「おっはよ! 菜摘っ」

翌朝、教室で菜摘の背中を見つけると、はるかは笑顔で背中を軽やかに叩いた。

ところが振り向いた菜摘は今まで見たこともないようなこわばった表情をしていた。その菜摘らしくない表情にはるかはぎょっとする。

「ああ、はるか。おはよう」

菜摘は小さな声で返事をしたと思ったら、すぐに顔を背けた。はるかは選考会で緊張しているんだろうなぁ、とその心中を察した。

菜摘は授業中も休み時間も、まるで邪念を振り払うかのように譜面を見つめていた。指先が規則的なリズムで小さく動いていて、頭の中で旋律を繰り返しているようだ。はるかはそんな菜摘の様子に気を遣って、その日一日、なるべく声をかけないようにしていた。

授業が終わると菜摘はすぐさまひとりで音楽室へと向かった。はるかも早足で菜摘の後を追う。

廊下から窓の外に目をやると、昨日とはうってかわってどんよりとした空だった。上空を暗雲が覆っていて、妙に肌寒く感じられた。

着くと部員たちのほとんどが音楽室に集まっていた。皆、自身が演奏する楽器と向き合いその日の音色を確かめている。痛いほどの緊張感が漂っていた。

みんな本気なんだなぁ。

山下先生、涼太、そして麗は教壇を囲むように集まり、選考会の打ち合わせをしている。断片的に聞こえる言葉を繋ぎ合わせてみると、それぞれの楽器に対応した課題曲、伴奏の音楽、そして演奏の順番などを入念に確認しているようだ。三人の真剣な横顔がなおさら部員の緊張感を高める。

しばらくすると麗が顔を上げ、皆にアナウンスした。

「それでは始めましょう。今日が最後ですので、この選考会が終わりましたら、コンクールに出場するメンバーを発表したいと思います」

このコンクールは涼太と麗にとってアンサンブル部最後のイベントだから、ふたりの意向が多分に入るものと思われた。メンバーの決定は秋のコンクールまで部活に参加していた三年生の権利で、山下先生もその意向を尊重すると明言している。

先週の場面を再現するかのように、無言で椅子が並び替えられる。整列したところで皆、着席し山下先生の挨拶を待つ。

山下先生は教壇に上がると、小さな笑みを浮かべてこう言う。

「皆さん、それでは心置きなく精一杯、心の赴くままに演奏してください。めでたくメンバーに選ばれた方は、来月開催されるコンクールに向かって相当な練習を積まなければなりません。今まで以上に大変な日々が待っていると思って覚悟してください。でも、もしも望んだ結果が得られなくても、皆さんの音楽性が否定されたわけではありません。ですからそのときは必ず演奏のメンバーに選ばれた部員を応援してくださいね」

挨拶の最中に菜摘に目をやると、菜摘は愛用のサクソフォンを握りしめ、その言葉に聞き入っている。口元は引き締まり視線が鋭い。話の途中でごくっと唾を飲み込んだ。

頑張ってね、菜摘!

はるかは上級生に挑戦する立場の菜摘に対して、心の中でエールを送る。

次に北川に目を向けると、北川もまた、真剣な面持ちで山下先生の挨拶に耳を傾けている。北川はこの選考会をアンサンブル部最後のイベントにして退部するつもりなのだろうと、はるかは察していた。

麗がマイクを握り、皆にアナウンスする。今日だけは麗でさえ、普段よりも緊張の色が濃いように思えた。

「それでは始めたいと思います」

はるかは銀色のフルートをしっかりと握りしめ、席を立とうと腰を浮かせる。そのとき、麗がさらに説明を続けた。

「ちなみに、今日は先週とは逆の順番にします。二年生から演奏を始めてください。最初は北川さん、お願いします」

一瞬、音楽室がざわっとする。

「はっ、はい。すぐ準備します」

虚を突かれた北川はトランペットを手に立ち上がり、あわただしく檀上へと向かう。

「それではトランペットの課題曲、『ハレルヤ』お願いします」

麗は音響のスイッチを入れる。北川の心中を気にも留めないような晴れやかな伴奏が音楽室に広がる。

北川は大きく深呼吸をしてからトランペットを構える。今までの練習のすべてをここに込めて終わらせようという、張り詰めた覚悟を漂わせていた。

そしてトランペットから吹き出された音色は、普段の北川のそれよりもはるかに力強く艶やかだった。

うわぁ、綺麗な音色!

はるかは音色の力感に圧倒される。放たれた音符は眩しいオレンジの輝きを放ち、北川の得意とするグリッサンドに合わせて滑らかに宙を舞う。楽しげで快活で、なによりひたむきな音色は、聴く者の心を容赦なく震わせる。

そして、余韻を残しながら消えていく北川のメロディは、達成感と名残惜しさの感情を物語っているようだった。

三分間の演奏が終わると、北川は大きく息を吐き、それから吹っ切れたように燦然とした表情を浮かべた。文句ない拍手が沸き起こる。

北川先輩、やっぱりすごかったなぁ。

北川は麗の方を向いて深々とお辞儀をした。麗も納得したような顔をしてうなずく。その様子を見てはるかははっきりと気づいた。

ああ、北川先輩はあのことを麗先輩に伝えていたんだ。

事情を知るはるかは、そのふたりの間の見えない会話を察することができた。

北川は絞り切った情熱の、最後の一滴を味わうかのように壇を降りていく。最後に自身が演奏した舞台を振り返った。

それから部員たちはめくるめくメロディの荒波に心を委ねつつも、心の中で自身の旋律と他人のそれを冷静に比較していた。

選考会では目には見えない優先順位の列があり、先頭には麗と涼太の背中がある。自分がいま、どの程度の評価の位置にいて、誰が目の前に割り込んでくるのか。はたしてコンクールのメンバーに残れる可能性はあるのだろうか、と。

そうして音楽室に生まれる音色は皆の心中で感性の天秤に載せられていた。駆け引きのような緊迫感が張りつめ時間の流れが加速する。瞬く間に二年生の演奏が終わり、一年生の順番も矢の如く過ぎてゆく。

けれど皆、二年生と一年生の間には歴然とした実力の差があることに気づいていた。ハイカラトリオをはじめとした二年生のレベルはきわめて高く、その差は一週間前の選考会よりも大きく開いているくらいだ。

追われる者の危機感は、ときに飛躍的な実力の向上に繋がるが、二年生の部員の多くはまさにそうだった。途中から一年生の間には諦めの雰囲気が漂っていた。順番を待つ菜摘の面持ちがさらに厳しくなってゆく。

そして菜摘の名前が呼ばれた。

「次は山村さん、前に出て演奏を始めてください」

菜摘はサクソフォンを握りしめ、意を決した表情で檀上へと向かう。

「サクソフォンの課題曲はカルメン幻想曲です」

誰もが息を殺して菜摘の演奏を待つ。まるで戦いの火蓋が切って落とされるような緊迫した雰囲気だった。菜摘の実力は、二年生が恐れる「下剋上」を成し得るだけのものだからだ。

厳しい視線がじりじりと菜摘を焼き焦がす。本気でコンクールのメンバーを狙っている菜摘にとっては、周りは敵だらけ。

けれど菜摘はそのプレッシャーに負けることがなかった。伴奏の開始とともにサクソフォンを掲げると、歯切れよく躍動感のある音を生み出し、時折、洒落たポルタメントを織り込んでいく。無邪気さと情緒豊かな色気を兼ね備えたメロディは、聴いた者の競争心を奪うほどの勢いがあった。

菜摘、いつにもまして凄いっ!

はるかは驚き胸を弾ませる。菜摘の個性である外連味のなさだけではなく、鬼気迫るような迫力がそこには感じられた。

演奏が終わって音色が消えゆくと、菜摘はサクソフォンをゆっくりと下げ、納得した顔を麗に向けた。麗は小さくうなずくと、「はい、お疲れ様でした。もう結構です」と、いたって事務的に菜摘の順番を終了させた。

菜摘は全力を出し切れたようで、自分の席に戻ったところで一気に脱力し、椅子にもたれかかって深く息を吐いた。

はるかは演奏を聴いて部員たちのレベルの高さに驚いていた。毎年県大会に出場しているのだから、このアンサンブル部は名門といえば名門だ。そして皆、たった数分間の演奏のために莫大な練習時間と労力を費やしている。そのことを今になって痛切に感じた。

メンバーに選ばれるということは、魂を削って練習するようでなければ辿り着けない、愚直の極みのように感じられた。

はるかも自分なりに練習してきたつもりだったけれど、この一週間は麗の指示で曲を変えているのだから及ぶはずがない。

うーん、このピリピリした雰囲気の中で演奏するのは、やっぱり緊張するなぁ。

演奏は残すところ、はるかだけとなった。

「それでは最後、花宮さんどうぞ」

「はっ、はいっ!」

とたん、すべての視線がはるかに向けられた。部員たちのはるかを見る目は一週間前とは大きく変わっている。

えっ、何? この変な雰囲気。

先週の選考会ではるかが演奏したメロディのインパクトがそうさせたのだと、はるかだけが気づいていなかった。だからはるかはピーヒョロロのお家芸を期待して投げかけられた好奇の視線だと思った。

気を取り直し、フルートを握りしめ檀上へと向かう。そのとき、はるかの視界は檀へ上がる麗の姿を捉えた。麗もまた、はるかと同じようにフルートを手にしていたのだ。

その様子を目にして部員が皆、ざわつき始める。

麗は檀上に立ち、はるかの隣に並んだ。異色の合奏が始まるのだと確信したのは、麗の真剣なまなざしが、演奏を始めようとする奏者の雰囲気を宿していたからだ。

麗先輩……?

はるかはなぜ、麗が自分の隣に立ったのか理解できなかった。ところが麗はさらに涼太に視線を向け手招きをした。

えっ、高円寺先輩まで!

涼太は自分の顔を指差し、不思議そうな顔をした。その反応に麗はうなずき自分のフルートを指差した。付き合いの長いふたりなだけに、アイコンタクトとジェスチャーで会話は成立している。

『俺も一緒に演奏しろと?』

『ええ、そうよ。フルートを持って』

涼太は怪訝そうな顔をしたが、自分のフルートを手に取ると檀上へと向かった。はるかはあっけにとられるばかりだった。

麗は事情を理解できていないふたりに向け、意味ありげな笑みを浮かべる。

「最後は三人で演奏させてもらうけど、いい?」

やっぱり合奏するつもりなんだ。

はるかはどうして麗がそうしようと思ったのかわからなかった。けれど、自分は見世物のような立ち位置なのだからと思い、黙って従うことにした。

音楽室は静粛な雰囲気だったのに、いまや混沌としたざわめきに包まれている。椅子に座って並ぶ部員たちは互いに顔を見合わせ、麗の意図や経緯を推察する。

けれど、真意は麗の胸中にしかない。

「それでは、最後の演奏は私が花宮さんに課題曲として伝えていた、『想い出は銀の笛』です」

はるかと涼太は同時にはっとした顔をする。はるかは直感した。

麗先輩は三人でフルートを奏でようと思って、この曲をあたしの課題曲に指定したんだ。でも、どうして……?

涼太はすぐさま麗に小声で語りかける。

「おい、どういうことなんだよ麗。なんでよりによってこの曲を花宮に演奏させるんだ」

麗は迷いのない表情でさらりと返す。

「涼太、あなたも先週、花宮さんが奏でたフルートの音色を聴いたでしょう。その音色にあなたは何も感じなかったのかしら? ――似ていたわよね」

「ああ、確かにそうだ。だけど花宮の言うことが正しいのなら、そんなはずはない」

涼太はまじまじとはるかの顔を見つめる。目の前のはるかを誰かと重ねているような、猜疑心(さいぎしん)を含んだ視線だった。

はるかは切れ長の目に捉えられ後ずさりをする。

高円寺先輩、どういうつもりなんだろう。

涼太ははるかを壇の中央に立たせ、麗と涼太が左右に立つ。はるかはハイスペックなふたりにサンドイッチされ緊張をあらわにする。

演奏の準備が整うと、いやおうなしに静寂が訪れ、はるかの胸をざわめかせる。そこで麗は涼太とはるかに向かってそっと口を開く。

「じゃあいっそのこと、四重奏でどうかしら。パートBはブランクで」

えっ、四重奏!? しかもひとつだけ演奏しないパートを作るって、麗先輩、どういうつもりなの!?

麗がはるかに対して課題曲として指定した譜面は、確かに四重奏の構成だった。

麗先輩は、喫茶店で待ち合わせたときから、三人で四重奏を奏でるつもりだったんだ。

はるかは千賀と一緒にフルートでこの曲を演奏したとき、パートを自在に飛び回り追いかけっこをしたのを思い出す。あのときは勢いに任せて上手く演奏できたけれど、星の光ではなく皆の視線が降り注ぐこの場で、そんなトリッキーな演奏なんてできるはずがない。

突然、涼太が声を荒らげる。

「俺はそんなつもりではなかったんだがな。それに花宮に代わりが務まるものか」

麗は涼太の拒否的な態度に対して冷静に応じる。

「だから四重奏なんじゃないの。ちゃんと席は空けてあるわよ。それがあなたの望みでしょう」

麗の瞳はけっして揺らがない意思の強さを放っていた。涼太も自分の意思の強さを見せつけるかのように鋭い視線で麗を見返す。

はるかは危機迫るやり取りに麗と涼太の狭間でおろおろする。

麗は困惑したはるかに気を遣ったのか、視線をはるかに移して優しげな小声で囁いた。

「ごめんなさいね、それじゃあ演奏しましょうか」

「ひゃっ、ひゃいっ! 演奏させていただきますっ!」

はるかは平常心を取り戻そうと速攻で深呼吸を繰り出す。麗は涼太の神経を逆撫でしないように、丁寧な口調で言う。

「これは花宮さんの選考会よ。あなた自身が一緒に演奏した彼女を評価してあげて」

涼太はしぶしぶ首を縦に振り自分のフルートを構えた。麗は涼太が納得したのを見届けてフルートに唇を添える。

三人による合奏が始まった。個性溢れる音符たちが放たれる。皆は今まで以上に耳を澄まし、麗と涼太、そしてはるかの合奏に耳を傾ける。

麗は常に後輩の指導に尽力していたから、部員全員の前で曲を通して演奏する場面はめったになかった。見本としての断片的なパッセージを奏でるくらいだ。けれど「氷の女王」と呼ばれた麗のフルートの音色はビブラートが美しく、まるで胸中に宿す複雑で繊細な感情を表現しているかのようだ。

麗の放つピュアブルーの音符が軽やかに舞い広がる。

音楽室の壁が、窓ガラスが、そして天井が、深く澄んだ音色に震えているようだった。

なんて表現力なんだろう、すごい!

はるかが麗の奏でる音色の純度に圧倒されていると、反対側のフルートからは真紅の熱を込めた音符が勢いよく吹き出していた。溢れる情熱をためらいなく吐き出す涼太の音符は、真紅に燃えているように見える。

はぁ、高円寺先輩も流石だなぁ。

三人目のパートであるはるかもふたりを追ってフルートを演奏する。澄んだ色の音符を放ちながら、自分なりの演奏で旋律の波を追いかける。

けれどすぐさま、今までに感じたことのない違和感がはるかに訪れた。

あれ、なんかおかしい……。

はるかが千賀と屋上でこの曲を奏でていたときは、自分の胸の鼓動や呼吸が千賀の奏でる旋律のリズムと一致している感覚があった。息を吸うように千賀のメロディを掴まえ、息を吐くように自分の音符を生み出せていた。

けれどこの檀上では、涼太や麗のメロディとハーモニーを奏でられていなかった。ちぐはぐな音色から抜け出せなくなる。

えっ、あたし、ぜんぜん上手く演奏できない……。

その理由は、はるかの演奏の腕の未熟さによるものではなかった。

同じ楽曲を演奏しているというのに、双方から放たれる涼太と麗の音色がまるで絡み合っておらず、はるかの旋律が路頭に迷っていた。

麗と涼太のふたりであれば、どんな曲を演奏しても綺麗なハーモニーを奏でられるとはるかは思っていた。けれど涼太に目をやると、涼太は麗やはるかを意識することなく、ひとり気の赴くままに曲を奏でている。

いや、正確にいえば、ここにいない誰かと合奏しているつもりになっているような気配があった。はるかの直感が働く。

四重奏の最後のパートは、きっとその人のために用意してあるんだ。

涼太には演奏をともにする「誰か」がいたはずで、その「誰か」との合奏を望んでいる。そして、そのことを麗はよく理解している。はるかにはそう思えた。

だけどどうして、あたしがその合奏に巻き込まれたんだろう?

はるかはメロディを奏でつつ、記憶の中から手がかりを探そうとする。すると思い出したことがひとつあった。先週、涼太と麗に呼び出され喫茶店で言われたことだ。

『私も涼太も、あなたのメロディがある人のそれにとても似ていることに気づいたの』

不揃いなメロディが時間を奪ってゆく中、はるかの疑問はどんどん膨らんでゆく。

演奏に集中できずにいるはるかとは対照的に、右側から叩きつけられる涼太の音色と、左側から吹きすさぶ麗の音色は高まりを見せてゆき、檀上を、いや、音楽室全体を揺るがす壮大な響きに変わりつつあった。

それは美しくもあり、恐ろしくもあった。部員たちは涼太と麗の弾ける音色に震撼させられ、心を奪われているようだった。

駄目だ、集中しなくちゃついていけっこない。

圧倒的な迫力の音色がステレオで迫りくる中で、はるかはその威力に耐えながら、必死に自身のメロディを紡ごうとする。

涼太の放つ烈風のごとき深紅の音符はさらに勢いを増して渦を巻き、炎の嵐となってはるかに襲いかかる。麗の繊細で大胆なビブラートを凝縮したピュアブルーの音符は、天を震わす吹雪となって容赦なくはるかに打ちつける。

ああっ、ふたりの勢いにあたしの音色が押しつぶされるっ!

心の中で悲鳴をあげた瞬間、音符たちははるかの肌に触れて弾け散り、花火が暴発したような衝撃をはるかに与えた。

涼太の放つ深紅の爆風がはるかの意識に襲いかかる。

『俺はあなたをいつまでも愛しています、貴音さん、貴音さん、貴音さん……』

ええっ! 貴音さんって……千賀先輩!?

はるかはその意味をすぐには理解できなかった。常識と理性が追いつかなかった。

けれど涼太の熱を込めて演奏する姿は、まるで求愛行動そのもののように見えた。抱えきれない心の叫びを音色で代弁しているような、そんな危うい熱意が感じられた。

直後、ピュアブルーの音符が砕け散り、氷のつぶてがはるかの意識に鋭く突き刺さった。

『涼太、愛しているよ。ずっと抱き続けたこの気持ち、どうか涼太に届いて――』

ええっ!? 麗先輩、高円寺先輩のことをそんなふうに思っていたなんてっ!

まるですがるような悲痛な叫びに、はるかの心臓は驚き跳ねあがる。

麗と涼太の親密な関係は、高校生活の終焉とともに幕を閉じてしまうに違いない。だから麗は青春時代の片隅に、涼太との思い出を描きたかったのだろう。

ところがそのささやかな願いすら、涼太の千賀に対する想いにかき消され、蜃気楼のように掴めないものとなってしまっていた。

麗先輩は、このコンクールを高円寺先輩との最後の思い出にするつもりなんだ。

ふたりの気持ちを知ってしまったはるかは動揺し指先が震えだす。フルートを持つ手すらおぼつかなくなる。呼吸が乱れ、嫌な汗が全身から噴き出る。

はるかの心臓はプレスティッシモの速さで打ち鳴らされ、いまにも破裂しそうだった。

カチカチカチカチ……。

ドクドクドクドク……。

乱れた旋律は冷静さを保とうとしても、元に戻すことはできなかった。

そしてはるかはついにやらかしてしまった。突然、フルートから奇妙な音色が飛び出す。

「ピィ~ヒョロロ~」

しまったっ!

先週の選考会で身を潜めていたお家芸の音色が音楽室に広がった。その場の全員が、はるかの放った音色を聴き取ってしまった。

麗が演奏する手をぴたりと止めた。応じるかのように、涼太も演奏を中断した。ふたりの音色が薄らいで教室から消えてゆく。涼太も麗も、申し合わせたようにフルートを唇から離す。

緊張していた音楽室の空気はとたんに緩んだ。なかには吹き出す部員さえいた。

「もう、演奏は終わりの時間です」

麗の放つ強制終了の一言に誰もが黙り込む。

はるかは申し訳なさと恥ずかしさがいっぺんにこみ上げ、すがるように麗に視線を送る。麗は自分で持ちかけた合奏の残念な結末に、言葉が見つからず困惑している。涼太もまた、その場に立ちすくんだままでいた。

演奏が終わり自失呆然としたはるかには、先週見せた、崇高な女神のような面影はなかった。

あのときのはるかの演奏は、音楽の神様がもたらした気まぐれだったのだろうと、皆は思った。

けれど麗と涼太だけは、それでもまだ、はるかの音色に込められた不思議な旋律を否定できずにいた。