当初の予定よりも長い時間、部員たちは待たされていた。フランクの「ヴァイオリン・ソナタ」を聴き終わるくらいの時間は経っている。その間、部員たちはそれぞれの演奏の品評や自分の出来栄えを語りながら、自分の立ち位置を推し量っていた。

そんな音楽室で悲痛の表情をした生徒がひとり。

花宮はるか。自身の不甲斐なさに泣き出しそうなのを絶賛、忍耐中である。

ひ-ん、こんな演奏しかできなかったこと、千賀先輩に報告できっこないよぉ。

自分のために時間を費やしてくれた千賀に対してあまりに申し訳なくなり、自分を責め続ける。

バカバカバカ、はるかの馬鹿! 一発勝負なのに余計なこと考えていたら駄目じゃない!しっかりしないと……って、もう手遅れだけど!

椅子の上に体育座りをして、自分の頭をふたつのこぶしでぽかぽかと叩く。

しばらく自虐的になっていたけれど、ふと手を止めて考え込む。涼太と麗の音符から放たれた、ふたりのほんとうの想いのことだ。

……麗先輩、高円寺先輩のことが好きだったんだ。なのにぜんぜん振り向いてもらえなくて、心の中で呼びかけていたんだ。

はるかは屋上に佇む千賀の姿を思い出す。

高円寺先輩は千賀先輩のことを……好き? 千賀先輩と高円寺先輩って、ひょっとして危ない関係……? 駄目よ、ダメダメ、あたしは腐女子じゃありませんっ! それにあの千賀先輩と高円寺先輩にかぎって、そんなことあるはずないもんっ!

そのシチュエーションは好奇心旺盛なはるかでさえ、すぐさま思考からかき消したいものだった。フルーツジュースをシェイクするかのように、勢いよく首をふりふりする。

少し離れたところにいる北川の神妙な表情が目に映った。しばらく様子を見ていると、愛用のトランペットを抱きかかえ、惜しむように音楽室を眺めている。泣き出してしまいそうな湿っぽさを漂わせていて、崩れないように理性で繋ぎ止めているような雰囲気があった。

はるかはその様子から、北川がこの選考会を最後にアンサンブル部での活動を終わらせようとしているのだと察した。

北川先輩、とっても寂しそう……。

音楽室の扉が開き、廊下で打ち合わせをしていた麗と涼太、それに山下先生がいっせいに姿を現した。部員たちは皆、口を閉ざして姿勢を正す。

麗は檀上に足を運び、一度、部員たちを見回した。ゆっくりと手元のボードに視線を移し、厳かな口調で言葉を発する。

「それではコンクールのメンバーを発表します。まずは混成八重奏でひとつ、グループを作ります」

すると皆、期待の表情がさらに濃くなる。混成なら楽器の制約でふるい落とされる可能性は低い。つまり、選ばれるのは実力次第だ。それに八名と出場枠が広く取られていることは、誰にとっても願うところだった。麗はメンバーに選んだ部員の名を呼ぶ。

「まずは水無月くん」

「はい」

低くて力強い声が弾けた。皆が立ち上がる男子生徒に目を向ける。

二年生の水無月は繊細かつ大胆に曲を演奏できるトロンボーン奏者。春のコンクールでもメンバーに選ばれた、誰もが納得する実力者。ぎゅっと引き締めた口元が意志の強さを感じさせる。

「それに有賀くん、大野くん」

小さく「よっしゃ」とふたつの声がした。部員たちから羨望のまなざしがふたりに向けられる。彼らはサクソフォン、クラリネット、フルートと、管楽器ならオールマイティで、しかも演奏の精度において右に出る者はいない。

「男子は三人、あとの五人は女子よ」

その配分も部員の男女比を反映していて、山下先生の忖度が垣間見える。麗はさらにメンバーを読み上げる。

「深井さん、南野さん、西山さん」

女子三人はぱっと明るい顔になる。今のところ名前を呼ばれたのは全員、二年生だ。一年生の部員は落胆したようで、ところどころからため息がもれる。菜摘も例外ではなかった。それから南野と西山は辺りに気を遣う様子もなく、立ち上がって高々と手を上げ、歓喜の声とともにハイタッチをした。

手を合わせる心地良い音が響いたけれど、同時に麗の鋭い視線がふたりを刺した。気づいたふたりは気まずそうな顔になり、そそくさと自分の椅子に腰を下ろす。

北川は顔を伏せ、ぴくりとも動かない。ハイカラトリオの中で選ばれていないのは北川だけだった。

麗は七人目のメンバーをさらりと告げる。

「あとは、一年の山村さんね」

「えっ?」

ゴツン!

ほとんど絶望だと思っていた菜摘は驚いて顔を上げ、勢い余ってのけぞり、後ろの席で伏せていた北川の脳天に後頭部を直撃させた。

「「いったあ~!」」

ふたりとも頭を抱えて悶絶する。菜摘は後ろを振り向き、「ごめんなさいっ!」と北川に謝るが、北川も「ごめん、あたしもごめんっ!」となぜか謝っている。

その様子を目にした麗は目を細めて口元を緩めた。悪戯っぽさが混ざっていて、どこか企みを宿しているようだった。

「山村さんは、実力は文句ないわ。ひとりだけ一年生だけど、気後れしないようにね」

「はっ、はい、頑張りますっ!」

菜摘は後頭部を押さえたまま立ち上がり、麗に向かって深々と頭を下げた。

「お礼を言うなら山下先生にもね。でも、これは正当な評価が反映された結果です」

七名のメンバーが選ばれたところでさらに続ける。

「あと、このグループのリーダーは……」

そう言ってから、麗はいくばくかのためらいを見せた。

部員たちは皆、このグループのリーダーは涼太か麗のどちらかだろうと推測していた。

ただひとり、北川だけは黙って突っ伏していて、ハイカラトリオの中で明暗を分けることになった自分の行為を後悔していた。

ほんとうは三人で一緒に演奏したかった。でも、そうできなかったのは自分のせいだと思い、両手で顔を覆って肩を震わせる。

「北川さん……」

北川は自分の名を呼ぶ麗の声に気づいた。様子がおかしいのに気づかれたのだろうか。事実、北川はこぼれる涙を気づかれないようと両手で顔を覆っていたのだ。

ところがその直後、麗は驚きの一言を発した。

それは――「このグループのリーダーは北川さんですよ」――という決定だった。

北川は麗の口にしたことが理解できず、あ然とする。信じられるはずがなかった。心の中で「どうして」と何度も問いかける。

けれど、音楽室は色めき立ち、南野と西山の祝福と、菜摘の「一緒に頑張りましょう、先輩」という激励が続けざまに届いた。

北川は昨日、麗に自分の行いを謝罪し、退部届けを提出し、麗は確かにそれを受け取っていた。それでいて麗が北川をリーダーに選んだことが何を意味しているのか。荒波が撒き散らす水しぶきのように、その理由が北川の心に降り注いできた。北川は少しずつ現実感を取り戻し、胸の中に熱い感動が広がっていくのを感じた。

「これから大変よ、リーダーとして皆を取りまとめ、それに後輩の指導をしていくのは。当面、部活に生活を奪われるわね」

ゆっくりと頭を上げると、北川の顔は皆がぎょっとするほど崩れていた。とめどなく涙があふれていて、鼻水は顎まで垂れていた。麗の信頼と期待が、北川の心を強く揺さぶっていた。

ひどく泣き崩れる北川に部員たちは苦笑していたけれど、はるかは感極まってもらい泣きすらしそうだった。

よかった、北川先輩の音楽が認めてもらえて。山下先生、麗先輩、ほんとうにありがとうございます。北川先輩にこれからも続く音楽の時間をプレゼントしてくれて。

はるかは自分のことはそっちのけで、北川がメンバーに選んでもらえたことが心底嬉しかった。麗の慈愛に満ちた采配に心が震え鳥肌が立った。北川の未来が明るく開けていくのを感じ、はるかの胸も光に照らされたような希望で満たされた。

「今回の選考は実力と情熱を勘案しました。この八名で頑張っていただきますので、課題曲は後ほど相談したいと思います」

そしてさらに続ける。

「もうひとつのグループなんですけど……」

そこで麗はいったん、口を閉ざした。一時は騒然とした音楽室にふたたび静寂が訪れる。

「皆さんにお願いがあります。この編成だけはどうか私たちのわがままを聞いていただきたいのです」

皆の視線は涼太と麗を行き来する。このふたりがあえて同じ演奏グループになろうとしたことは疑う余地もない。麗の丁寧な話し方は、そのことを意味しているのだと皆、思っていた。

けれど混成なのか、それともフルートの多重奏なのか。少なくともあと数人はメンバーに選ばれる可能性が残されているのだから、まだ選出されていない二年生を中心に、期待感は失われてはいなかった。

「では、発表します。もう一グループのメンバーは、高円寺涼太、それから私、清井麗。あとは……」

それから小さく息を吸い、まっすぐな視線を皆に向け、麗はメンバーを発表した。それは誰にとっても意外としか思えなかった。

「一年、花宮はるかさん」

えっ、と、疑問符が皆の頭の上に浮かび、視線がはるかに集中する。

当の本人は鳩が豆鉄砲を食らったような顔をし、視線をきょろきょろさせる。自分の名前が呼ばれたのは聞き間違いだと思っていた。ところが皆の視線の行く先が自分だと気づくと、麗を見て自分の顔を指差し小首を傾げた。麗は小さくうなずいた。

「その三人です」

ざわっと強い反感を含んだざわめきが起きる。高校生活最後のコンクールをたった三人で、しかも今、失敗したばかりのはるかだけを選ぶ理由が皆にはわからない。

涼太がすばやく壇に上がり、麗の隣に立って口を開いた。その表情に迷いはなかった。

「最後のコンクール、俺と麗は実力とはまた別な理由があって、どうしてもこのグループで演奏してみたいと思っている。これは俺のわがままであり、麗の希望でもある。

結果が悪かったとしても、俺たちは後悔しないし、それはすべて俺と麗の責任だ。だからこのグループを、俺たちの最後の思い出として譲ってほしいんだ」

麗と涼太は皆に深々と頭を下げた。その真摯な態度に部員たちは皆、納得せざるを得なかった。はるかはそこにどんな理由があるのかまるでわからず、困惑するしかなかった。