん、日頃の成果をいかんなく発揮してくださいね」と簡単な挨拶をし、生徒たちは深々と頭を垂れた。
麗は席から立ち上がり、準備されていたボードを手に取る。ちらとボードに目を向けた後、鋭い視線が最初の奏者を捉えた。
「それでは、一年生、花宮はるかさん」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
呼ばれてはるかの心臓はきゅーっと縮みあがる。意を決して立ち上がり、フルートを強く握りしめた。壇に上がる途中、あまりの緊張で足がもつれてよろける。
はるかは檀上でフルートを構える。添える唇も指も、小刻みに震えている。落ち着きを取り戻す間もなく、無情な開始の合図が発せられた。
「フルートの課題曲、『ハンガリー田園幻想曲』、お願いします」
麗のかけ声に従い、音楽室の壁掛けスピーカーからピアノの軽やかな伴奏が流れる。はるかの心臓はそのリズムを無視した速さで脈打つ。
どうしよう、みんなの前で音を奏でるなんて、こわくてできない……。
はるかは檀上でフルートを口に当てたまま、かちんこちんに固まっている。無情にも音楽室にはピアノの伴奏だけが鳴り続けている。
……だめだ、ちゃんと吹かなくちゃ。はるかはぐっと恐怖を抑え込み、大きく息を吸い込んだ。ためらいを振り払ってフルートに息を吹き込む。
その瞬間。
「ピ……ピィ~ヒョロロ~」
フルートが裏返ったような、奇妙な音を醸した。壺の中に隠れた蛇が喜んで顔を出しそうなエキゾチックな音色。
とたん、聴いていた部員の数人が吹き出した。はるかは一瞬にして顔から炎が噴き出すほどに赤面し、フルートを唇から離して崩れ落ちた。ああ、またやってしまった。
はるかの演奏は、先週行われた一回目の選考会を再現したかのようだった。このタイミングでこの音色、二度目にしてもはやお家芸といえる。今後もことあるごとに期待のまなざしを向けられることうけあいだ。
「花宮さん、演奏を続けなさい。まだ終わってはいません」
麗の鋭い声が飛んできた。はるかは死んだ魚の目をして顔を上げると、涼太も厳しい視線を投げかけた。
「花宮、皆がやっていることだ。君にできないはずがない。それに大事なのは今じゃない、今後どれだけ上達するかだ。だから続けてみろ」
「でも……無理です。あたし、どうしてもみんなの前では吹けません……ひーん」
もう、どんな音も届かない深い海底に沈んで、そのまま消えてしまいたいくらいだった。
はるかが絶望的に落ち込んだので、麗はしかたなく音響システムに手を伸ばし伴奏を中断した。はるかは魂を失った抜け殻となってふらふらと自分の席に戻る。
次に呼ばれたのは菜摘だった。サクソフォンを手にして登壇し、流暢で隙のない旋律を奏でる。しだいにあるべき雰囲気に戻った音楽室の中で、はるかはひとり、膝の上のフルートに目を落としたまま置物のように固まっていた。
全員の演奏が終了した。麗は疲労の色を浮かべながらも毅然とした態度で皆に声をかける。
「では、これで全員終了しました。皆さん、だいぶ上手くなっていますね、気を抜かず練習を続けてください。あと二回、選考会を行います。おつかれさまでした」
緊張が解けた部員たちは深いため息をつき、それから雑談をし始める。上手くできたとか失敗したとか、あるいは他者の演奏の感想、それにどこを修正すべきかなど。
けれどはるかはひとり、今日の演奏を振り返ることもなく、とぼとぼと教室を後にした。菜摘もはるかにかける言葉が見つからず、伸ばした手がはるかの背中に触れることはなかった。
はるかは肩を落としたまま階段を上り、渡り廊下を越え、音楽室からできるだけ遠くに、逃げるように立ち去る。目頭が熱くなり、いつもの廊下がかすんで見えた。
なんであたしって、いつもこうなんだろう。練習では演奏できるのに、いざみんなが見ていると指も呼吸もいうことをきかなくなる。
アンサンブル部はもう辞めますって、中山先生と菜摘に言わなくちゃ。ごめんね、音符さんたち。あたしってホントに駄目だよね……。
アンサンブル部、恒例のイベントデー。部員全員がソロで演奏する「選考会」が催される。開催は今学期に入り二回目となる。
この「選考会」の演奏の出来栄えによって、顧問の中山先生と三年生がコンクールに出場するメンバーを選定する。夏休み明けの二学期、九月の毎週金曜日に行われ、計四回の選考会で最終的なメンバーが決定される。
出場できるグループは2グループ。1グループの構成は3名から8名の規定なので、約半数の部員は出場できずサポート役に回る。
一年生にとっては舞台デビューのチャンスであり、二年生にとっては下剋上との戦い。だから秋口の音楽室は真夏さながらの熱気に包まれている。
けれど一年生でダントツ初心者のはるかは、「縁の下の力持ち」を担う心の準備はとっくにできていた。
「これから選考会を始めます。一年生から順番に行います。ひとり三分、時間が来たら打ち切りです。採点は中山先生、私とそれから涼太の三人で行います」
麗は高円寺涼太のことを「涼太」と呼ぶ。涼太も清井麗を「麗」とファーストネームで呼んでいる。ふたりは幼馴染で、互いによき理解者ということになっている。文句なくお似合いなふたりだというのに、恋仲に発展する様子はまるでない。皆はそのことを不思議に思っているけれど、はるかだけは違っていた。涼太の情熱の向かう先が別にあるということを知っているからだ。
整列された椅子に皆が着席すると顧問の中山先生が登壇する。中山先生はふくよかな初老の音楽教師で、綺麗なブロンズの髪が淑女のイメージにそぐう。中山先生は「皆さん、日頃の成果をいかんなく発揮してくださいね」と簡単な挨拶をし、生徒たちは深々と頭を垂れた。
麗は席から立ち上がり、準備されていたボードを手に取る。ちらとボードに目を向けた後、鋭い視線が最初の奏者を捉えた。
「それでは、一年生、花宮はるかさん」
「ひゃっ、ひゃいっ!」
呼ばれてはるかの心臓はきゅーっと縮みあがる。意を決して立ち上がり、フルートを強く握りしめた。壇に上がる途中、あまりの緊張で足がもつれてよろける。
はるかは檀上でフルートを構える。添える唇も指も、小刻みに震えている。落ち着きを取り戻す間もなく、無情な開始の合図が発せられた。
「フルートの課題曲、『ハンガリー田園幻想曲』、お願いします」
麗のかけ声に従い、音楽室の壁掛けスピーカーからピアノの軽やかな伴奏が流れる。はるかの心臓はそのリズムを無視した速さで脈打つ。
どうしよう、みんなの前で音を奏でるなんて、こわくてできない……。
はるかは檀上でフルートを口に当てたまま、かちんこちんに固まっている。無情にも音楽室にはピアノの伴奏だけが鳴り続けている。
……だめだ、ちゃんと吹かなくちゃ。はるかはぐっと恐怖を抑え込み、大きく息を吸い込んだ。ためらいを振り払ってフルートに息を吹き込む。
その瞬間。
「ピ……ピィ~ヒョロロ~」
フルートが裏返ったような、奇妙な音を醸した。壺の中に隠れた蛇が喜んで顔を出しそうなエキゾチックな音色。
とたん、聴いていた部員の数人が吹き出した。はるかは一瞬にして顔から炎が噴き出すほどに赤面し、フルートを唇から離して崩れ落ちた。ああ、またやってしまった。
はるかの演奏は、先週行われた一回目の選考会を再現したかのようだった。このタイミングでこの音色、二度目にしてもはやお家芸といえる。今後もことあるごとに期待のまなざしを向けられることうけあいだ。
「花宮さん、演奏を続けなさい。まだ終わってはいません」
麗の鋭い声が飛んできた。はるかは死んだ魚の目をして顔を上げると、涼太も厳しい視線を投げかけた。
「花宮、皆がやっていることだ。君にできないはずがない。それに大事なのは今じゃない、今後どれだけ上達するかだ。だから続けてみろ」
「でも……無理です。あたし、どうしてもみんなの前では吹けません……ひーん」
もう、どんな音も届かない深い海底に沈んで、そのまま消えてしまいたいくらいだった。
はるかが絶望的に落ち込んだので、麗はしかたなく音響システムに手を伸ばし伴奏を中断した。はるかは魂を失った抜け殻となってふらふらと自分の席に戻る。
次に呼ばれたのは菜摘だった。サクソフォンを手にして登壇し、流暢で隙のない旋律を奏でる。しだいにあるべき雰囲気に戻った音楽室の中で、はるかはひとり、膝の上のフルートに目を落としたまま置物のように固まっていた。
全員の演奏が終了した。麗は疲労の色を浮かべながらも毅然とした態度で皆に声をかける。
「では、これで全員終了しました。皆さん、だいぶ上手くなっていますね、気を抜かず練習を続けてください。あと二回、選考会を行います。おつかれさまでした」
緊張が解けた部員たちは深いため息をつき、それから雑談をし始める。上手くできたとか失敗したとか、あるいは他者の演奏の感想、それにどこを修正すべきかなど。
けれどはるかはひとり、今日の演奏を振り返ることもなく、とぼとぼと教室を後にした。菜摘もはるかにかける言葉が見つからず、伸ばした手がはるかの背中に触れることはなかった。
はるかは肩を落としたまま階段を上り、渡り廊下を越え、音楽室からできるだけ遠くに、逃げるように立ち去る。目頭が熱くなり、いつもの廊下がかすんで見えた。
なんであたしって、いつもこうなんだろう。練習では演奏できるのに、いざみんなが見ていると指も呼吸もいうことをきかなくなる。
アンサンブル部はもう辞めますって、中山先生と菜摘に言わなくちゃ。ごめんね、音符さんたち。あたしってホントに駄目だよね……。