「コンクールのメンバーに選ばれた皆さん、ほんとうにおめでとうございます。胸を張ってくださいね」

十脚の椅子が音楽室の真ん中に円を描いている。

その椅子に座っているのは山下先生、麗のほか、先程名前を呼ばれた八名のグループメンバーだ。皆、緊張した面持ちで背筋を伸ばしている。北川と菜摘もめでたくその一員となっていた。

「今から課題曲とパートを決めますけれど、実力順で選んでいるため、全員が希望の楽器を割り当てられるとは限りません。けれど残り一か月ちょっとですから、頑張って練習してくださいね」

皆が小さくうなずいたのを確かめ、麗は続ける。

「北山さんはこのメンバーを見て、どう思う?」

麗はグループのリーダーとなった北山に意見を求める。はるかは涼太と並んでその議論を遠巻きに眺めている。

「あっ、ええと……」

目を腫らした北山はあわててメンバーを再確認し、それぞれが奏でていた楽器を思い浮かべる。

「みんなが得意そうな楽器を選ぶと、木管と金管の混成になると思います。曲はやっぱり音調にメリハリがあった方がいいし、音域が広い方が引き立つかなぁと」

「そうすると、かなり限られるわよね。『バッカスの行列』とか、『ウィリアム・テル序曲』はどうかしら。

それとも思いきってアレンジしてみる? 私たちに気を遣わなくていいから、皆の好きにしていいのよ」

そう言ってくすっと笑う麗。

「いっ、いえ、そんな勇気ないです。だってこのメンバー、ほとんど初出場ですよ?」

あわてて麗の提案を却下する。確かにコンクール出場経験者は最初に名前を呼ばれた水無月ひとりだけだった。そこで南野が挙手をして即、提案する。

「予選まで一か月ちょっとしかないから、皆知っている曲がいいです」

西山も即座に同意する。

「私もそう思います、みんなはどう?」

議論が進んでいく中、はるかはそれをぼんやりと眺めている。すると涼太がはるかとの距離を詰めてきた。気配を察して隣を見上げると、意味ありげな真顔で話しかけてきた。

「花宮、ちょっとだけいいか」

「あっ、はい、なんでしょう高円寺先輩」

はるかが何気なく返事をすると、涼太はちょいちょいと廊下の方を指差した。邪魔にならないように廊下で打ち合わせをしようということらしい。

と、はるかはその程度にしか思わなかった。

いまだになんで自分が選ばれたのかわからないまま、主人の言うことを聞くペットのように、ちょこちょこと涼太の後について廊下へ出てゆく。

宵闇が覆いかぶさった寒空は窓を越えて廊下を冷やしていて、その冷たさがはるかの肌にのしかかった。はるかは身震いをし、半袖の両腕をさすって温める。浮かぶ灰色の雲は耐えきれなくなって、しとしとと冷たいと雨を降らせ始めていた。

ああ、傘忘れちゃったなぁ。

はるかが夢うつつで窓の外に目をやると、暗い空を背にした窓ガラスは鏡になって自分の姿を淡く映し出していた。すると背後に涼太が歩み寄ってきた。はるかは振り向かず、窓に映る涼太に話しかける。

「……高円寺先輩、なんであたしが選ばれたんですか」

けれど涼太からの返事はない。きっと簡単に答えられる理由ではないのだろうとはるかは察する。

「あたしより上手い人はたくさんいますよね」

腑に落ちないはるかの声はつい、非難的なトーンになる。すると涼太はその質問に答える代わりに、逆にはるかにこう尋ねた。

「花宮、もう一度訊きたい。君は誰にフルートを教わったんだ」

「えっ……?」

突然の蒸し返した質問に、はるかは虚を突かれ戸惑う。千賀の顔を思い浮かべるけれど、その名前を口にするつもりはない。

約束だもん。もしも約束を破ってしまったら、千賀先輩はあたしにフルートを教えてくれなくなるかもしれない。

ところが黙り込むはるかに対し、涼太は容赦なく詰問してくる。想定していなかったその質問は、はるかをひどく動揺させた。

「一昨日、君は宙に向かって人差し指を掲げていた。あれはひょっとして音符に触れていたのか?」

とたん、はるかの心臓は激しく脈打つ。

菜摘のサクソフォンがなくなったとき、はるかは犯人探しのためにたくさんの音符に触れていた。その日、音楽室を去るとき、涼太が怪訝そうな表情をしていたことをはるかは思い出す。音符に触れる仕草に気づいたとすればそのときのはずだ。

でも、どうして高円寺先輩は音符に触れているとわかったの? 視えるはずはないのに。

けれど、窓ガラスに映るはるかの驚いた顔が、事実を肯定していることを涼太に伝えていた。はるかの表情に気づいた涼太は、はるかの両肩をがっしりと掴んで、強引に自分の方に振り向かせた。

「きゃっ!」

そのときはるかの目に映った涼太は、まるで鬼夜叉のような険しい形相をしていた。

「ああ、やっぱりそうなのか。君は貴音さんと同じなんだ。教えてくれ、どうしてそんなことができるんだ。そして君と貴音さんはどこで繋がっているんだ」

はるかは表情を悟られまいとあわてて身を引きうつむく。

「あたし……あたし、音符が視えるとか意味わかりません! フルートだってどうせ下手くそです。今日のあたしの演奏、高円寺先輩は隣で聴いていたでしょう? 麗先輩がこの前、あたしに音色が似ている人がいるって言っていましたよね。その人が『貴音さん』なんですね? でも音色が似ているからって、その人から教わったとは限らないじゃないですか!」

すると涼太は動揺したはるかの表情に気づき、肩にかけた手を離し冷静さをつくろう。

「……俺は貴音さんの演奏に憧れて、このアンサンブル部に入ったんだ。だけどな、今は一緒に演奏することができなくなってしまった。それでも俺は貴音さんと一緒にふたたび演奏できる日を夢見ているんだ」

涼太は真剣な面持ちで告白した。

そうだったんだ。だけどどうして千賀先輩は高円寺先輩を避けているのだろう。まさか高円寺先輩が抱いている想いを拒絶しているのかも。けれど、あたしはメンバーに選ばれた以上、フルートを練習しなくちゃならないし、どうしても千賀先輩に教えてもらいたい。

そう思ったところで、はるかは自分の胸中を振り返る。そこには特別な感情が輪郭をあらわにしていることに、はるかはすでに気づいていた。淡い色で燃える、桜花のような千賀への想い。

ううん、ほんとうはあたし、千賀先輩と一緒にいたい。嫌われたくなんかない。だから約束を守って、千賀先輩とのつながりを高円寺先輩に知られないようにしなくちゃ。

フルートを演奏する千賀の横顔を思い出すと、胸の鼓動が早まるのを感じる。

音符が視えることに気づいたのは、きっと千賀先輩がそうだからなんだ。ということは、高円寺先輩はその意味を千賀先輩に教えてもらったんだ。そして音符のことはたぶん、ふたりだけの秘密だったんだ。

はるかは涼太に対し、自分に干渉しないように言うべきだと考えた。音符に触れて心の中を覗いていたことを知られないためにも、これ以上秘密を詮索されてはならない。

すっと表情を引き締め、涼太に向き合い、睨みつけてはっきりと言う。

「高円寺先輩、これ以上探るのはやめてもらえませんか。あたしは高円寺先輩が探している千賀先輩っていう方には、ぜんぜん心当たりがないんですから」

とたん、涼太の表情が激変する。それは落胆ではなく、はるかに対する疑念が込められていた。

「今……確かに『千賀』と言ったよな、花宮」

涼太の声は重たく、そしてかすかに震えていた。その表情の変化に、はるかは自分が大きな失敗をしてしまったことに気づく。

しまった!

「俺は貴音さんのことをファーストネームで君に伝えていた。もしも君が貴音さんのことを知っているなら、うっかり名字で呼んでしまうのではないかと期待していたんだ」

その確信に満ちた一言に、はるかは言い訳を挟む余地を失った。考えてみれば涼太はきわめて優秀な人間だ。そう簡単に誤魔化せるものではなかった。

「どうして君は俺に貴音さんのことを教えてくれないんだ!」

逃げられないと悟ったはるかは声を荒らげ、あからさまに拒否する。

「高円寺先輩は、そういうことを言える関係じゃないからです!」

はるかの中では、音符が視える者同士だけが互いを理解できると思っていた。千賀ははるかの音符に触れようとしなかったし、はるかもまた同じだった。はるかにとって千賀は唯一の理解者であり、音楽の指導者であり、そして心の支えでもあった。

はるかにとって千賀は大切な人だからこそ、ふたりの関係に触れてほしくなかった。

けれど、はるかの頑なな態度に業を煮やした涼太は容赦なく突っかかってくる。

「じゃあ、どんな関係だったらいいんだ。だったらいっそのこと、俺の恋人にでもなってくれないか!」

鬼気迫る表情でそうまでいって、涼太ははるかの腕を強く握る。

「嫌ですっ!」

不条理な告白を突きつけられたはるかの脳裏には、千賀の笑顔がちらついていた。腕に力を込め、涼太から離れようとする。

あたしは高円寺先輩の恋人になりたいわけじゃない。もしも恋人になれるのなら……。

そのとき、涼太の背後から声がした。

「何しているの……?」

部員たちがふたりの様子を見に来たのだ。そこには麗と菜摘の姿があった。声は震えていて、一瞬、誰の声かもわからなかった。けれど背伸びをして涼太の肩越しに目を向けると、その声の主は麗だったことに気づいた。今の涼太の言葉が聴こえたのだとすぐにわかる、焦燥した表情を浮かべている。

皆は楽曲の議論が終わったところで涼太とはるかを呼びに来たところだった。そして涼太がはるかに言い寄ったタイミングで鉢合わせしてしまった。

涼太の荒げた声は不安定な力感があったから、皆はただごとではない雰囲気を察知していた。麗も菜摘も、涼太の「告白」を聞き取ってしまっていた。

麗の声に気づくと涼太は振り向き、麗と目が合った。麗は動揺の色を隠せていなかった。そしてはるかはなぜ麗の声が震えていたのか、理由はすぐに想像がついた。

高円寺先輩、やっぱり麗先輩の気持ちにぜんぜん、気づいてないんだ。

だからはるかはすぐさま、涼太の腕を力ずくで振りほどいて後ずさりする。

涼太の面責するような顔、麗の狼狽した顔、菜摘の憮然とした顔、それに他の部員たちの喫驚した顔。ここにいる皆の視線がはるかを捉えていた。

涼太がはるかに告白し、迫っている姿。そして涼太を拒絶するはるか。皆、現実のシチュエーションとして想定できないことだった。はるかの足はがくがくと震えだし、その場に立っていられなくなる。必死に喉の奥から声を振り絞り、叫ぶように言う。

「あっ……あたしのことは、ほっといてください! でないとあたし……」

それだけ言うのが精一杯だった。気がつくとはるかは、皆に背を向けてひとり、廊下を駆け出していた。